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「我が国の歴史を振り返る」(79) 「大東亜戦争」の総括(その7)

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▼はじめに

以前に紹介しました『連合国戦勝史観の虚妄』の著者である英国人記者のヘンリー・S・ストークス氏は、本書の冒頭で、第2次世界大戦における英国人の立場、中でも、大英帝国が滅亡するきっかけを作った日本(人)に対する「本音」を赤裸々に語っております。

少し紹介しましょう。まず、かのチャーチルが、罵詈雑言というべき、許容範囲を逸脱した差別的表現で日本人を侮蔑していることを告白し、「栄華を極めた大英帝国の広大な植民地が、一瞬にして消えた屈辱はそう簡単に忘れられるものではない」とそのショックを披露します。

そして「イギリスは、1066年にノルマン人に侵略を受け、国土を占領されますが、ナポレオンやヒトラーの侵略を斥けた。しかし、その帝国の植民地がなんと有色の日本人によって奮われた。イギリス人にとって、有色人種に領土を奮われ、有色人種が次々に独立国をつくったことは、想像を絶する悔しさだった」と続きます。

さらにストークス氏は、生体実験のような原爆も投下する必要がなかったとする一方で、英国人にとっても、日本人を徹底的に打ち砕き、完膚なきまでに叩きのめし、“辱めを与える必要性”があったとし、勝者の正義などはまさに“建前”で、復讐せずに収まらなかったのが「本音」であり、「東京裁判は、まさに復讐劇だった」と結論づけます。

私達は、連合軍の“非人間的”な戦い方や米軍を主体とした占領軍によって行われた占領政策は、ややもすると米国の考えに支配されていたと思いがちですが、「英国人のこのような“屈辱感”や“復讐劇”が後押ししていたことを忘れるべきではない」と、英国人でありながら“連合国側の史観を虚妄として退け、日本側の正当性を主張する”ストークス氏が教えてくれています。

これらを加味し、私自身がイメージした「大東亜戦争」総括のストーリーもまもなく完成です。どうぞ本文をお楽しみください。

▼共産主義拡大の阻止

まずは前回の続きです。「大東亜戦争」の人類史上の意義の2番目は、「共産主義の拡大防止になりえたかどうか」という視点です。

20世紀初めの第1次世界大戦の最中、初の共産主義国家であるソビエト社会主義共和国連邦がロシアに誕生しました。その理論のとなったマルクスの『資本論』は世界最大のベストセラーとなり、大正時代後半、日本語にも翻訳され、我が国のインテリ層を中心に読者層が広がることとなったことは前にも述べました。

コミンテルンを形成した共産主義運動は、ソ連にとどまらず、世界共産化を目指して世界各地で活発な活動を展開したことから、自由主義国家にとっては最大の脅威となるはずでしたが、ヒトラー率いるナチス・ドイツが欧州の支配を企図して“眼前の敵”として立ちはだかったこともあって、欧米諸国のリーダー達の反応は鈍く、結果としてソ連は連合国の一員に加わることになりました。

当初は防共協定が目的だった「日独伊三国同盟」が、ヒトラーとスターリンの陰謀が一致した「独ソ不可侵条約」の締結によってその性格が変わってしまったのも“歴史を変える”大きな要因となりました。

一方、我が国にとっては、国体と到底相い容れない共産主義は最大の脅威であり、中でも「天皇親政」をめざす軍人達の反応は極めて敏感でした。

そして共産主義の“浸透防止”も目的となって、やがて「満州事変」が発生、その防波堤としての「満州国」建国にまで至りますが、中国大陸にあっては、スターリンや毛沢東の巧妙な戦略により、陸海軍は国民軍と相つぶし合うような戦いを繰り広げました。

終戦後は、ソ連が満州に侵入したことに合わせ、中国共産軍が強力になり、国民党軍が敗北し、台湾に逃れます。こうして、共産党が中国全土を支配する結果となり、中華人民共和国が成立し、今日まで続いています。

東京裁判において、東條英機は、「米英の指導者は今次大戦で大きな失敗を犯した。①日本という赤化の防壁を破壊し去った、②満州を赤化の根拠たらしめた、③朝鮮を2分して東亜戦争の因たらしめた」との証言を残しました。

また、すでに紹介しましたように、マッカーサーも「過去100年に米国が太平洋地域で犯した最大の政治的過ちは共産主義勢力を中国で増大させたことだ。次の100年で代償を払わなければならないだろう」と、“マッカーサーにしては”的確な証言をしています。

これらから、共産主義拡大の防波堤としての人類史上の意義は、我が国の様々な努力にもかかわらず、「失敗に終わった」と言わざるを得ないと考えます。

第2次世界大戦の終盤、ソ連の危険性にようやく気が付いた米英両国、特にトルーマンとチャーチルは必至で「封じ込め策」を弄しますが、“時すでに遅し”でした。

その影響が我が国の占領政策にも現れたことはすでに触れましたが、マッカーサーが上記の証言のような認識を持ったのは、中国共産軍が中国全土を支配し、金日成が朝鮮半島の支配を企てるとの情報が入った頃、つまり占領期の後半でした。

その時点では、すでに日本軍を解体し、WGIP(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)によって日本人に贖罪意識を植え込むとともに、日本国憲法を制定し、東京裁判でA級戦犯を処刑し終わった後でした。

ここに至って初めて、マッカーサーは日本の置かれた状況を理解し、ワシントンからは見えない、東京にいるからこそ理解できるアジア情勢、中でも共産主義の脅威を肌で感じることとなります。その心境の変化が「日本を戦争に駆り立てたのは、セキュリテイのためだった」と衝撃的な議会証言に繋がったと考えます。

朝鮮戦争後、警察予備隊の創設など、にわかに占領政策を方向転換しますが、それまでの日本改造の諸政策があまりに強烈過ぎて、多くの日本人が追随できないまま時が流れます。

そして、「冷戦」を経てようやくソ連が崩壊し、東ヨーロッパが解放されるまで、それから40年余りの歳月が流れます。他方、アジアにおいては、中国や北朝鮮などの共産主義国家が益々権勢を奮い、我が国のみならず、西側世界の最大の脅威に成長しています。今、まさにマッカーサーの予言通り、いやそれ以上の“代償”を払わされているのです。

戦後の日本を方向づけたのは明らかにマッカーサーですが、プライドの高いマッカーサーは、自らの情勢判断の間違いについて一言も詫びることも正すこともありませんでした。

そして、マッカーサーにマインドコントロールされた有識者やその末裔達がマッカーサーの政策を忠実に受け継いで国を二分したため、我が国は、現下の脅威に対して有効に対処できるとは思えないような国家体制のまま今日に至っているのではないでしょうか。この細部こそが「大東亜戦争」総括の最後のテーマです。

▼我が国は、2度敗戦した!

いよいよ「大東亜戦争」最後の総括、その第5「占領政策の影響を含めた精神的敗北とその影響」を取り上げます。

すでに取り上げましたように、クラウゼヴィッツの「講和とともに戦争目的は達成され、戦争の仕事は終わったものとみなされる」に従えば、1951年に講和条約が成立し、我が国の主権が回復した時点をもって「大東亜戦争が終わった」とすべきと提唱し、そして“一国家の抵抗力を奪う”の意味も取り挙げました。

今回はこのような見方によってはじめてわかる「敗北の意味」も解き明かそうと思います。

歴史家トインビーは「自国の歴史を失った民族は滅びる」との有名な言葉を残しています。なぜこのような境地に至ったかについて、トインビーは『歴史の教訓』の中で次のように説明しています。

「①戦争は、益々破壊的になり、ついには戦争を引き起こした社会そのものを破壊してしまう。しかし②致命的な破壊とは物質的な破壊ではなく、精神的なものの破壊である。③物質的な損害の再建は、驚くほど迅速に行われるからである。一方、④精神的なものの損害は、時に重大な結果を引き起こす。精神的な破壊が無慈悲と敵意に満ちた精神状態を作り出すことが可能だからである」と続きます(注:〇数字は私がつけたものです)。

トインビーは、第1次世界大戦の結果、過度な賠償金を要求されたことが原因となってヒトラー率いるナチス政権がドイツに誕生し、まさに復讐戦を繰り広げたように、国と国の争いの原因の中に過去の「復讐」とか「怨念」のようなものが支配すると指摘しています。

そして最後に、「大事なことは、過去の歴史的知識を習得して、その知識に基づいて効果的な行動をすることであり、同じ道をたどり、同じ過ちを犯さないことである」として、「自国の歴史を失った民族は、先人から学ばないのでまた同じ失敗を繰り返す」、それこそが「亡国の道」だと説いたのです。

トインビーのこの解説に接すると、私自身は複雑な思いに駆られます。確かに、1945年8月、我が国は、「ポツダム宣言」を受諾して敗北しました。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と発された天皇の玉音放送を聞いた多くの国民は、大きなショックを受け、号泣のあまり立ち上がることもできませんでした。

当時、多くの著名人もその時の心境を残しています。文芸評論家の磯田光一氏は、「これからどうなるかの不安と表裏一体をなして、一種の安堵安と挫折感が表裏一体をなしていた」と表現し、思想家吉本隆明氏は「革命でもなければ徹底抗戦でもない、『絶望』であった」と表現しています。

中には、「本土決戦を覚悟し、死ぬ気でいた」とした桶谷秀昭氏のように、「降伏宣言は、日本の歴史と神話の崩壊だった」として「本土決戦は、“一億総特攻”の思想である。これは戦法というより“心法”である」との切実な主張もあります。

桶谷氏は、「国家も皇室も単に存続するだけでは駄目で、“民族の精神”とともに生きなければならない。中途半端な降伏によって日本国民の“精神”が失われてしまう」ことを危惧していたのでした。

桶谷氏の主張の“一億総特攻”にはにわかには賛同しがたいものがありますが、終戦当時における“日本人の精神”が失われることへの危惧は、その後の歴史をたどると、まさに“的を射ていた”と言わざるを得ないと考えます。

史実として、我が国は、本土決戦でなはなく、連合軍の占領を甘んじて受け入れることを選択します。すでに紹介しましたが、トルーマン大統領から指示された「降伏後における米国の初期の対日方針」(1945年9月6日付)は、「日本国が再び米国の脅威となり、世界の平和及び安全の脅威とならないことを確実にすること」を占領の究極の目的としていました。

冒頭で述べましたように、それはアメリカだけの方針(考え)ではありませんでした。イギリスをはじめ連合国の一致した考えだったのです。

この後押しを受けて、マッカーサー率いるGHQは、「ポツダム宣言が「日本軍の無条件降伏のみ」を要求したことを「日本の無条件降伏」にすり替えます。

そして白人が有色人種を侵略するのは「文明化」で、劣っている有色人種が白人(の植民地)を侵略するのは「犯罪」であり、神も意向に逆らう「罪」であるとして自らを正当化します。

一方、すでに紹介しましたように、当時の一般的な日本人の意識は、「日本人の間には、戦争贖罪(しょくざい)意識が全くといっていいほど存在せず・・・道徳的過失も全くなかった。日本の敗北は、産業と科学の劣勢と原爆のゆえであるという信念が行き渡っていた」(昭和20年11月のGHQ月報より)だったのです。

この日本人の意識を知ったGHQは、トルーマンの指示どおり、本格的に日本人の精神的破壊を目的とする“殲滅戦”を始めます。「WGIP」の導入をはじめ、憲法制定や東京裁判まで、徹底して“日本人の意識改造”政策を突っ走るのです。

説明するまでもないと思いますが、トルーマン大統領の指示は、トインビーが「精神的な破壊が無慈悲と敵意に満ちた精神状態を作り出す」と指摘したレベルに再び日本人が戻らないように、完膚なきまでに「日本人の精神を破壊する」ことにあったと考えるべきでしょう。

こうしてみると、私は、“我が国は、2度敗戦した!”とするのが妥当と考えます。1度目は、1945年8月の終戦です。この時点では、我が国は確かに物質的な破壊を受けますが、精神的な破壊はまだ受けていませんでした。

我が国は、「戦争は国益と国益の衝突である」というクラウゼヴィッツ以来の戦争の基本認識を無視して「民主主義対ファシズム」との対立図式を硬直的・教条主義的に適用し、日本の行動をすべてファシズムによる“悪”と決めつけた「ポツダム宣言」を受け入れましたが、まだ国をあげて“一億総懺悔”する精神ではなかったのです。

そして「ポツダム宣言」を受けた東京裁判において、確かに、清瀬弁護士のように「ポツダム宣言の受諾は無条件降伏に非ず」として、徹底的に戦った“戦士”も存在しましたがその主張は通らず、戦争犯罪の汚名を着せられました。

その他、「復讐劇」ともいうべき、一連の巧妙な占領政策によって、日本国民は徹底的に精神を破壊され、国民の間に「贖罪意識」が充満したまま、1951年、「サンフランシスコ講和条約」締結をもって2度目の敗戦を迎えます。

問題は、これら精神的破壊が我が国の戦後の歴史に与えた影響にあります。これについては、次回取り上げましょう。(以下次号)

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