「我が国の歴史を振り返る」(61) 「WGIP」の目的と手段
▼はじめに
はじめに、占領政策が出来上がった「構図」をもう少し整理しておきたいと思います。政治に疎く典型的な軍人であったマッカーサーは次々に送られてくるトルーマン政権の指示に(特に初期段階は)忠実に従います。前回も少し触れましたが、問題は、トルーマン政権の指示がどこから来たのか、大統領以下閣僚がそれらの指示を注意深くチェックしていたかどうかにありました。
実は、当時の国務省やGHQの中には、ニューディーラーといわれる、ルーズベルト政権で社会主義的思想を持つ人々がかなり存在していました。名前を挙げれば驚くなかれ、対日強硬派で知られた国務長官ジェームズ・バーンズ、同じく国務次官のディーン・アチソン、国務省極東局長のジョン・ヴィンセント、GHQにおいては、民生局のホイットニー局長や日本国憲法制定担当のケーディス次長らは皆、ニューディーラーだったようです。
つまり、国務長官以下、米本国のニューディーラーの指示をGHQの民生局が直接手足となって“日本の民主化”の名目で占領政策に反映させた「構図」が見えて来て、彼らが“日本をいかなる国に仕立てようとしたか”が容易に想像つくのです。
具体例を続けましょう。翌昭和21年1月7日には、「日本人の再方向づけ」という12項目の具体的な方針がトルーマン政権からマッカーサーの元に届きます。
特に注目すべきは、4番目の「占領軍は占領の究極的目標を受容し、援助したり、米国の利益を促進するような日本人を探し出すべきである」と10番目の「“米国人が退いた後にも日本人自身によって再教育プログラムが継続される”ために、日本人自身が再教育のプロセスに積極的に参加することを奨励すべきである」した点です。
4番目に挙げたグループがだれかは、歴史を見れば一目瞭然ですし、10番目のように、本人達がこの方針を知っているか否かは不明ですが、仕組まれた「再教育プログラム」を今なお忠実に継続している人達がかなり存在していることは確かでしょう。依然として、我が国では、“無形の武器が作動中”と考えざるを得ないのですが、主に彼らが画策して実現した占領政策を具体的に振り返ると、これらが“ほんの一例にしか過ぎない”ことを理解できると思います。
最近話題の「日本学術会議」などもこの「再教育プログラム」を忠実に実行しているかと思うと、“米国の占領政策恐るべし”と考えざるを得ません。
▼マッカーサーの「自由の指令」と日本政府の抵抗
少し前後しますが、トルーマン政権から「初期の対日方針」指示を受けたマッカーサーの最初の指令は「自由の指令」といわれるものでした(昭和20年10月4日)。その概要は、①治安維持法の廃止、②政治犯の釈放、③特別高等警察の解体、④内相や警視総監らの罷免などです。これによって、内務・警察官僚4千名が罷免されます。新聞を発禁処分にした内務省への報復だったといわれます。
これについて、さすがに東久邇宮首相のプライドが許さず、「承服できない」として内閣総辞職します。これが、日本政府がまとまって抵抗の意思を示した最初で最後でした。東久邇宮内閣は50日ほどしか持ちませんでした。後任には、対米英協調外交を推進した幣原喜重郎が選ばれます。73歳の身で一度は固辞しますが、天皇に懇願され引き受けることになります。
10月9日、幣原首相は早速マッカーサーと初会談に臨みます。その場で、マッカーサーは、あらかじめ用意したペーパーを読み上げます。そこには「日本国民を精神的“奴隷状態”から開放するため、①婦人参政権による日本女性の解放、②労働組合の結成奨励、③学校教育の自主主義化、③秘密審問の廃止と司法制度の確立、④経済機構の民主主義化、などの指示が書かれてありました。一方、この時点では、マッカーサーの態度も常識的・紳士的で、幣原首相を安心させたとの記録が残っています。
▼「WGIP」の背景と概要
占領期の初期の経緯を紹介しましたが、ここからは、GHQの占領政策を次の3つに整理して振り返ってみましょう。第1には、日本を「戦争犯罪国家」に仕立て上げる宣伝としての「WGIP」(War Guilt Information Program)の推進、第2には、憲法の制定など日本改造の断行、第3には、「東京裁判」による日本有罪の強要と戦争犯罪人の処罰です。当然、これらは相互に関連しています。
まず「WGIP」です。その存在は、長くベールに包まれていましたが、昭和54年、米国のウイルソンセンターで占領下の検閲事情を調査していた江藤淳氏がその存在を言及したことに始まります(その経緯は、江藤氏の『閉ざされた言語空間』に詳細に記されています)。そして、平成27年に、近現代史研究家の関野通夫氏によって文書そのものが発見され、月刊誌「正論」紙上で紹介されました。
「WGIP」の所掌は、GHQの民間情報教育局(CIE)ですが、「ポツダム宣言」のよって、日本を「野蛮な戦争犯罪国家」に仕立てたものの、当時の日本人の意識について「日本人の間には、戦争贖罪(しょくざい)意識が全くといっていいほど存在せず・・・道徳的過失も全くなかった。日本の敗北は、産業と科学の劣勢と原爆のゆえであるという信念が行き渡っていた」(昭和20年11月のGHQ月報より)と占領軍が認識したことが本プログラム導入のきっかけとなったようです。
改めて、終戦まもなくの日本人には、今のような「自虐意識」が全くなかったことを強調しておきたいと思いますが、「WGIP」の目的は2つありました。①日本人を洗脳することと、②アメリカに都合の悪いことを糊塗(こと)することです。
関野氏によれば、「WGIP」は、第1部「日本の戦争犯罪の定義」など、第2部「日本のメディアの対する作戦の目的」など)、第3部「各メディアに対する具体的作戦」などの3部構成になっています。
細部を取り上げる余裕はありませんが、「WGIP」のアイディアや手段の源流は、戦争中のアメリカの対日心理作戦にあり、そのベースは、前回紹介しました「日本研究」にありました。実際に対日心理作戦を陣頭指揮した人物が上記のCIE作戦課長に赴任し、「太平洋戦争史」を執筆・編集するなど、対日心理作戦のプロたちがCIEの幹部に登用されます。
こうして、GHQは「WGIP」に基づき、「大東亜戦争」とか「八紘一宇」などの用語を使用禁止にするとともに、新聞各紙にGHQ提供の「太平洋戦争史」を一斉に掲載し、ラジオでは「真相はかうだ」を放送します。いずれも日本軍が行ったとする“極悪非道”をことさらに強調する内容でした。
同時に、GHQは「日本の軍国主義は国民の伝統に基づいており、ドイツやイタリアとは異なる」として日本精神の特異な“病的特性”を強調し、「再教育に積極的に介入しなければ、日本国民の伝統精神に基づいた軍国主義を排除することができない」と考えます。
その手段として、まず「日本の力の源泉は天皇への忠節にあった」として、日本人の天皇観や国家観の解体に着手します。そのため、教育内容の抜本改革を指令し、「修身」「歴史」「地理」の教育を廃止します。また、児童に教科書の黒塗りを強要するのとともに、軍国主義とみなされた教職員らを追放します。このようにして、GHQは戦前の我が国の歴史を抹消し、「史実」と違う歴史を子供たちに教え始めたのです。
そして、昭和21年1月1日、昭和天皇の「新日本建設に関する詔書」が新聞各紙に掲載されます。俗に「人間宣言」と言われるものです。本詔書は「民主主義の精神は明治天皇に採用されたところであって、けっして輸入のものではない」ことを示し、国民に「誇りを忘れないようにする」ためのものでしたが、GHQの主導によって、後段に「天皇は現人神でない」の一文を入れさせることにより、「天皇の神格性」を天皇自身に否定させたのでした。
これによって、のちの日本国憲法にもある「政教分離」を実現させ、天皇が政治に携わることを禁止しました。また皇族の縮小と国家神道の廃止を目的に「神道指令」も発しました。この結果、政府が管理していた日本中の神社が解散するか、一宗教法人になるか、の選択を迫られました。
靖国神社も宗教法人になりましたが、靖国神社に至っては、当時GHQ内部で「二度と日本人が靖国神社へ祀られる事を名誉とする命懸けの戦いをしないように焼き打ちしよう」とする意見が多数出されます。マッカーサーも同意見でしたが、イエズス会のブルーノ・ビッター神父が「いかなる国や民族にも戦没者を祀る権利はあり、それをいかなる外国人でも禁止する事はできない」と発言し、GHQは靖国神社焼き打ちを中止します。
こうして、戦前と違った存在にはなりましたが、天皇の存在が守られ、大戦時に祖国日本の未来を思いながら命を捧げた人々の鎮魂の場所も守られました。
▼教育界の改造
軍国主義者とみなされ、不適格者として追放された教職員は7000千名を超えたといわれますが、少し詳細に触れましょう。
教育界の改造は、振り返れば想像を絶するものでした。教育界のトップ人事として、文部大臣は田中耕太郎、東大総長は南原繁をあてます。両者とも敬虔はキリスト教信者で、完璧なGHQへのイエスマンでした。
教職追放の為に「教職員適格審査」を制度化し、全国130万の小中学校教員、大学教授等を対象に審査し、①日本の戦争を肯定する者、②積極的に戦争に加担した者、③戦後の自由と民主主義を受け入れない者に除籍を求め、血縁者3親等まで教員として就職を禁止します。人権を声高に唱えた教育改革において、教員の人権は全く無視されたのでした。
昭和21年には、文部省の勅令で「教職員の除去、就職禁止及び復職の件」を発令し、各都道府県に5名からなる教員適格委員会を設置して“適格審査”を実施します。その結果、戦前、軍国教育に熱心に関わった文部官僚や教職者が180度方向転換し、反戦、平和、人権教育に奔走します。生きるためとはいえ、その節操のなさには呆れるばかりでした。
これらの処置は、GHQの指示の元、文部省主導で行われましたが、昭和27年に我が国の主権が回復した際、上記勅令を廃止する法律が定められます。しかし、その後の通達で「占領政策の終了とともに、その目的とした軍国主義的・国家主義的な影響が払拭されたか甚だ疑問だ」として“適格審査”を続行させるのです。
その体質は戦後70年以上が過ぎた今でも残り、なぜか現在の“適格審査”に触れることなく教員免許を取得した教職員が、日教組の組合員として堂々と活動している一方で、未だ、ほとんどの大学が国の安全保障や国防に関わる研究を拒否し続けているなど、冒頭にも述べましたように、占領軍の「再教育プログラム」を“忠実に”実行しているのです。
▼マスコミ界の改造
昭和20年9月14日、「朝日新聞」が「原子爆弾の非人道性は人類の認めるところであり、我々は敢然とその非を鳴らさなければならい」と米国を批判する記事を掲載したところ、マッカーサーの逆鱗に触れ、2日間の発行停止処分を受けます。これをきっかけに、朝日新聞の社是は180度変わり、今日の朝日新聞が生まれます。
またこれを契機に「プレス・コード」が発令されます。内容は、①ニュースは真実でなければならない、②公共の治安を乱す事を掲載してはならない、③連合軍に関して、破壊的または誤った批判をしてはならない、④占領軍に対して破壊的は批判を加えたり、疑いや怨念を招くようなものを掲載してはならない、など10項目からなり、「日本で印刷されるすべての出版物に適用される」とされました。
マッカーサーは「日本の新聞に対して、自由な新聞の責任ついて教育する」とその目的を説明しましたが、自分たちの監視下で効果的な宣伝機関に仕立てようとしたことは明白です。
そのような大方針のもと、GHQは6千人を上回る要員を有する民間検閲支隊(CCD)をもって大規模な民間検閲も実施します。「究極の目的は、日本人にわれとわが眼を刳(く)りぬかせ、肉眼のかわりにアメリカ製の義眼をはめこむこと」(江藤淳氏)という「WGIP」の目的に沿った検閲は、占領前から周到な計画をもって行われました。
実際に、CCDの要員を南朝鮮含む全土を4つの地区に分けて全国に張り巡らせ、新聞、書籍、映画、放送などあらゆる出版物を対象に徹底的に実施し、まさに“閉ざされた言語空間”を築き上げたのです(その細部は、上記『閉ざされた言語空間』に詳しくまとめられています)。
江藤氏も指摘していますが、後に触れる日本国憲法第21条第2項に「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」を挿入させたGHQが、同じ時期に徹底した検閲を実施していたのです。思えば奇妙な話ですが、それが占領下の“現実”でした。次回は、日本国憲法の制定経緯を取り上げます。(つづく)