「我が国の歴史を振り返る」(11) 江戸幕府滅亡への道行き
▼「太平天国の乱」と「第2次アヘン戦争」
今回は、いきなり本文に入りましょう。まず19世紀後半の隣国・清の状況です。
1851年、清が衰退する原因となった「太平天国の乱」が発生します。洪秀全(こうしゅうぜん)を天王とするキリスト教組織の反乱と言われていますが、その実態は複雑かつ大規模で、全盛時は中国の南半分を勢力下に収めたと言われ、1864年まで続きます。
1856年、清の混乱に乗じたイギリスは、フランスと組んで「第2次アヘン戦争」(「アロー戦争」とも呼ばれます)を仕掛け、「天津条約」(1858年)によって、アヘン戦争後の「南京条約」で認めさせた5港に加え、さらに南京など11港の開港を認めさせました。しかし、清廷内で条約に対する非難が高まったため、英仏軍は天津に上陸し、北京を占領してしまいます。
1858年、イギリスはまた、インド大反乱の後、インドを併合し、イギリス領インド帝国が成立させます。フランスがベトナムなどインドシナ植民地を企図して遠征軍を派遣したのもこの年でした。
他方、クリミア戦争(1853~56年)の敗北によってバルカン半島の“南下”を閉ざされたロシアは再び東アジアに目を向け、「太平天国の乱」や「第2次アヘン戦争」など清の混乱を見逃しませんでした。
ロシアは、軍艦から鉄砲を乱射して、調印しなければ黒竜江以北の満州人を追い払うと脅迫し、「アイグン条約」(1858年)によって黒竜江以北の外満州の割譲を認めさせました。外満州の面積は何と約100万平方キロメートル、我が国の約2.6倍に相当する面積です。この広大な国土を一瞬にして失った清はのちにこの条約を否認しますが、当時の状況から何ともなりませんでした。
▼「幕府の統治システム」形骸化と「天皇の権威」復活
このように、周辺情勢が極めて喧噪だった1858年、我が国は、ハリスとの間で「日米修好通商条約」を結びます。これらの情勢を熟知していたハリスは、英仏艦隊の来航の可能性とアヘンの有害を説き、「アメリカとの通商条約の締結が日本にとっても有利だ」と説いたといわれています。
問題は、朝廷の“勅許”を得ずして通商条約を結んだ幕府側にありました。これが、結果として幕府の“命取り”になります。
振り返れば、約260年前に始めた「鎖国」は、朝廷の“勅許”を得て始めたとの記録はないのに、なぜこの時点で“勅許”が必要だったのか、この200余りの間に何が変わったのか、不思議と言えば不思議です。それを解明するため、「江戸幕府の統治システム」形骸化と「天皇の権威」復活についてその実態を振り返ってみましょう。
徳川幕府の全国統治の拠り所は、朝廷から与えられた「征夷大将軍」という称号にありました。しかし、朝廷の領地は、最初は1万石、後に3万石となりますが、徳川幕府の8百万石と比べるとほんのわずかでした。その上、「禁中並公家諸法度」(きんちゅうならびにくげしょはっと)(1605年)によって天皇の権限は制約され、行幸も認められず、京都御所に軟禁状態でした。御所は京都所司代によって監視され、西国大名が参勤交代の際に立ち寄ることも牽制されていました。
他方、2代将軍秀忠は、譜代大名の中から数人を「年寄」に任じ、政務を任せました。これが「老中制度」の基盤になって、幕政は「老中」たちの合議制で運営されるようになったのです。そして、将軍に次ぐ幕府のナンバー2の地位にあった「大老」は、常設職ではありませんでしたが、家柄も井伊、酒井、堀田、土井の4家に限られていました。
江戸幕府は、幕藩体制の“和”を重視した基本理念から「長子相続制」(能力にかかわらず長男であれば家督を相続)を厳重に実行しました。その結果、時代を経るにつれ、絶対的権力者としての将軍は鳴りを潜め、幕府の“象徴的な存在”になっていきます。歴代の将軍たちが権威をほしいままにして幕政を支配したようなイメージがありますが、実態はかなり違っていたようです。
次に「天皇の権威」の復活です。私達は、我が国は「天皇」という呼称を絶えることなく使用してきたと考えがちですが、実際には、平安時代初期の第52代嵯峨天皇の時から、天皇の権威の低下と連動して「嵯峨院」のような「院号」が使われるようになり、平安中期の第63代冷泉(れいぜい)天皇から「冷泉院」として正式に「天皇号」が使われなくなりました(ちなみに、「院号」は天皇以外でも使えます)。
「天皇号」を復活させたのは、それから約900年後、江戸中期、明治天皇の曾祖父にあたる第119代の光格天皇でした。光格天皇は、まだ9歳という幼少の身でありながら、「天明の大飢饉」(1787年)の際の幕府の無策にたまりかね、「なんとかせよ!」と書付を送ったり、宮中の行事を再興させて「天皇の権威」を取り戻しました。
光格天皇は譲位によって退位します(現在の上皇陛下の前、歴史上最後の譲位でした)が、崩御後、生前あまりにも偉大だった英主を偲び、「天皇号」を追贈しようと朝廷は幕府と交渉してこれを認めさせたのでした。なお、大日本帝国憲法で「院号」は廃止され、すべて「天皇」に統一されます。
光格天皇が行った最大の偉業は、実は、外交関係への関与でした。1811年、ロシアの海軍士官のゴローニンが国後島で捕獲され、松前に約2年間留め置かれた「ゴローニン事件」が発生します。最終的にはロシアに捕らえられた高田屋嘉平衛と交換という条件で釈放されるのですが、光格天皇は、「ゴローニン事件」の交渉経過について幕府に説明を求めました。「外交権」は君主、つまり天皇にあることを示したのです。この辺から、天皇と幕府の間の力関係が微妙に変わってきました。
幕末になり、幕府の弱体化に加え、異国船の来航など世の中が騒がしくなると、老中たちは、“象徴的な存在”である将軍のさらに上位に位置する朝廷の“権威”を度々活用するようになりました。時には、朝廷側が「そんなことを聞いていいのか?」と逆に問い直したともいわれます。その延長に通商条約の締結があったのです。
▼「日米修好通商条約」締結の真相
ハリスが条約締結を迫ってきた当初、老中首座の堀田正陸は、孝明天皇の“勅許”を得て条約締結を企図しようとしますが、攘夷派の少壮公家の抵抗もあって“勅許”は得られませんでした。孝明天皇自身も「鎖国・攘夷は歴代天皇の意思で、神々に申し訳ない」との思いが強かったようですが、反面、幕府の力を頼りにしていたともいわれています。
事態打開のために、堀田は、福井藩主の松平春嶽の大老就任を画策したようですが、大老が4家に限られていたため、就任したのは、文武両道に秀でた教養人といわれた彦根藩主の井伊直弼でした。
その直弼も最後まで“勅許”を優先させることを主張し、即時調印を主張する幕閣大勢の中で孤立します。それでも直弼は、交渉担当の下田奉行・井上清直に出来得る限りの調印延期を指示しますが、井上はその意向を無視し、調印してしまった(1858年)というのが真相のようです。
冒頭に紹介したような周辺環境の激変から、迫りくる“脅威”を感じ取った幕閣たちは、「開国こそが我が国存続のための唯一の方策」と判断し、条約締結を強行したのでした。このようにして、幕府は、同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結びます(「安政の5カ国条約」といわれます)。
▼「安政の大獄」と「桜田門外の変」
国内的には、“勅許”を得ないままの条約締結が問題になりますが、もはや後戻りができません。大老・井伊直弼の苦悩が目に見えるようですが、加えて、病弱で子供がいなかった第13代将軍徳川家定の継嗣を巡って、一橋徳川家当主・徳川慶喜を推す一橋派と紀州藩主・徳川慶福を推す南紀派が激しく対立します。直弼は強権を発動して紀州藩主慶福を後継に決定します(慶福は家茂と改名します)。
直弼は、条約反対派や慶喜擁立者などの幕臣、志士、公家衆などを大量に処罰する(「安政の大獄」です)とともに、一部の条約推進者も排除し、権威の回復に努めました。しかし、明治維新の精神的指導者の吉田松陰や橋本左内などの有為な人材まで死刑にしたことから、逆に幕府の権威に対する不信感を増大させる結果となります。
このような混乱の中の1860年、井伊直弼は水戸藩士らに暗殺されてしまいます(有名な「桜田門外の変」です)。幕府最高の重職である大老が、江戸城の前でわずか20人足らずの浪人らに殺されたのですから、本事件は、これ以上ない幕府の“権威失墜”となったのでした。
(以下次号)