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「我が国の歴史を振り返る」(64)  「東京裁判」の性格

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▼はじめに

 前回の日本改造に続き、「東京裁判」についても振り返っておきましょう(この正式名称は「極東国際軍事裁判所」ですが、本シリーズでは、通例に従い「東京裁判」と呼称しています)。裁判は、かつての陸軍士官学校、戦時中は陸軍省や陸軍参謀本部が置かれた市ヶ谷台の大講堂で行われました。

なお、この大講堂があった場所には、現在、防衛省中枢が入っているA棟が建っていますが、大講堂とかつての本部庁舎の一部はすぐ横に移設され、「市ヶ谷記念館」として公開されています(事前に申し込めばだれでも見学できます)。

「東京裁判」は、昭和21年5月から昭和23年11月まで2年半にわたって開かれます。「東京裁判」については、すでに多くの歴史家などがその問題点について様々な視点から解説しています。中でも、裁判の主席弁護士(東條英機の担当弁護士)を務められた清瀬一郎氏による『秘録 東京裁判』は圧巻で、「東京裁判」を知るにはこの一冊で事足りるとの印象を持ちます。

清瀬氏は、裁判終了後の昭和23年12月、読売新聞社より「裁判の顛末の執筆」の依頼を受けますが、それを断わります。その理由として「自由主義を標榜する連合国の法廷なれば、連合国の違法も我が国の自衛権も正々堂々とだれはばかることなく主張できた。しかし、法廷外ではその半分の主張も許されぬ。今、読売新聞に正直に記事を書けば、読売の発売禁止は必然であり、それ以外の災害を伴うかもしれない」と、占領下の我が国の状況を赤裸々に語っています。

『秘録 東京裁判』はそれから18年も過ぎた昭和42年に初版が発行されます。まさに言論が封じられていた占領下の法廷において、一寸もひるむことなく終始、我が国の立場を堂々と主張した清瀬氏のような“サムライ”が当時の法曹界におられたことを知り、何度も目頭が熱くなりました。

余談ながら、本書は現在、復刻版もありますが、中央文庫の単行本(古本)はアマゾンでたったの1円、送料299円込みで300円でした。「歴史を軽視するな!」とアマゾンの商法を批判するわけではありませんが、複雑な思いに駆られながらも、初版に触れたくてあえて古本を購入したことを付記しておきます。

本シリーズでは、「東京裁判」が行われた2年半、その間の内外情勢の変化を織り交ぜながら、裁判のいくつかの要点を辿ってみようと考えます。

▼「東京裁判」の性格

 まず、戦争裁判は、第2次世界大戦まで前例がありません。第1次世界大戦後、ヴェルサイユ条約によってドイツのカイゼルを裁判にかけることとしましたが、亡命先のオランダが引き渡しを拒否したため、実現しませんでした。

第2次世界大戦においては、1945年5月、ドイツが降伏すると米英仏ソ4か国が協議して「戦犯の処罰に関する協定」を結びます。その協議の過程で、「英国などへの武器供与をはじめ、ドイツに対して米国が取った行動はすべて正しかった」という考えが米国から打ち出されます。

このような一方的な「正義」の元で、ドイツを裁いたニュールンベルク裁判は、1945(昭和20)年11月20日から開始され、翌46年の10月に判決が下されます。

当然ながら、「東京裁判」においても、我が国が戦争を始める引き金になった米国の“経済封鎖”などはすべて正当化されました。この事実について「勝てば官軍であり、東京裁判の底流に流れ、長く戦後の日本人の歴史観に影響を与えている」と岡崎久彦氏は述懐しています。

その上で、「東京裁判」の狙いは、日米戦争は「民主主義対ファシズムの戦い」であったとして、勝者・アメリカの正義の普及、さらには、戦場における日本軍隊の残虐性を世界中に宣伝し、日本国民の脳中に拭いがたい罪悪感を烙印することにありました。

このため、マッカーサーは、「裁判所条例」(チャーター)を作らせ、「A.平和に対する罪」、(通常の)「B.戦争犯罪」、「C.人道に対する罪」を規定して、日本の指導者、つまり戦争犯罪人を裁きます。条例のABC順から「平和に関する罪」で起訴された者をA級戦犯と呼び、通常の戦争犯罪をB級戦犯と呼びました(C級戦犯はおりませんでした)。

この条例により、連合軍は、まるでそれが戦勝国の特権のように、「東京裁判」をはじめ各地で裁判を実施し、ABC各級戦犯の処刑を実施します。

東京裁判の構成などはほぼニュールンベルク裁判を踏襲しますが、裁判の冒頭、裁判管轄権の問題について、つまりこの裁判で戦争犯罪を裁く権利、資格があるのかどうかの論争から始まりました。

その問題は、前述の清瀬一郎氏と高柳賢三氏2人の主席弁護士によって「日本は、連合国が上陸前のポツダム宣言という条件付き降伏を受諾したのであり、国中が占領されるまで戦闘していたドイツとは違う。ポツダム宣言には、軍隊の無条件降伏は書いてあるが、政府の無条件降伏は書いていない。それならば、日本に政府があるのと前提で、日本が降伏した時の国際法と日本の法律の原則に従うべき。国家の行為について、個人の責任を問うべきではない」旨の主張をしました。

ドイツの裁判所条例には、ドイツ政府が消滅していたことから、「ドイツが無条件降伏した相手の連合国の至上の立法権に基づく」と明記されており、ドイツの国家主権には縛られない状態でしたが、我が国は違っていたのです。

それに対して、裁判長は裁判管轄権を棚上げして法定を進めたばかりか、「この法廷は、占領軍最高司令官によって定められた『裁判所条例』に従う義務と責任を有する」と「裁判所条例」そのものの是非を論ずることを“門前払い”しました。

もともと強引な裁判であり、手続き的な瑕疵(かし)はキリがありませんでしたが、裁判長は、豪州のウイップ、首席検事は米国のキーナンでした。そして、「裁判の判事と検察官のすべてが連合国の国家の代表である。従って、この裁判は、現在も将来の歴史家からみても公平でないという疑いを免れることはできない」(ブレークニー弁護人)という性格のものでした。

清瀬氏によれば、このブレークニー弁護人や東條英機担当だったブルーエット弁護人のように、連合国から指名された弁護士達の言動は総じて立派なものだったようです。この裁判の数少ない“救い”だったかも知れません。

裁判は、同年6月、首席検事の冒頭陳述を経て検察側の立証にはじまり、昭和22年初頭まで続きます。同年2月からは、弁護側の反論が始まり、東条英機以下、それぞれ口供書を提出します。反論は、昭和23年1月まで続けられ、検察側の最終論告、弁護側の最終弁論の後、6か月の休廷を経て、昭和23年11月には判決文が朗読されます。一応の手続きは踏んだのでした。

細部については、占領期初期(昭和20から23年頃まで)の欧州及び周辺情勢について振り返った後に再び触れることにしましょう。

▼欧州情勢―チャーチルの警告とドイツ分割

 まず欧州です。ドイツ降伏後の1945年6月5日、米英仏ソの司令官がベルリンで「四国宣言」を発表し、ドイツは4ヶ国に分割され、軍政を布かれます。

しかし、この分割管理は固定的なものでなく、近い将来、1つの国家として主権を回復し、講和条約を締結するとの前提で、4ヶ国共同の「管理理事会」が設置されました。

一方、終戦直後、米軍はヤルタ議定書で同意されていたラインを超えて最大200マイルにわたり東方に進出していました。その時点での米軍とソ連軍境界線は暫定的なものだったので、米軍は、2カ月間、ソ連占領予定地域に滞在したのち、7月初めに撤退します。

これについては、(ソ連の占領地域内にあった)首都ベルリンに米英仏各軍が駐留することをソ連に容認させるための取引だったとの分析もあります。

実は、その撤収前、チャーチルは、極秘電でトルーマン大統領に「ソ連との協議で決まったドイツの米軍占領地域から撤退を見送るよう」求めています。その上で「ソ連は“鉄のカーテン”を降ろした。その裏側で何をしているか我々にはわからない」と強く警告しています。

これについて「チャーチルは、ルーズベルト大統領と決めた対ソ連融和策が間違いであったことをどこかの時点で気づいたのではないか」と分析する歴史家もおりますが、チャーチルは、ルーズベルト死後、米国内において、対ソ宥和外交を主張する勢力(いわゆる、ニューデーラー達など)と対ソ警戒勢力がせめぎ合っていることを知っていたといわれます。

トルーマン大統領自身は、以前も触れましたように、ソ連に対する不信感を持っていましたが、トルーマン政権としては、チャーチルの助言を無視し、当初の占領地域から軍を引き上げてしまいます。

そのトルーマンを本気にさせたのは、ソ連が撤兵の約束を守らず、イラン北部アゼルバイジャンに傀儡(かいらい)政権を樹立させて(1945年12月)からだったようです。

そして、翌46年3月4日、チャーチルは、トルーマンの地元・ミズーリ―州のフルトンで「バルト海のシュチェチン(現ポーランド)からアドリア海のトリエステ(現イタリア)までヨーロッパ大陸を横切る『鉄のカーテン』がおろされた」と有名な『鉄のカーテン』演説します。

その中で「西側民主主義国家、とりわけ、米英は、際限なく力と思想を拡散し続けるソ連の動きを抑制しなければならない」と力説、これが翌47年の「トルーマン・ドクトリン」(共産圏に対する封じ込め政策)に繋がります。

このようにして、終戦前から明らかになった米英陣営とソ連の対立はドイツ問題に持ち込まれ、民主化と自由主義経済を基本とする経済復興をめざす西側と、社会主義化をめざすソ連との理念の違いが次第に表面化します。

1948年6月、西側の通貨改革(新ドイツマルクの導入)を機にソ連が「ベルリン封鎖」に踏み切り、「管理理事会」が機能しなくなり、翌1949年に西側管理地域に「ドイツ連邦共和国」(西ドイツ)が、ソ連管理地域に「ドイツ民主共和国」(東ドイツ)が成立、ドイツの東西分割が確定して1990年のドイツ統一まで続きます。

▼中国情勢―共産党政権誕生の背景

占領期初期の周辺情勢も激変します。まず中国大陸です。少しさかのぼりますが、我が国は、終戦1年前の1944年3月から「大陸打通作戦」を実施します。

本作戦は、“日中戦争最大の大攻勢”とも“日本陸軍最後の大攻勢”とも言われ、その目的は、①中国内陸部の連合国軍の航空基地の占領と②仏印(インドシナ)への陸路を開くことでした。その結果は、蒋介石率いる国民党軍に大打撃を与えました(死傷者約75万人、捕虜約4万人などです)。 

この国民党軍の思わぬ大敗北によって、国民政府に戦後の東アジアを委ねようとした「ルーズベルト構想」が崩壊します。同時にはそれは、米国が、それまで虎視眈々と“漁夫の利”を狙っている毛沢東率いる共産党にも注意を払う必要が生じたことを意味していました。

とは言え、戦勝国にも数えられ、依然として圧倒的な戦力を保持していた国民政府が、1949年、なにゆえに台湾に逃れ、中華人民共和国が成立したのでしょうか。

この素朴な疑問に的確に答えてくれる歴史書を探し当てることができないまま、時が過ぎていました。最近、ようやくそのヒントを得ることができる書籍に出会いました。書籍名は、『共産中国はアメリカがつくったーG・マーシャルの背信外交』(ジョセフ・マッカーシー著、本原俊祐訳)です。本書の初版は1951年ですが、2005年に翻訳されました。著者は、「マッカーシズム」といわれる反共産主義運動で有名なあのマッカーシーです。

当然ながら、本書の詳細の紹介は不可能ですが、次回、一般に知られている歴史に、本書によって暴かれている「史実」を散りばめつつ、中国の“共産党政権誕生の秘話”を振り返ってみたいと思います。少し長くなることをご容赦下さい。(つづく)

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