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地下鉄サリン事件を振り返って

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  • 光陰矢のごとし――霞の向うに遠ざかる記憶

今年、地下鉄サリン事件から20周年を迎える。あの事件で、一切の状況不明な混乱の中から始まった除染作戦、未知・未経験の領域で指揮を取る上での不安、隊員の命を預かる重責、怒涛の勢いで過ぎ去った顛末など様々な切り口の思い出が頭の中で去来するが、記憶の鮮明度は、歳を重ねるごとに霞の向うに遠ざかって行くような気がする。

事件当時初級幹部だった近藤力也2尉(3科運用訓練幹部)と中本尚明3尉(除染隊長)がいずれも今は1佐に昇り、今春既に連隊長を“下番”した事実を思えば、歳月の速さを実感させられる。今夏には私も68歳になる。近藤・中本両連隊長は例外として、私とともに除染作戦に取り組んだ当時の32連隊隊員及び大宮駐屯地の科学化隊員の多くが、今は陸上自衛隊を退いて、第二の人生で“新たな戦い”を繰り広げている。

  • 「近衛連隊」の誇り

韓国防衛駐在官から帰国した私は、1993年7月1日付で第17代の32連隊長に着任した。夜学に通うものも隊員も多く、その資質は全国一優秀と自負していた。当時連隊は、数年後には大宮駐屯地に移ることになっていた。私は着任して、「都心に位置し、自らの連隊を『近衛連隊』と呼んで誇りにしてきた隊員達に、大宮駐屯地へ移駐する前に、何か誇るべき歴史が作ってやれないものだろうか。反戦自衛官を出したという負のイメージを好転させるような、何らかの業績を残せないだろうか。」と漠然と考えたものだった。

  • 「第六感」で行動開始

サリン事件当日の3月20日は月曜日であったが、「統一代休」とし、翌21日に予定されていた人事異動の隊員達のための送別ゴルフコンペを利根川河川敷の東我孫子カントリークラブで実施していた。

10時20分頃ハーフを終え、早めの昼食のためクラブハウスに戻ってきた。無人のフロントの前を通り過ぎようとしたところ、クラブ職員が残したとみられる書置きのメモが偶然私の目に止まった。そのメモは、当直幹部から同じ組の舘島曹長に宛てられたもので、「大至急、連隊本部に連絡されたし」と記されてあった。

このメモを見た瞬間、私は「第六感」とも言うべきか、「何か重大なことが起こったのでは?」と不思議な胸騒ぎを覚え、自ら直ちに連隊本部に電話をかけた。これが、地下鉄サリン事件除染作戦の待った無しの作戦開始であった。

  • 我が人生で“一番長い日”

終戦前夜、聖断に従い和平への努力を続ける人々と、徹底抗戦を主張して蹶起せんとした青年将校たちの葛藤を描いた『日本のいちばん長い日』という映画があったが、私にとって「3月20日」は、人生で“一番長い日”であった。ゴルフ場から慌ただしく帰還したのは、災派命令受領から20分後、まさに“滑り込みセーフ”だった。

 

命令の骨子は「32連隊長は都内の毒物を探知しこれを除去せよ」という、漠然としたものだった。外出している隊員を非常呼集したが、ラジオやテレビで事件を知り少しずつ集まってきた。化学学校と第1師団・第12師団隷下の化学部隊が配属になった。

私は、「都民の安心」を念頭に、化学部隊の到着を待たず、先ず連隊隊員で編成した除染隊を先遣し、現場情報の把握や除染準備に着手させた。本事件は、前例のない世界初の化学テロであったが、隊員達はテキパキと命懸けの除染作戦をやり遂げた。紙幅の関係で、つまびらかにはできないが、顛末については、拙著「『地下鉄サリン事件』自衛隊戦記」(光人社)で記録に留めている。

  • むすび――日本国民は宗教と向き合うべきだ

筆者は、「日本国民はオウム事件を契機に真剣に宗教と向き合うこと」が本事件の教訓だと思う。戦後、「宗教はアヘン」と見る唯物史観に汚染され、日本社会は精神・宗教的“不毛地帯”に荒廃した。だからこそ、高学歴のインテリ達が麻原のカルト宗教にのめりこんだのではないのか。日本宗教界の責任は重い。大勢の団塊の世代が高齢化を迎え“あの世に旅立つ”時が近付く今日、その“処方箋”としては「福祉予算の配分」だけに論議が終始している。「人はパンのみにて生きる者にあらず」の訓えを忘れているようだ。死を癒してくれる宗教についての議論がない。私達は、国民的課題として、真剣に宗教と向き合う時期を迎えているものと確信する。宗教界も、「心の“不毛地帯”」となった日本の救済に立ち上がるべきだ。

 

 

(おやばとより)

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