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「我が国の歴史を振り返る」(81) あとがき(その1)

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▼はじめに

 だいぶ前のことですが、自衛官の大先輩から「フーバー大統領の回顧録『裏切られた自由』の訳書を読み、歴史観が変わったが、あなた(私)はどう思うか」というご質問をいただきました。

私自身は、フーバー回想録については、邦訳される前、つまり『フリーダム・ビトレイド』について様々な研究家の解説文などを読ませていただき、その概要はかなり前から承知していました。当然ながら、私の歴史観に多大な影響を与え、講話などでは、フーバーの有名なフレーズ「日本との戦争の全ては、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望であった」などを引用して紹介しておりました。

本シリーズでは、当時の時程に従って日米開戦に至る“史実”を追いかけた結果、フーバー回想録を引用する機会はほとんどありませんでしたが、「日米戦争は、日本が一方的にしかけたわけではない」とする私の見方の根拠のひとつは、フーバー回想録に拠っていました。

そして、今でも反共主義者のフーバーの考えは正しかったと確信しております。最近、スタンフォード大学フーバー研究所の西悦夫氏などが時々明らかにしておりますように、第2次世界大戦前後の歴史には謎に包まれたまま放置されている“事実”がまだまだあるようですので、今後明らかになってくるのを楽しみにしているところです。 

▼歴史観の涵養について  

 さて、歴史シリーズ「我が国の歴史を振り返る」も、ようやく「あとがき」までたどり着きました。

最近、偶然にもインターネットで「歴史観はどのように身につけるか」について書かれたものを見つけました。答えは「歴史の本を読むしかない」とありました。「日本の教育現場に求めても無駄、歴史学はほとんど無視されている。日本の歴史をまともに教えられる人は限られている」と続きます。

そして、「歴史観」を鍛える第1原則は「歴史の本を読むこと」、第2原則は「とにかく量をこなすこと、歴史小説でも何でもいいので歴史に関するものを全部読んでみる、そのうち“何が本当か否か”わかる。この段階になると、“自分の呼吸に見事に重なる歴史”に出会うはずだ」とあります。

さらに、「鍛錬は10年ぐらいかかるので、10代の若いうちに始めるがよろしい」と解説していました。

すでに告白しましたように、私の場合は、40代の後半になってから、米国人ジャーナリストのヘレン・ミアーズ女史が書いた『アメリカの鏡:日本』との出会いがまさに「歴史との出会い」でした。

それから20年余りの歳月が流れましたが、手当たり次第に「歴史」に触れてきました。そして、いつの頃からか、確かに“自分の呼吸に見事に重なる歴史”を見つけたような気がしております。

冒頭に紹介しましたが、歴史学者の岡田英弘氏は、「歴史は物語であり、文学である。歴史は1回しか起こらない。くりかえし実験できないので科学の対象にならない」として、「それを観察する人がどこにいるかの問題がある」(原文のママ)と指摘し、それこそが“最も重要なこと”、つまり、「歴史の見方は、『立つ位置』により全く違ってくる」と解説しています。

本文に度々引用した「歴史」は、まさに“私自身の呼吸と重なる歴史”でしたが、歴史を学ぶうちに、“自分の呼吸と重ならない歴史”がたくさんあることも発見しました。ページの都合もあって、“呼吸の合わない歴史”の引用をあえて省きました。

そして、「歴史」を史実か否かを問わず、政治や外交の一手段として活用している国が存在することや「歴史と史実は違う」こともわかり、さらに、「あらゆる歴史を史実かどうか疑ってみる」という“癖”までついてしまいました。

一方、「何が史実か」を見極めること自体が本当はとても難しいことにも気がつきました。当たり前ですが、「史実」の100%を解明するのは土台無理な話なのです。よって、「歴史」と「史実」の隙間に、後世の歴史家らの“想像”とか“解釈”とか“意図”が入ります。これこそが歴史家らの“史観”とか“視座”といわれる部分なのでしょうが、これこそが曲者で、歴史が歪曲されるところでもあるのです。

よって、「史実」はひとつでも、見方によっては180度違った「歴史」として伝えられます。長く「歴史」を勉強している間に、そのような「歴史」に度々出会いました。歴史家や研究家達は、「史実」を自分なりのストーリーで組み立てなおし、一度造り上げた先入観(視座)をもって、しかも後追いでそのストーリーに適合する“一次史料”を漁り、それに反する史料を排除する傾向があるようです。

特に、「日記」のたぐいは要注意です。いつの時代も、また洋の東西を問わず、人間は「自分本位」です。自らを正当化することは当たり前なばかりか、1人の人間が“見える範囲”も限定されます。現在のように、テレビやインターネットを活用して地球の裏側までリアルタイムに見えるわけがありません。

こうして、手当たり次第に歴史書をあさっている間に、まさに、「史実は1つ」なのですが、「歴史は物語」であり、「100人おれば100の歴史がある」ことを実感してしまいました。

▼「歴史」とは

世の中には、日本の歴史とか世界の歴史、あるいは特定の歴史に焦点を当てた書籍に加え、単に「歴史」と冠する書物で溢れています。「歴史の教訓」「歴史とはなにか」「歴史の愉しみ方」「歴史戦」「かくて歴史ははじまる」「歴史の終わり」などその内容も様々です。

これらのうち有名な書籍はほとんど目を通しましたが、これらは、それぞれの著者が学び、感知した「歴史」を要約したものが多く、一般の読者がそれぞれの著者が感知し得た“世界”を理解するのはなかなか難しいことが分かります。

本シリーズにおいても、高名な著者の名前にまかせ、なぜこの境地に到達したかについて消化不良のまま引用させていただいた部分がたくさんあります。その良しあしは別にして、一つの見方として参考になるからです。

さて、本歴史シリーズ自体も私が造り上げた「歴史」に過ぎないのですが、私の場合は、世界史と日本史の“横串”、つまり同じ時に生起した両サイドの「歴史」の関連性を重視するとともに、これまで発表されている様々な「歴史」に逆らい、いつも“歴史の裏側をみる”ような視座を意識しつつ振り返っていました。その結果、これまでとは少し違った「歴史」が見えてきたような気がしております。

そして、池間哲郎氏のいう「歴史は人格教育だ」と視点について、自分で言うのは気恥ずかしいですが、確かに、「歴史」を学ぶことによって、他の人の「歴史」に寛容になっている自分を発見しました。

「自分自身が成長できた」「自分に自信が持てるようになった」ということを実感し、だからこそ、改めて「日本人よ、特に若者よ、歴史を学ぼう」と今こそ声を大にして訴えたいと思うのです。

▼我が国の歴史を俯瞰する

 本シリーズの狙いは、「我が国の歴史」、中でも「我が国の『国防』の変遷」をメインテーマに、我が国と西欧列国や周辺国との関係を中心に振り返り、探り、史実をあぶり出し、「なぜ我が国が江戸、明治、大正時代を経て激動の昭和時代を経験せざるを得なかったのか」を探求すること、そしてこの「歴史」から教訓や課題を学び、その延長で「現在そして未来はどうあるべきか」などを考えることにありました。

ここで我が国の歴史をざっと俯瞰しますと、西欧人が我が国周辺に出没し始めた16世紀以降の我が国の歴史は、“割と静かに時が流れる”「静」と“変化の激しい”「動」が交互に繰り返しているように見えるのです。

まず、戦国時代は国内が混乱し、その末期には西欧人の到来があるなど「動」、鎖国の江戸時代は「静」、幕末から明治維新、日清・日露戦争を含む明治時代は「動」、大正時代は再び「静」、そして昭和の前半は再び「動」、昭和の後半以降現在までは再び「静」です。

知る限りにおいて、我が国の歴史をこのように俯瞰している人を見たことがありません。私は歴史家ではなく、歴史の研究者としては素人なるがゆえに、このような乱暴な見方ができるのだと思います。

「歴史」を研究する立場からすると、「静」の時代の研究は確かにおもしろくありません。“動き”が少ないので研究材料が乏しいのです。本文で大正時代の歴史書がないことを指摘しましたが、私個人にとりましても、昭和後期以降、つまり戦後の歴史の中には“わくわくするようなテーマ”を見つけることが今なおできません。

他方、我が国の歴史は、過去に2度の「静」の時代に、来るべき「動」に備えた国家の態勢整備を怠ったがために、国家の命運を根本から変えるような「動」の時代を迎えることになったと思えてならないのです。

鎖国によって“太平の世”をむさぼるあまり、市民革命や産業革命など国際社会の大きなうねりに取り残された江戸時代、そして日清・日露戦争の勝利と大正デモクラシーに酔いしれて、西欧諸国の近代化や共産主義の拡大などに追随できなかった大正時代はその典型ではないでしょうか。

その上で、「歴史は繰り返す」との古事に倣えば、このまま未来永劫に「静」が続くことはない、いつか再び「動」の時代が来ることを覚悟する必要があると思うのです。

「静」の時代は、国家としては安泰であり、戦争の心配なく平和を享受できる「理想の時代」であることは言うまでもありません。

米国人戦略家のエドワード・ルトワックは『戦争にチャンスを与えよ』と一見、物騒なタイトルの書物の中で、2つの説を唱えています。まず、「戦争は平和につながる」であります。その理由は、これまでの人類の歴史を観れば一目瞭然でありますが、「戦えば戦うほど人々は疲弊し、人材や資金が底をつき、勝利の希望は失われ、人々が野望を失うことによって、戦争は平和につながる」としています。

一方、「平和は戦争のつながる」ことも忘れてならないと警鐘しています。その理由について、「平和は、脅威に対して不注意で緩んだ態度を人々にもたらし、脅威が増大しても、それを無視する方向に関心を向けさせる」とし、「『まあ大丈夫だろう』が戦争を招く」との有名なフレーズを掲げています。

我が国においては、戦後、「脅威」という言葉自体の使用が憚られるほど、いわゆる“平和ボケ”が長く続いています。当然、“明日にでも戦争が起こる”などという気はさらさらないですが、1日も長く、この国家の安寧を続けるためにも、ルトワックの警鐘のような事態に陥ることを厳に戒めつつ、効果的に「備える」ために最善の“知恵”を絞る必要があると考えます。

▼歴史から学ぶ4つの知恵(前段)

さて、「あとがき」のメインテーマである「歴史から何を学ぶか」に話題を移しましょう。私は、この「最善の“知恵”」の根源こそは歴史にあり、これまでの歴史から様々なことを学び、未来に活かすことが必要不可欠と考えております。このような視点に立ち、特に「国防」の観点に絞り、歴史から学ぶ“知恵”を取り上げてみましょう。

まず第1には、「孤立しないこと」です。戦前の日本は、地球の反対側のドイツやイタリアと同盟を結びましたが、利害が対立した米国や周辺国と同盟関係を築くことが出来ず、ついには国際社会で孤立し、破滅の原因となりました。

我が国は現在、かつての敵国・米国と「日米同盟」、つまり運命共同体の関係にあります。これを容認する考えは、「日本の開花」を「軽薄」「虚偽」「上滑り」としながらも、「事実止むを得ない、涙を呑んで上滑りを滑って行かなければならない」とした夏目漱石の葛藤に似た感情がないわけではないですが、現下の情勢から、国家として生存するための“最善の選択枝”であることに議論の余地がありません。

現役時代に、度々米軍人と議論する機会がありました。日米同盟は“非対称・不平等”ではありますが、「日米双方の国益のために最も重要な同盟」との認識が揺らぐことは一度もありませんでした。

その上で、民主主義や基本的人権などの基本的価値観を共有する国々との関係強化は必須でしょう。最近、我が国が主導的に提唱してきた「自由で開かれたインド太平洋」構想が現実のものとなりつつあることに加え、今年のG7の共同宣言にみられるように、先進国のグローバルな責任の明示や欧州諸国のインド太平洋に関与を強めていることは喜ばしいことです。

今後、日米同盟同様に、オーストラリア、インド、そして欧州諸国とタイトな同盟関係までに発展させるためには、憲法上の制約など乗り越えなければならない壁があります。しかし、軍事的には共同訓練レベルでとどまっている現状から、国を挙げて環境の醸成に努めつつ共同開発を含めた装備品の共有化をはじめ、軍事・非軍事含めさまざまな形でこれらの国々、さらには東南アジア諸国と関係を強化して、共同防衛の“実”を上げる必要があるでしょう。

日露戦争から第1次世界大戦まで、我が国は強固な「日英同盟」に支えられておりました。大戦後の「四ヶ国条約」によって、我が国は「日英同盟」を破棄することになりました。本文でも取り上げましたように、確かに米国の陰謀もありましたが、破棄に至った原因は我が国側の“落ち度”もかなりありました。

このように、孤立化を回避し、関係国と同盟を結ぶということは、相当の“覚悟”が必要であることを歴史は物語っています。

逆に、孤立化を恐れる中国がこれらに割って入ろうとする“目に見えぬ侵略”は益々活発になるでしょう。特に隣国にあって様々なチャンネルを持つ日本が最大限の警戒心を持つ必要なことはいうまでもなく、この面でも相当の“覚悟”が必要でしょう。我が国の政府や国民にそれらの“覚悟”があるかどうかが正念場であると私は思います。

残りの3つ知恵については、次回取り上げることにしましょう。

(以下次号)

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