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「我が国の歴史を振り返る」(65) 中国共産党政権誕生“秘話”

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▼はじめに(ジョージ・マーシャルについて)

 私は長い間、「国民政府はなぜ共産党に敗れたか」「アメリカがなぜ蒋介石を見捨てたか」に疑問を持ち、日本の著名な昭和史研究家、学者、外交官などの著書を調べていましたが、目についたものはありませんでした。以前に紹介した「日中共同研究」においても、終戦時に中国大陸に取り残された軍人や民間人の“その後の足取りを追う”ことに留まっています。

また知る限りにおいて、中国史の専門家の著書にも、その時期の大陸の事情については、共産党とソ連の緊密な関係の言及はありますが、米国の政策に関するものを見つけることは出来ませんでした。

当時、日本は占領下にあり、当然ながら外交権も保持していません。よって、国家としての必要な国外情報も収集できない時期にあり、GHQを通じて、最小限の情報を得ていたものと思われます。

政府も国民の生活救済やGHQに強要された大幅な国家改造など、国内対応で精一杯だったと推測されますが、改めて、「外交権を失うことの意味」を思い知らされるような気がしています。

さて、前回紹介しました『共産中国はアメリカがつくったーG・マーシャルの背信外交』のG・マーシャルとは、「マーシャル・プラン」で有名なあのジョージ・マーシャル(以下、マーシャル)です。本書によれば、マーシャルを語らずして当時の米国の対中政策は語れないと考えますので、まずマーシャルの経歴を簡単に紹介しましょう。

マーシャルは、軍人としては何とも稀有で不思議な経歴の持ち主です。マーシャルは昇任が遅く、ようやく大佐になって連隊長の職を得たにもかかわらず、「軍人としての才覚に欠ける」として解任され、少佐に降格されたようです。その後、市民保全部隊という失業者救済のボランテイア活動の監督のような仕事を通じてワシントンの高官たちと交流があったといわれます。

1939年、少将になったマーシャルは、戦争計画担当の副参謀総長に赴任します。それから1年もたたないうちに、ルーズベルト大統領によって、20人の中将と14人の先任少将をさしおいて陸軍参謀総長に大抜擢され、大将に昇任します。我が国では絶対あり得ない人事管理ですが、参謀総長在職間は、ソ連の参戦や日本本土侵攻を唱えた強硬派で知られています。

大戦終戦後、参謀総長の職を辞し軍を退きますが、1945年12月、トルーマンからの中国の全権特使に任命され、1947年1月まで中国に滞在します。その後、国務長官に就任し、欧州諸国の復興のために復興援助計画を立案します(「マーシャル・プラン」)。1953年、この「マーシャル・プラン」の立案・実行によりノーベル平和賞を受賞します。

そして、朝鮮戦争中の1950年9月、今度は国防長官に就任し1年間務めます。

▼ジョージ・マーシャルの不思議な行動

これほどの要職をこなした人物が「中国共産をつくった張本人」と糾弾されるのはなぜでしょうか。それを解き明かしながら、中国情勢を振り返ってみましょう。

日本軍が国民党軍を徹底的に叩いている間も、ソ連は、毛沢東を援助し、毛勢力は急激に勢力を伸ばします。一方、ルーズベルトは、「ヤルタ秘密協定」(1945年2月)において、満州国の港湾や南満洲鉄道の権益をソ連に引き渡すことなどについて、蒋介石の同意抜きでスターリンに大幅に譲歩してしまいます。これを聞いた蒋介石は、しばし沈黙した後に「実に残念なことだ」と語ったといわれています。

この南満州や南樺太など「日露戦争」によって失った権益の回復に加え、千島列島の獲得を「ロシアの参戦の条件」として受け入れることをルーズベルトに強く助言した人物こそ、「ロシアを戦争に引っ張り込むための“餌”」を必死に探していたマーシャル陸軍参謀総長だったのです。

米国合意のもとに、日本の降伏直前に満州を占領したソ連軍は、国民党軍が満州に入ることを拒み、降伏した日本軍の武器・弾薬などを共産党軍に流します。スターリンは、対独戦を終えて不要になった米国製の武器まで毛沢東に渡したといわれております。

他方、トルーマンは、「ヤルタ秘密協定」の存在すら知らなかったといわれ、共産党政権が誕生する直前まで毛沢東を「進歩的な農地改革者」と言って賞賛し、毛沢東側の代表を蒋介石政府に入れるべきだと提案さえしているのです。

そして、中国の内戦において、次第に国民軍が劣勢になると軍事援助を渋り、蒋介石を「邪悪な反動主義者」として遠ざけます。実に不思議なのですが、その背後でも、マーシャルに加え、国務省のニューデーラー達が暗躍していました。

さて、アメリカの対中政策上のもう一人のキーパーソンに、のちに『第2次世界大戦に勝者なし』との回想録を残すアルバート・ウェデマイヤー将軍がおります。マーシャルの対極で活動することになるウェデマイヤー将軍は、当時のマーシャル陸軍参謀長に命ぜられ、1944年10月、中国戦線の米軍の指揮官職と蒋介石の参謀長を兼ねて中国に赴任します。

その前任者のジョゼフ・スティルウェルは、マーシャルの子分的存在だったようで、彼が中国から送った「親共産軍プロパガンダの山」が当時の陸軍や国務省の判断をかなり狂わせたとの記録も残っています。スティルウェルは、蒋介石が米軍と戦争協力の条件として更迭を要求したため、中国を追われたのでした。

ウェデマイヤーは、中国滞在間、幾度となく国民党軍と共産党軍の対立の“根深さ”を知り、「米英ソが国民党と共産党の統一を強要した場合、徐々に深刻な問題を形成する。統一に手を貸せば、3国の噛みつきあいになる」旨の手紙をマーシャルに送り警告しますが、無視されます。

1945年11月、ウェデマイヤーは中国を離れますが、この頃から米国の対中政策の基本方針は、「もし中国政府が共産党制圧に乗り出したら、中国政府への支援を打ち切る」ことになっていたようです。

終戦後の1945年12月、参謀総長を辞したマーシャルは、トルーマンから中国の全権特使に任命されます。マーシャルは、中国国民から「平和の使者」としてもてはやされ、まず、国共両党を統一交渉のテーブルにつかせ、共産党を含めた連立政権を樹立し、双方の軍隊を国民軍に統一しようと画策します。1946年1月には停戦協定を発表し、2月の基本法案によりそれぞれの軍隊を削減することまで合意します。

この結果、スターリン、そしてマーシャルに度々接触した周恩来らから「マーシャルこそ、中国問題に決着をつけられる人物」とさかんに持ち上げられます。

マーシャルは、「ヤルタ会談」の譲歩を完全に実行するように、「赤軍を刺激しないように中国政府を抑えること」「中国政府が共産主義少数派を力で制圧しようとしたら、米軍の支援を打ち切ること」などを実現することこそが、「自分が中国に来た使命だ」と認識していたといわれます。

ソ連軍は1946年3月、満州から撤退を始めますが、4月には共産党軍がハルピン、長春、チチハルなど主要都市を占領します。その翌月、国民党軍が長春や吉林を回復しますが、8月、共産党は満州に勝手に政府を作ります。10月、アメリカは、中国がソ連の影響下に入らないように、国民党と共産党両者に中国を振り分ける休戦提案を行いますが、共産党はこれを拒否します。

その結果、1946年11月、アメリカと国民党は、共産党を無視して「米華友好通商航海条約」を結びます。そして1947年1月、マーシャルは、国務長官に就任するため中国を離れます。

半年後の7月、再び、ウェデマイヤーはトルーマン大統領から中国と朝鮮に派遣され、「政治・経済・民情・軍事」状況の調査を命ぜられます。そして2か月の調査の後、「中国は、ソ連の手先になっている中国共産党によって危機にさらされている」旨の有名な『ウェデマイヤー報告書』(1947年9月)を提出します。

しかし、報告書はその後2年間、封印されたままになりますが、これを無視したのは国務長官のマーシャルだったといわれます。

マーシャルは、国務長官に就任後、欧州復興のため「マーシャル・プラン」を発表しますが、アジア正面では、自らの中国復興計画と和平調停が破綻してしまったこと(その原因は蒋介石側にあると判断したこと)に対する制裁なのか、あるいは彼自身の信念なのか、議会が決定した国民党への支援を故意に遅延させるなど、共産党を利する政策を取り続けます。

米国内においては、陸軍省(軍事情報部)などは中国共産党の実態を正しく把握していたといわれますが、一人の元将軍の怨念のような、かたくなな政策によって共産党政権の誕生を許す結果となったという指摘は、それが「史実」だったといって過言ではなさそうです。

それにしても、日本軍の占領政策にあれほど注意を注いだ米国が、そして歴史を振り返れば、日本と争いつつ“中国進出”を目指してきたその米国が、この時期、嘘のように中国への関心を失っていた(ように見えた)のは、実に奇妙です。

当然ながら、国務長官といえども、マーシャル一人の力ではアメリカの政策を左右できないことは明白です。これについては、フーバー元大統領の回顧録には「政治的野心を持った国務省の陰謀だった」と記載され、トルーマン政権内、特に国務省内のニューデーラー達が意図的に中国の共産政権の誕生を容認したと指摘しています。

また、1950年、「マッカーシズム」(赤狩り)の発端となったマッカーシーの問題発言「国務省に所属し、今もなお勤務し政策を形成している250人の共産党党員のリストを持っている」などからも、当時の米国国務省の暗躍が浮き彫りになります。

マッカーシーの摘発の真意については、「世界を自由主義と共産主義に分割し、意図的に両陣営を対立、拮抗させることで利益を得る者たちがいる。彼らに抜擢され操られ上手に使われた政治家が、ジョージ・マーシャル国務長官その人である」と少し別な指摘もあることを付記しておきましょう。

“歴史を動かす”要因は常に複雑です。蛇足ながら、「〇〇史観」と言われるものに色濃く染まる人達は、その史観を信奉するあまりそれ以外の“歴史の見方に盲目になる”傾向にあるようです。「歴史を学ぶ時のいましめ」と私はいつも自らに言い聞かせております。

▼朝鮮半島の分断

次に終戦後の朝鮮半島についても触れておきましょう。まず、朝鮮半島については、カイロ宣言で「朝鮮は適当な時期に独立する」とされていましたが、ヤルタ会談では、アメリカは「適当な時期」を20~30年間とし、その間は「信託統治領とする」と表明しました。

1945年8月、日本の敗北によって朝鮮は独立を回復し、人々は解放を祝いました。日本支配下で独立運動を続けていた呂運亨を中心に建国準備委員会が結成され、国号は「朝鮮人民共和国」を予定していたといわれます。

ところが、満州を制覇したソ連が北朝鮮の国境を越え、8月24日に平城に入ります。あわてたアメリカはソ連に北緯38度線で分割占領することを提案、9月8日にマッカーサーが仁川に上陸し、「朝鮮を米軍の軍政下に置く」との布告を出します。

1945年12月、モスクワで行われた米英ソ三国外相会議で再調整した結果、「5年間の信託統治」とすることで合意します。しかし、このような大国の勝手な取り決めに朝鮮の民衆が反発、激しい「反信託運動」が起こります。

その結果、朝鮮独立に関する米ソ共同委員会が開かれますが、当時激しくなっていた中国の国民党と共産党の国共内戦の影響を受け決裂してしまいます。この間、北では抗日パルチザンで活躍した金日成が地歩をかため、社会主義改革に着手しますが、南では米軍政のもとでインフレが進行し、ゼネストが起こります。

このような流れの延長でやがて、済州島では民衆の武装蜂起が起き、多数の島民が米軍と右派に殺されるという「済州島四・三事件」(1948年4月)などへ発展していきます。

そして、始めは、米ソ軍の占領境界とした38度線がいつの間にか国境のようになって南北に分断されます。米ソ両国がそれぞれの立場で統一しようと試みますが、顕在化しつつあった東西冷戦を反映し、意見の一致はみられないまま時が過ぎていくのです。(つづく)

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