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「我が国の歴史を振り返る」(83) あとがき(その3)(完)

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▼「健全な国民精神を涵養する」

いよいよ最終稿ですが、いきなり本文に入りましょう。将来に活かすべき「歴史に学ぶ知恵」として、これまで「孤立しないこと」「相応の力を持つこと」「時代の変化に応じ、国の諸制度を変えること」を挙げましたが、その第4番目として、「健全な国民精神を涵養する」ことを挙げたいと思います。

さて、「この国民にしてこの政府あり」とのきつい警句が議会制民主主義の創始国・英国の歴史家トーマス・カーライルの名言として残っています。

戦前においても、ポピュリズムが国の舵取りに多大な影響を与えたことを指摘しましたが、歴史に学ぶ様々な知恵を活かして我が国の未来を創造する、その“成否”の鍵を握っているのは、政治家でも学者でもマスコミでもなく、「主権者」である国民であると考えます。

我が国は、敗戦と占領期を経験し、多大な犠牲の上に、“民主主義国家”として生まれ変わりました。しかし、自ら選択し、あるいは奪い取った民主主義ではなかったためか、その精神は必ずしも健全とは言えない部分が残りました。

本文でも紹介しましたが、マッカーサーが「日本の奴隷的な封建主義が“日本の悲劇”をもたらした」との誤解(無理解)の結果、愛国心、誇り、道徳、歴史、文化など長い年月をかけて育まれ脈々と受け継がれた日本の「心」を奪い取り、その空白に埋め込んだのが、“マッカーサー流”の「民主主義の精神」でした。

これらの事実については、大東亜戦争の総括の最後に「精神的破壊」として紹介しましたが、私は、それこそが占領政策の“最大の罪”と考えていました。

しかし、①精神的破壊の実態はいかほどのものであったのか、という点、そして戦後70年あまりの間、②日本人の精神が(人によって程度の差はあるものの)なぜ精神的破壊から抜け切れず、今日のレベルにフリーズしているのか、という点についてはもう少し究明する必要があることに気が付きました。

①については、その一例として、1951年にサンフランシスコ講和条約締結によってGHQが撤退すると、日本全国から4千万人もの署名が集まり、その声が国会を動かして「戦犯」の赦免が決議されます。4千万人というのは当時の大人の大多数を意味します。これは日本人のメンタルが完全には壊れていなかったことを示す証拠と言えるでしょう。

最近でも、東日本大震災時に世界から賞賛されたような“他人を思いやる精神”(言葉を代えれば「同族意識」のようなもの)が残っています。また、ハーバード大学のアマルティア・セン教授などは「世界に日本という国があってよかった」(佐藤知恵著『ハーバード日本史教育』より)との言葉で“日本は世界の模範”と称賛しているようです。

そのような素晴らしい一面は失わず保持している反面、問題は②です。特に、占領期の後半、共産主義の脅威の増大によってGHQの占領政策が様変わりしたのにもかかわらず、当時、WGIPや東京裁判によって植え付けられ、行き過ぎた贖罪意識に満ちた「国民精神」がついに正されることなく、なぜ今日に至るまで変わらないままとどまっているのかという点です。

実は、その解明のヒントを私に与えてくれたのは、菅内閣誕生直後に話題になった「日本学術会議」の問題でした。少し触れておきましょう。

GHQの民生局(ニューデーラー達)が血気盛んだった頃、“日本人の協力を得て”20万人の公職追放を実施しました。その実態は、社会主義者や共産主義者達が追放者リスト作成に協力するなど、公職追放の機を利用し、政敵を排除し、自ら公職に復帰します。

約10万人の教職員も追放されますが、戦前、革命思想の持主として特高に追い回され、逮捕された共産主義者などはその後を埋めるように続々と教壇に復帰し、大学教育を牛耳るばかりか、高等・中等教育に多大な影響を及ぼすことになります。

日教組は、終戦直後の昭和20年12月に結成されましたが、「日本学術会議」は、昭和24年に設立されます。そして、当時、日本の非武装化を画策していたニューデーラー達と歩調を合わせ、「軍事関連の科学研究は一切かかわらない」との声明を出すのです。

学術会議は、当時から日本共産党との蜜月関係が指摘されていますが(細部は、「日本学術会議解体のすすめ」〔屋山太郎著:「諸君」1982年1月号掲載〕参照)、米国の対日政策が様変わりした後も、「再軍備反対」「護憲」「全面講和の決議」など、“共産党や社会党寄り”の反政府活動を繰り返します。

以来、「学問の自由」を“隠れ蓑”として、“赤い巨頭”と言われるまで成長するばかりか、学会のヒエラルキーを形成し、“彼らからみた優秀な人材”を育てては、政界、官僚、言論界、マスコミ界、経済界に輩出してきました。

細部については説明を要しないと考えますが、「マルクス主義を崇拝しないと大学に残れない、出世しない」(藤井厳喜氏:「Will」令和2年12月号)との驚くような現実が、依然として国内の有名大学に残っているようです。

こうしてみますと、学術会議のみならず、GHQの日本改造を巧みに利用し、その“隙”を狙って居座り、今なお様々な“隠れ蓑”を身に着けたままの人達が、日本人の精神的破壊、つまり行き過ぎた贖罪意識をそのままにとどめ、「愛国心」の復活を批判するなどして、サイレント・マジョリテイの「健全な国民精神」の再生を妨げているとの構図が浮かび上がってくるのです。

この「日本学術会議」の騒動について、菅首相の狙いは、“騒ぎ立てる”ことによって大多数の国民に“問題点の所在”を認識しもらうことにあり、それをもって、“菅版”「戦後レジームからの脱却」に向かって走り始めたと私は理解しております。

その後、「学術会議そのものを廃止すべき」という意見も盛り上がりました。「健全な国民精神を涵養する」ためにもその妨げとなる“総本山”を攻めるのは、正攻法そのものだったと考えますが、コロナ禍の影響もあって、またもや“熱しやすく冷めやすい”日本人の体質の陰でその動きは雲散霧消してしまいました。

いずれにしても、人一倍プライドの高い学者やインテリ層に自らの意識を変化させ、思想・哲学や歴史観の修正まで促すことは容易なことではないでしょう。

これら一部の人達と歩調を合わせ、周辺国にも、我が国を贖罪意識に満ちた「国民精神」にフリーズするために、“史実とは違う”「歴史戦」を仕掛け、その上で、虎視眈々と弱点を突こうとしている国が存在しています。これらの国々にいささかなりともよこしまな行動を誘発しないよう“隙”を見せないことも肝要です。

私達は、トップダウン的な“総本山”に対する“メス”などとは別に、戦後70年余りが過ぎた今、大多数の国民がマインドコントロールされていることに気づき、「健全な国民精神」を復活する意義を理解し、“覚醒”する時期にきていると思うのです。

“覚醒”とは、愛国心、誇り、道徳、歴史、文化など長い年月をかけて育まれ脈々と受け継がれた日本の「心」の復活とイコールです。多くの国民に一日も早く「自分達が“覚醒”することが、我が国の未来を創造する唯一の道である」ことを悟ってほしいと切に願っております。

▼我が国の歴史を取り戻す!

 出所を失念してしまいましたが、だいぶ前に我が国の“現状”を揶揄っている次のような言葉を見つけました。

そこには、①政局と選挙しか考えない政治家、②保身と省益しか考えない官僚、③儲けることしか考えない経済人、④視聴率と特ダネしか考えないマスコミ、⑤目立つことしか考えない言論人、⑥権利のみ主張し、義務を果たさない国民、⑦3メートル以内しか関心がない若者、とありました。

読者の皆様はどう感ずるでしょうか。当時の私は、“あながち間違っていないだけに笑えない”と感じつつも、「戦後の日本人はなぜこうなってしまったのだろうか」と考え込んでしまいました。

ある時、私達・日本人は、「愛国心」のような、どこの国民でも必ず保有している当たり前の精神をどこか遠くに置いてきた状態になっているのではないか、それを回復するためには、今の日本人の精神を形成した「出発点」に戻り、そこから出直すのが最も近道で、かつ唯一の道ではないか、と考えるようになりました。

つまり、国民の“覚醒”の「出発点」こそが「歴史」にあるとの結論に達し、「我が国の歴史を取り戻す」ことがスタートであり、ゴールでもあると確信するに至りました。

そのような思いが、元自衛官であり、「歴史」について素人の身ながら、大胆にも「我が国の歴史を振り返る」を執筆する動機に繋がりました。

改めて、本当の歴史を学ぶ意義を今一度要約しますと、①過去の歴史を習得して同じ失敗をしない、②周辺国との歴史戦に対して理論武装する、③精神的破壊(特に、贖罪意識、誇りの喪失、戦う意欲低下など)から脱却する、の3点だろうと考えます。

本文でも紹介しました英国人ジャーナリスのストークス氏は、「日本人は日本を見直そう」と訴えております。繰り返しますが、私達日本人は、自らの思想・哲学(価値観)や歴史観がいつ芽生えたか、その発芽の瞬間を思い出し、それが正しかったのか、他に選択肢はなかったのかどうか自問自答する時を迎えていると考えます。

特に、「日本の先人達が求め、辿り、そして多大な犠牲を払って築き上げた結果、日本(のみならず世界全体)の平和と繁栄がある」との“史実”を再認識する必要があると考えます。

その上で、謙虚に歴史に学び、未来に活かす知恵を導き、勇気を持って実行することによってはじめて、現在、享受している「静」の時代を子々孫々に受け継ぐことができるのではないでしょうか。

後世、「昭和の後期から平成、令和の時代に将来への備えを怠ったために、私達の世代はそのツケを負わされた」と批判されないためにも、その第一歩として「歴史を取り戻す」ことが、今に生きる世代の責任であり、慧眼でもあると思うのです。

 ここ数年、歴史について講話を依頼される機会が増えました。時々現職自衛官の前で話す機会もあります。“「戦史」は教えるが「歴史」を教えない”自衛隊の教育について、「戦史だけでは不十分」として、軍事の専門家として階層・階級を問わず「歴史」を学ぶ意義を強調することにしています。

中でも、国防の視点に重点を置き、①我が国が長い歴史の中でいかに“独立”を維持してきたか、②歴史の中で政・軍のリーダー達が「国の大事」(戦争)を選択した覚悟と決意はどこにあったか、③その「国の大事」を回避できなかった要因はどこにあったか、④「国の大事」をいかに対処し(戦史)、いかに処理したか、などを解説しています。

また、昭和の軍人達の未熟さや過ちや反省についても、教科書などに記されていることと“史実”の違いを含め、努めて正確に話すことにしています。

その上で、シビリアンコントロールの元、自衛官としての“則”を越えないよう謙虚さを保持しつつも、①防人(さきもり)の先輩にあたる先人達に敬意と感謝の気持ち、そしてその末裔であるとの自覚と誇りを持ち、②軍事の専門家として歴史から学ぶ知恵と発想を涵養しつつ、③それらを受け継ぎ、後世に伝えていくことが「未来へ繋がる道」であると強調しています。

科学技術の進歩などにより知恵や発想は時代によって変わりますが、防人としての持つべき精神は変わることはありません。先人達が辿ってきた歴史からそれらを学び、未来に活かすためにも、OBの一人として、改めて「自衛官よ!歴史を学ぼう」と声を大にして呼びかけています。

▼終わりに当たり

 約20年にわたる歴史探訪は、私にとりましては、高名な歴史家、歴史研究家、小説家などの皆様が心血を注いで書き上げられた書籍との出会いの歴史でもありました。その時代時代、本当に様々な書籍に巡り合いました。その一文字一文字に込められた思いや言葉の数々がすべて、私の“栄養源”となりました。

自らも体験した結果、よけいに感じるのですが、“心血を注がれた”諸先輩に、改めまして敬意を表し、心より御礼申し上げます。

長い間、辛抱強くお読みいただいた読者の皆様に改めまして心より御礼申し上げます。皆様の「歴史観を動かす」などとの大胆な思いを持っていたわけではありませんが、本歴史シリーズを通じて、いささかなりとも「歴史を学ぶ面白さ」を知っていただき、「歴史には色々な見方がある」ことをご理解いただくきっかけになったのであれば望外の喜びです。

末尾に、本シリーズを掲載して頂いた「戦略検討フォーラム」、特にサイトオーナーの片岡秀太郎氏に重ねて御礼申し上げ、「我が国の歴史を振り返る」完結とさせていただきます。ありがとうございました。またいつかお会いしましょう。(完)

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