「我が国の歴史を振り返る」(80) 「大東亜戦争」の総括(その8)
▼はじめに
少し前ですが、東南アジアなど海外でパワフルに支援活動を実施している池間哲郎氏が「歴史は人格教育だ」と話しているのを聞き、長い間、我が国の歴史を学び、自分自身が変わったことを実感している我が身を振り返り、妙に納得したことを覚えております。
世の中に「反面教師」という言葉あります。改めて個人的な体験を詠みがえらせれば、高校時代の日本史の教師は日教組の幹部の端くれだったらしく、偏向した内容の日本史を毎回のように教育していました。「何かおかしい」と本能的に気づいた私は、どうしても日本史が好きになれないまま最小限の歴史を学ぶだけに終わってしまいました。
日本史のみならず当時の母校は、いわゆる左翼教師達の巣窟だったらしく、職員室の壁には「○○打倒」とか「△△粉砕」などと書かれた短冊があちこちに貼られているなど、今にして思えば、文系は不思議な教育のオンパレードでした。それらが「反面教師」となって、私は、左翼思想が入り込む余地の少ない理科系を選び、防衛大学校に進学、自衛官の道を歩むことを決心しました。
ところが、卒業間際にまた邪魔が入りました。防衛大学校に合格し、入学する際に必要な成績証明書を受領するために担任の教師のもとに赴いた所、担任もまた日教組の戦士のような人で「人殺しを教える防大になぜ行くのか」と強硬に反対するのです。
ムッときた私は、「自分の人生は自分で決める。先生の指図は受けない」と反論し、成績証明書を担任からむしり取るように奪い、職員室を後にしました。その後、二度と担任と会うことも交流することもありませんでした。
それもあって、「若い時の忘れ物」のような思いで、人生の後半、日本史を学ぶことに情熱を燃やしました。そして、当時は理解できなかった「先生方はなぜ、皆、偏向しているのか」についての答え、つまりそれは、終戦直後に青春を迎えた世代に共通した“上滑り”だったことを理解できるようになりました。
気が付けば、(自分で言うのはおこがましいですが)まさに池間氏の言われるごとく「歴史よって人格教育」されている自分自身を再発見したのです。
大東亜戦争の総括が長くなりました。今回が最後になります。
▼精神的破壊によって植え付けられた歴史観
前回の続きです。国を挙げて精神的破壊を受けた戦後、「大東亜戦争(太平洋戦争)」に関する一般的な見解は、「大東亜戦争は、日本の侵略戦争であり、天皇を中心とする万世一系的大家族という後進的・封建的社会構造をもった軍国主義国家と自由と民主主義を原則とする文明国の対決だった」「日本は道義的あるいは文明的に誤った戦争を仕掛けたがゆえに敗北した」であり、いわゆる「東京裁判史観」あるいは「自虐史観」といわれる「贖罪意識」に満ちた歴史観が定着します。
まさに私の母校の教師達のごとく、GHQのお先棒を担いだ日教組などによって「戦前の日本は、帝国主義、軍国主義、植民地主義をひた走り、アジア各国を侵略した恥ずべき国だった」「長く暗い時代を経た後、戦後になってやっと日本は自由平等と民主主義の明るい社会を築くことが出来た」との教育が今現在も続いているのでしょう。
その影響が様々な面に現れていることは言うまでもありません。話題となった日本学術会議の任命問題もその典型と考えます。ところで、読者の皆様は「世界価値観調査」を知っているでしょうか。「世界価値観調査」とは、世界数十カ国の大学・研究機関の研究グループが参加し、共通の調査票で各国国民の意識を調べ相互に比較している国際調査をいい、5年ごとの周回で行われています。
そこに「自国民としての誇り」という設問があります。日本の調査結果は、「非常に感じる」が28%弱、「かなり感じる」が44%、合わせて72%ほどです。調査対象の58ヶ国のほとんどの国々が「かなり感じる」以上が90%前後を占める中にあって、日本は毎回、下から3番目か4番目にランクされます。日本より下位にはウクライナ、台湾などがあるのみです。
そして、「もし、戦争が起こったら国のために戦うか」という設問もあり、日本は、「はい」が15%、「いいえ」が39%。「わからない」が46%です。他国に比して「わからない」が多いのが日本の特徴でもあるのですが、「『はい』が少ない」という意味では、調査対象国の間では、毎回断トツの最下位です。当分、どの国も届かない数字です。
日本の上位には、スペイン(28%)、イタリア(37%)、ブルガリア(39%)などが続き、3分の2以上の国は、「はい」が50%以上を占め、ベトナムやカタールなどは90%を超えています。
最近の世論調査では「自衛隊に対する好印象」が90%を超えていますが、元自衛官の私は、これらの数字を比較してとても憂鬱になります。うがった見方かもしれませんが、暗に「俺たちは戦わないが、自衛隊は頑張れ」といっているように見えるのです。
将来戦の様相は不透明ですが、わずかに23万人足らずの自衛官だけで我が国の国防を全うできるとは思えません。あまり語らないことにしていますが、陸上幕僚監部防衛部長の職にあった時、「イラク復興支援活動」の計画・準備とオペレーションを担当しました。派遣当初、本支援活動に関して国民の理解と支持が十分得られず、その対策にとても苦労したことを覚えています。
自衛隊員が命を賭して任務を達成しようとする時、その力の根源となるのは、(直接の参加はなくとも)“国を守る強い意志”にバックアップされた大方の国民の支持(共感)にあることを知っていただきたいと思うのです。
いずれにしましても、毎回、「世界価値観調査」のデータは、日本人が精神的破壊を受け、今なお「自虐史観」に陥ったまま立ち直れていないことを示す証拠として注目しています。
▼周辺国の精神的破壊
実は、日本人の精神的破壊だけを注目しても、問題の本質を発見することはできません。我が国の周辺国にも、先の大戦などの後遺症から精神的破壊を受け、今なお立ち直っていない国が存在していることをしっかり認識する必要があるのです。
中国の習近平主席は、就任するや「中華民族の偉大な復興」を掲げ、「中国は屈辱の歴史を歩まされた。貶めたのは日本だ」として日本も標的にしています。韓国も日本の植民地時代の清算をめざし、公然と「反日無罪」を掲げます。北朝鮮に至っては、国交もないことから彼らの本意を知る手段がありませんが、依然として、我が国に敵対心を持っていることは明らかです。
ロシアも同様です。終戦間際の対日侵攻は、伝統的な南下政策、共産主義の拡大、そして日露戦争の復讐の“合わせ技”だったと考えますが、ロシア帝国からソ連に国の体制が変わっても、トインビー的な視点である日露戦争の「復讐」的要素は変わりませんでした。
だからこそ、1945年9月2日、我が国が「休戦協定」を調印した日、スターリンは、「日露戦争の敗北の汚点を一掃する日が来た」とする、有名な「ソ連国民に対する呼びかけ」を実施したのでした。
注目すべきは、これらの国に共通している精神的破壊は、“戦意そのものを失った”我が国の精神的破壊とは次元が違うことです。つまり、トインビーがいう「無慈悲と敵意に満ちた精神状態」を再び作り出すレベルにとどまっていることです。
現に、上記の価値観調査の「自国のために戦う意識」では、ロシアが56%、韓国が63%、中国に至っては74%を超えています。作為的数字とも推測されますが、14億人もの人口を抱える中国の場合、74%は約10億人に相当します。
また、これらの国々は、自国に有利なように“歴史を歪曲している”点でも共通しています。歴史はヒストリーでなく、中国ではプロパガンダ、韓国ではファンタジーなどと揶揄されるゆえんです。
特に、“現状変更路線”によって、周辺国との緊張感を増大させ続けている中国の習近平政権は、共産主義体制の維持を最優先に政策を推進しているように見えます。それでも、人類の歴史が教える“国際社会で孤立化した国家の末路”も少しは学んでいるのでしょう。いわゆる“超限戦”を駆使し、周辺国などに対して様々な“巻き込み工作”を展開中です。
最近、韓国において『反日種族主義』がベストセラーになって叩かれ、現在、その闘いの歴史を記した続編も注目されています。この著者達は、まさに「無慈悲と敵意に満ちた精神状態」を振りかざすと「再び(悪夢の)歴史を繰り返すぞ」と警鐘していると考えますが、大方の韓国人に届かないようです。
これらの周辺諸国は、日本人の多くがすでに自国への誇りを失い、自国防衛のために戦う意欲を失った精神状態にある“隙”につけ入ることを「国是」としているように見受けられます。
説明するまでもないでしょうが、中国との尖閣諸島や沖縄の問題、韓国との竹島や歴史問題、北朝鮮との拉致問題、そしてロシアとの北方領土問題にはこのような共通の背景があります。残念ながら、これら共通の背景を解決せずして個々の問題の解決は困難と私は考えます。
▼精神的破壊からいかに復活するか
「我が国の歴史から何を学ぶか」については、本シリーズの「あとがき」に改めて整理したいと考えますが、我が国は、「大東亜戦争」の敗戦から、吉田ドクトリンによって経済復興優先、つまり物質的な破壊の再興を目指した結果、みごとに立ち直り、一度は世界第2位のGDPを誇るところまで復活しました。
だいぶ前から「もはや戦後は終わった」という言葉がもてはやされてきました。しかし、これはあくまで1度目の敗戦、つまり物理的破壊の回復に過ぎないと考えます。この言葉を発すること自体に、「敗戦の意味が分かっていない」と言わざるを得ないのです。
問題なのは、2度目の敗戦、つまり精神的破壊の復活です。当然ながら、「無慈悲と敵意に満ちた精神状態を作り出す」レベルまで国民の精神が再び蘇ることは将来、まずないでしょうし、その必要もないでしょう。それこそが、「自国の歴史を失った民族は、先人から学ばないのでまた同じ失敗を繰り返す」状態になるからです。
一方、「自らの意思で二度と戦争を起こさない」と宣言しても、それが「“受動的な戦争”を回避する手段となるわけではない」ことを理解する必要があります。
周辺国(対象国)がみな、「自らの意志で戦争を起こさない」ことを誓い、その意思を共有し、実行し続けない限り、戦争を完全に回避するのは不可能です。
戦争は、国益と国益、国家の意志と意志とのぶつかり合いです。こちらに戦う意志がない限り、いわゆる不戦敗を宣言すれば、戦争は回避できます。しかし、その結果として、国家の独立、国民の生命・財産を失う、あるいは、自由と民主主義、基本的人権、法の支配などの基本的価値観、さらには国家としての尊厳を失う可能性があるのは必定です。しかも、その影響は一国に留まらず、周辺国や同盟国あるいは国際社会全体に及ぼすと考えるべきでしょう。
日本人の中には、後先を考えずにただ「戦争を避けるべき」と唱える人たちがたくさんおります。その人達は、“その先に何があるのか”をイメージしているのか、いつも疑問を持っています。
無益な戦争など避けて国と国が仲良くすることは理想であり、これに対して全く異論はありません。よって外交などあらゆる手段を尽くして平和を維持する重要性について声を大にして訴えるところです。
他方、国と国の関係は、これまでの人類の歴史が示すように“争い”の繰り返しでしたし、今後も“争い”がなくなることはまずないでしょう。
核兵器の出現によって、かつての「総力戦」が発生する可能性は皆無といえるかも知れませんが、核による恫喝、核戦争に至らない限定戦や局地戦が発生する可能性は依然として低くないと考える必要があります。
「自らの意志で戦争を起こさない」と宣言した上、平和主義を掲げ、必要な抑止力の整備を怠ると、かつて清の軍事力が西欧列国の軍事力に全く歯が立たなかったように、軍事的空白を作る(相対的な戦力格差を放置する)結果となり、侵略(戦争)を生む要因となる可能性があることを歴史は教えてくれています。
確かに、日本人は、マッカーサー率いるGHQに徹底的に精神的破壊を受けました。しかし、その後、70年あまり、それを“良し”として、放置していることはマッカーサーの責任でも何でもなく、日本人つまり私達の責任であり、私達の“怠慢”にこそ問題があると私は考えます。その“怠慢”にそろそろ気がつかなければなりません。
そして残念ながら、戦争を防ぐには、「戦争に訴えても戦争を防ぐ」との強固な意思をもって、盤石な抑止体制を整備するしか有効な手段はありません。少なくとも、このパラドックスを理解するレベルまで、大方の国民の「精神的破壊」が復活することが求められていると断言します。あとに続く世代のために、そして手遅れになる前に、です。
▼「大東亜戦争」総括のまとめ
2015年8月、安倍前総理が「戦後70年談話」を発表しました。その内容、つまり我が国の歴史の見方について、個人的には違和感を持たないわけではありませんが、「次の世代に謝罪を続ける宿命を負わせてはならない」とする決意表明は、我が国政府の立場から精一杯の政策転換だったと理解しています。
しかしあれから5年余りになりますが、この発言は“単なる発言”に終わってしまいました。①この談話が何を意味するのかを真剣に分析し、②歴史の解釈を再検討するとともに、③その結果をいかに内外に発信し国民を教育するか、などについて、伝わってくる限りにおいては、与党である自民党内でさえ議論したような形跡はありません。
このように、我が国の精神的破壊を一挙に復活するのは今の国情から無理なのでしょうが、そのきっかけこそが、歴史、中でも歪曲された歴史でなく“史実”を知ることにあると考えます。
米英両国がソ連と連合し、ナチスドイツを撃破したような“戦略眼”や“したたかさ”が、島国日本にも求められています。私達は、多大な犠牲を払った「大東亜戦争」から改めて敗因や教訓を学び、未来に活かす知恵を生み出すことが重要なのです。
同時に、押し付けられた価値観や判断基準で歴史をさばき、先人達を侮蔑することを止め、我が国が人類史上で果たした偉業に誇りを持つべきです。
その上で、改めて、二度と失敗しないために、国の統治制度など改めるべきところは改める勇気を持つ重要性を歴史は教えてくれていると私は思います。
これをもって、「大東亜戦争」の総括を終わり、次回以降、本歴史シリーズの「あとがき」として「歴史から何を学ぶか」などを主にまとめてみたいと思います。もう少しお付き合い下さい。(以下次号)