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マハンの戦略理論を実現した男―ルーズベルト大統領

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 マハンの良き理解者――ルーズベルト
マハンの戦略理論がいくらアメリカにとって、価値あるものであっても、国策として採用されなければ、単なる「理論」として終わり、その著書「海上権力史論」も海軍大学校などの図書館の中で、古ぼけた本として眠ってしまうところだった。
マハンの海軍戦略を理解し、「新興国アメリカの国策・戦略として最適である」と見抜くだけの慧眼を有し、これを国策に採用・実行した男―それがセオドア・ルーズベルト大統領であった。ルーズベルトは、「海上権力史論」が発売されるや、これを読み、高く評価し、直ちにマハンに次のような手紙を送り、その功績をたたえた。
「今まで私が読んだこの種の本の中では、最も明快で最も有益なものです。極めて良質の、賞賛すべき本であり、古典になるべき本です。」
慧眼のルーズベルトは、マハンが「海上権力史論」で主張したシー・パワーの理論が、当時のアメリカの将来を拓く「戦略指南の書」であることを直感的に見抜いたのだった。

 マハンとルーズベルトとの関係
マハンがルーズベルトと最初に出会ったのは、マハンが海軍大学校長(1986~89年)の時、ルーズベルトを講師に呼んだのが縁だ。ルーズベルトは、既に1882年(当時24歳)には「1812戦争(注:イギリスとアメリカの戦争)」を出版し、歴史家としての名声を確立していた。1812戦争では、陸戦のみならず、五大湖やセント・ローレンス川、更には大西洋において海戦・水上戦が行われており、この研究を通じて、ルーズベルトは、海軍に興味を持つに至った。この出会いを契機に、二人は親交を深め、海軍戦史や米国海軍の現状などについて意見交換を重ねたものと思われる。ルーズベルトは「海上権力史論」出版以前から、マハンの見識を高く評価し、緊密に連絡を取り合い、マハンの人事や所論発表などに、政治的影響力を行使して、陰に陽に力強いスポンサーとなる。
マハンの「海上権力史論」が1890年に出版された後、ルーズベルトは海軍次官(1897~98年)、次いで代大統領(1901~09年)と枢要なポストに就き、後で述べるように、マハンの海軍戦略理論を米国の国家政策・戦略として採用し、その実現に邁進した。

 ルーズベルトの人となり
ルーズベルトは、親分肌、エネルギッシュ、積極果敢で熱血・正義感旺盛で格別実行力ある人物。また、メディア操縦に長けた最初の大統領。歴代アメリカ合衆国大統領の中でもトップクラスにランキングされる偉大な大統領。若干23歳でニューヨーク州下院議員に当選し、政治の道を歩み始めた。しかし、彼の人生の道は平坦ではなく、妻が女児出産直後死亡するという悲劇に見舞われた。彼は政界を引退し、ダコタ州の山中で牛数千頭を飼育する牧場経営を始めた。単なる牧場のオーナーではなく、47日間連続、1600キロも馬上で移動する厳しい野外生活を送るなどカウボーイ以上の過酷な試練を自らに課した。妻の死という悲劇をバネに、禅の修業にも似たハードな野外生活を通じ、自らを鍛え直し、再び政界を目指した。1898年米西戦争が勃発すると、海軍次官の職を辞してキューバに赴き、「ラフ・ライダース」と呼ばれた騎兵連隊(義勇軍)を組織して自ら指揮を執り、スペイン軍に対し勇戦し、一躍アメリカの国民的英雄となった。やがて、ルーズベルトは海軍次官、大統領と登りつめた。
ルーズベルトは博覧強記で、歴史学者、博物学者としても一流。また、驚異的筆まめで、15万通の書簡を残す。日本の金子堅太郎と知り合い、日露戦争日露戦争の停戦を仲介し、その功績でノーベル平和賞を受賞した。

 ルーズベルトが実現したマハンの海軍戦略理論
第一に、ルーズベルトは米海軍力の強化(戦艦建造)に執念を燃やした。彼は、大統領として、当時5乃至6位の米海軍を世界第2位にしようと戦艦10隻を初め合計300隻以上の目標を立てたが、議会の反対から全部は達成できなかった。しかし、粘りに粘り、在任間の1904年から07年に11隻もの戦艦を新造した上、更に4隻もの戦艦建造を議会に認めさせた。
第二の成果は、海外海軍基地の獲得とパナマ運河の建設である。アジアに進出するためには、「太平洋ハイウェイ」途中の要所に食料・弾薬・水・燃料などの補給、船舶の修理、兵員の休養などのために基地が必要だった。また、太平洋と大西洋に二分して展開される宿命にある米海軍戦力を短時間にいずれか一方の海洋に移動・集中するためにはパナマ運河の建設が不可欠だった。パナマ運河が完成すれば、ニューヨークからサンフランシスコへ向う船の場合、南アメリカ大陸の先端ホーン岬を回る2万900km以上の航行を約1万2500kmに短縮することができた。
まず基地に関しては、ルーズベルトが海軍次官の時に起こった米西戦争(1898年)でスペインに勝利し、フィリピン、グアムおよびプエルトリコを獲得した。また、マハンの再三の指摘で、ハワイの地政学的重要性の認識を深めた米国は、ハワイ共和国を謀略に近いやり方で併合し自治領とした。この時のアメリカの大統領は、マッキンリーで、ルーズベルトは直接関わってはいなかったものの、マハンと連携しつつ、政府のハワイ併合を推進した。
次に、パナマ運河の建設について。1880年にフランス主導で、レセップス(スエズ運河を建設)が開発に着手したものの、難工事とマラリアの蔓延により放棄。ルーズベルト大統領は、マハンの教示でパナマ運河建設の地政学的重要性を認識し、1902年に連邦議会で運河建設を決定したが、パナマ地峡を領有するコロンビアの承認が得られなかった。しかし、パナマがコロンビアから独立するや、ルーズベルトは直ちに同共和国を承認し、パナマ運河条約を結び、永久租借権などを取得し工事に着手した。なお、運河は10年の歳月をかけて開通した(1914年)が、それはルーズベルトが死去した後だった。

 「マハンの知恵」と「ルーズベルトの実行力」
国内基盤を確立した米国が、中国に対する「門戸開放・機会均等」(1899年、ヘイ国務長官)を宣言し、遅ればせながら海外進出・植民地獲得に本格的に乗り出そうとするまさにそのタイミングに、大統領職にルーズベルトが就任(1901年)したわけだが、アメリカにとってはまさに最適任の大統領を得たことになる。アメリカの今日の隆盛は、「マハンの知恵」と「ルーズベルトの実行力」によりその基が確立されたといえるだろう。

 

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