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「我が国の歴史を振り返る」(12) 江戸幕府の滅亡

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▼はじめに(天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典について)

 天皇陛下御即位に関連する一連の行事が続いておりますが、11月9日、皇居前広場で行われた国民祭典に参列する機会を得ました。

祭典の概要はNHKでも中継されましたので、ことさら紹介する必要はないと考えますが、やはり現場にいないとわかない“肌感覚”を少しお伝えしようと思います。

まず、皇居前広場会場に集まった約3万人を人々―何らかのルートでチケットを入手した幸運とも言える人々―みな、入場前から警察官や係員の誘導に素直に従い、二重橋前の会場を横目でにらみながら、一旦、和田倉門の方に誘導され、さらに大手町交差点まで歩かされて初めてUターンするぐらい歩かされるのに誰一人文句を言わないのです(私を除き)。

それに、事前にいただいた案内チラシでは、開場は15時と明示されているのにもかかわらず、午後2時ごろ“長い迂回を終えて”ようやく会場に到着すると、特設スタンド正面部分はすでに埋まっており、3時前に会場の8割程度が埋まってしまいました。

夕方になるにつれて気温が下がり、また高齢者が多いことからトイレは長蛇の列です。私はこれまでの人生で、これほど長い(トイレを待つ)列を見たことがありません(笑)。こちらも誰一人文句を言う人がおりません。

席で待っている間も飲食禁止をひたすら守り、喧騒にもならず静かな時間が過ぎていきます。そして祭典が始まりました。いよいよ天皇皇后両陛下のお出ましの時間が近づき、渡された提灯を点灯し、国旗の小旗を準備します。

3万人の参加者が一斉に提灯と小旗をもって立ち上がり、両陛下をお迎えしますと(当然ながら、ほとんどの参加者は二重橋上におられる両陛下のお姿を直接拝見することはできず、会場に用意されたパブリックビューイングでしか拝見できないのですが)、お腹の底から沸き上がって来るような感情をもはや抑えることができなくなります。いったいこの感覚は何なのでしょうか。

一連のプログラムの最後に、奉祝曲「Rey of Water」(素晴らしい組曲でした)が演奏され、人気グループの「嵐」がその第3楽章をみごとに披露した頃が祭典のクライマックスでした。その後、参列者全員で万歳三唱、それも一度で終わりと思いきや、両陛下が二重橋から見えなくなるまで何度も何度も繰り返されました。

10日に実施された「祝賀御列の儀」における沿道の奉祝者数も11万9千人だったとの発表がありました。言葉で言い尽くすのは難しいですが、日本人は本当に天皇陛下を敬愛し、親しみを感じ、天皇陛下の存在そのものに誇りと喜びを抱いているということを改めて実感することでした。

そして、このような畏敬の念を抱く背景には、戦後、昭和天皇が示された「国民に寄り添う」との皇室の新しい姿を、上皇陛下を経て天皇陛下が継承しておられることがあるとは言え、憲法でいう「日本国及び日本国民統合の象徴」というような概念を超えているのではないかと私は考えます。

前回も少し触れましたが、武家政権になった後、天皇の地位が高まったのは江戸中期以降でした。現在までほぼ200年の歳月が流れています。その間に幾多の戦争をはじめ、色々なことがありましたが、ほとんどの日本人の中には、天皇陛下に畏敬の念を持つDNAが“微動だにしないレベル”まで定着しているのではないでしょうか。

今回は、その“走り”ともいえる「尊皇攘夷」運動から入って行きましょう。

▼「尊皇攘夷」運動の広がり

「安政の大獄」から「桜田門外の変」に至る一連の事件の背後にあったのが「尊皇攘夷」運動でした。実は、この「尊皇攘夷」運動の流れも複雑でなかなか理解しがたいところがあります。

そもそもは、中国の周の時代に発生した「徳(王道)をもって支配する『王』を尊ぶ」との「尊王」思想が、鎌倉時代から南北朝時代に「尊皇」と置き換えて受容され、鎌倉幕府滅亡の原動力となったといわれます。しかしその後、再び武家政権が続き、「尊皇」が表舞台に出ることはなくなりました。

江戸中期に「天皇の権威」が復活したことは前回取り上げたとおりですが、同時に、日本独自の精神文化も研究しようとした「国学」も盛んになり、その影響も受けて「尊皇」が復活し、その上、幕府が朝廷の権威を政治利用したこともあって、その思想が急速に広まったのでした。皮肉と言えば皮肉でした。

「攘夷」については、幕末になって異国の接近に伴う「鎖国」崩壊の懸念から、外来者を打ち払っても日本を防衛すべしとの国防意識とナショナリズムがとみに高まりました。そして、“勅許”を得ずしての開国がきっかけとなり、「尊皇」と「攘夷」が合体し、「尊皇攘夷」として「倒幕」の政治スローガンになってしまったのです。

なお、「尊皇攘夷」の源流(出典)は、徳川御三家の水戸藩で発達した水戸学だったようです。水戸学は、儒学を中心に国学、史学、神道など幅広い学問体系を保持し、吉田松陰や西郷隆盛など幕末の志士らに多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となりました。

▼ロシアの“脅威”が顕在化

「桜田門外の変」の1960年、これも前回ご紹介しましたように、清は英仏と「北京条約」を結び、さらに天津の開港や九龍半島を割譲するとともに、ロシアとの間でも「北京条約」を結び、「アイグン条約」で清とロシアの共同管理地となっていた地域も含め、外満州のロシア編入を承認しました。清も不平等条約締結を強要されたのでした。

ロシアの“南下”の防波堤になっていた「ネルチンスク条約」から170年あまり、ロシアは力づくでこの地域の“南下”の障壁を取り除き、「東方を支配する町」を意味する“ウラジオストク”の建設に乗り出したのです。ロシアが我が国の“直接の脅威”として姿を現した瞬間でした。

現在、中国の習近平は「中華民族の偉大なる復興」を唱えていますが、それならば、まず、屈辱的に失ったこの外満州を取り戻す努力をすべきと思うのですが、なぜか「外満州は中国の固有の領土」との声を聞いたことがありません。相手がロシアだからでしょうか、何とも不思議です(いずれこの問題がロシアと中国の間で再燃すると予測しております)。

ちなみに、我が国は無謀にも(と言うべきでしょう)この外満州の沿海州から黒竜江北岸に沿って兵を進めたことがあります。「シベリア出兵」です。細部はのちに触れましょう。

▼時代の変化に追随できなかった「統治システム」

「尊皇攘夷」運動の「尊皇」はともかくも、「攘夷」は、まさに昨年、我が国の労働人口不足が眼前に迫っていることを熟知しながら、外国人受け入れに拒否反応を示し、出入国管理法の改正反対を叫んだ一部の人たちのように、現実を無視した“精神的な高まり”だったと個人的には考えます。

そこには、迫りくる“脅威”に関する具体的な情報量の差もありました。当然ながら、幕閣の方が一般国民より正確な情報を持っており、「鎖国政策」の限界を知った上での決断だったのはないでしょうか。

欧州諸国が世界制覇を目前にしていたこの時期、不平等条約の締結を許容しつつも、植民地にならず、曲がりなりにも独立維持を最優先したことは、歴史の中でもう少し評価されてもいいと考えます。

一方、「開国すればいい」という単純なものでなかったことも事実です。江戸幕府終焉の要因として、吉田松陰、坂本龍馬や西郷隆盛など、大河ドラマの主人公になる多くの幕末の志士たちが果たした役割は計り知れないものがありますが、江戸幕府は、開国を契機に表面化した様々な要因で足下から瓦解し、「桜田門外の変」からわずか7年で滅亡したのでした。国防を怠ったことを含め、時代の変化に「統治システム」が追随できなかったと考えるのが妥当でしょう。

最後に、「日米和親条約」も「日米修好通商条約」も、日本国の英語名が「The Empire of Japan」となっていた事実を紹介しておきます。「Empire」は「(皇帝が統治する)帝国」と訳します。我が国の場合、皇帝は天皇を意味し、だからこそ“勅許”が必要だったとも解釈できますが、我が国の正式な国名は、江戸時代から「日本帝国」となっていたのです。

▼「明治維新」との呼称はどうして生まれたか

こうして、迫り来る外国の“脅威”の中で“我が国が独立を維持する”という難題は、明治の指導者たちにサイは投げられました。幕末から明治に至る「物語」は、これまで何度も小説の題材になり、大河ドラマにもなっています。そのせいもあって、日本人の多くは「明治維新」に何か憧れやロマンを感じているようにも見えます。

さて、この「明治維新」という呼称自体はどのようにして生まれ、定着したのでしょうか。明治時代を振り返る前に、時代は少し前後しますが、「明治維新」という呼称について解明しておきたいと思います。

熾烈だった「戊辰戦争」が函館戦争をもって終結(1869(明治2)年)し、国内統一を果たした新政府が最初に手がけた仕事は、「明治新政府が“正しい政府”であることを証明し、宣伝する」ことだったと言われています(こういう事実は大河ドラマには出てきません)。

そのため、「正史」の編纂に取り掛かり、『復古記』(全150巻)、『復古外記』(全148巻)とまとめあげました。完成は、1889(明治22)年でした。足掛け17年をかけたこの膨大な資料に加え、『大日本維新史料要綱』なども編纂しました。その力の入れようは尋常でなく、これらの史料は、学校教育などを通じて国民の間に“紛れもない事実”として定着し、近代史の基礎となりました。

「明治維新」という言葉自体も、“イメージ戦略”の一環として用いられたようです。「維新」とは「あらゆることを改めて一新されること」を意味し、水戸藩の藤田東湖が儒学書の「詩経」の一節を引用したのが最初といわれ、「明治維新になって世の中がよくなった」というニュアンスを含んでいるとされます。

 「正史」編纂においては、自らの正当性を証明しようとするあまり、“勝者が歴史を作る”ごとく、「旧体制たる徳川幕府」と「江戸時代」を否定することに注力したのは当然でした。

昨年は「明治150年」の節目だったこともあり、近年、「明治維新」に関する歴史書などがブームになっていました。江戸時代を礼賛し、吉田松陰や西郷隆盛をテロリストとさえ呼ぶ新説(珍説)も含まれるなど、これまでの“定説”を覆す書籍が散見されます。

勇気を振り絞って読破すると、改めて「歴史の見方」は一様でなく、見方を変えれば「“語られる歴史”は180度違ってくる」ことがわかります。「歴史は物語であり、文学である」(歴史学者岡田英弘氏)の言葉のごとく、確かに「歴史」は、「必然」と「偶然」(とも言える)の事象が織りなす「物語」であるような気がしてなりません。特に「明治維新」には、そのことを強く感じます。(以下次号)

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