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「我が国の歴史を振り返る」(47) 戦争は「石油」で始まり、「石油」で決まる。

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▼はじめに(新型コロナの再拡大について)

 再び、新型コロナウイルスが猛威を振るい始めたように見受けらますので、久しぶりに、冒頭で新型コロナを取り上げてみました。

確かに感染者の拡大だけをみると「第2波到来」のような雰囲気がありますが、今回は、「若者層に感染者が多い」「感染者の増加している割には、重傷者・死亡者が圧倒的に少ない」など4月頃の感染拡大とは少し勝手が違っています。

 昨年末、中国武漢で新型コロナが発生して以来、半年以上が過ぎ、新型コロナの“正体”について、専門家はかなり分かりかけてきたのではないかと考えます。しかし、相手がウイルスだけに100%解明するのは難しく、それゆえに、専門家の間には“多勢に無勢”のような空気が流れているような気がします。

テレビなどでお馴染みの専門家らは、依然、“恐怖を煽り立てる”解説は饒舌ですが、例えば、第1波において、①欧米やブラジルなどであれほど感染者が急増し死亡者も多かったのに比し、なぜ日本や韓国などアジアでは感染者も死亡者も少なかったのか、とか今回の②再び感染者が増大しているのに、なぜ重傷者や死亡者が少ないのか、などのついての解説は歯切れが悪いままです(彼らもよくわからないのだと推測しております)。

このような空気の中で、堂々と持論を述べる、“勇気ある専門家”もおります。多くの方は見過ごしていると思いますので、紹介しておきましょう。例えば、月刊誌「WILL」9月号に『第二波は来ない』と断言した記事を掲載した京都大学大学院特定教授の上久保靖彦氏やテレビで具体的な数値を示しつつ『自然免疫で98%は治る』と主張している国際医療福祉大学大学院教授の高橋 泰氏などです。

お二人の説を素人なりに理解するとその概要は次の通りです。まず①の謎について、上久保教授は、元来、人類は生誕以来、ウイルスと“共生”しており、周期的にウイルスが変容・変質することによって人に感染したり、鎮(しず)まったりすることから説明しています。

今回は、ウイルス細胞の周りにある「スパイク」と呼ばれる突起(それが太陽のコロナに似ていることから、コロナウエルスと呼ばれています)が、人の組織細胞にある「ACE2受容体」というものに、まるで“鍵と鍵穴がピタッと合うように結合”してしまったようです。その結果、人体は、ウイルスを異物と感じて免疫反応を起こし、それが、発熱や肺炎などの症状として現れるのだそうです。

事の始まりは、昨年11月頃、中国全土で、『S型』(先祖型)、『K型』(先祖型の変質型)といわれるコロナウイルスがまん延したことにあり、“少し変わった風邪”という程度の認識だったようです。しかし、昨年末、武漢で『G型』に変容し(原因は不明です)、欧米でさらに『欧米G型』に変容、重度の肺炎を引き起こし、猛威を振るってしまいました。

上久保教授は、「日本には、中国人が観光で来日して『S型』『K型』の免疫が到来し、日本人の間で“集団免疫”に達していた。特に、『K型』の免疫が『G型』にも有効だったため、深刻にならなかった」と解説しています。

そして「欧州には、『S型』は十分流入していたが、『K型』が十分でなかったため、『ADE』(抗体依存性感染増強)という現象が起きた。また米国では、当時、インフルエンザが流行して1万2千人も死亡していため、『ウイルス干渉』が起き、『K型』が入りづらくなっていた。さらに、中国が武漢を封鎖したのに続き、欧米諸国も外国人の入国拒否や“都市封鎖”を強行したため、逆に『K型』が入る余地がなくなってしまった」と続きます。

ここでいう「ADE」や「ウイルス干渉」については、私の能力を超えますが、「ADE」は、“本来、ウイルスなどから体を守る抗体が、免疫細胞などへのウイルス感染を促進してしまう現象”であり、「ウイルス干渉」は、“1個の細胞に複数のウイルスが感染した時に一方あるいは両方の増殖が抑制される現象”のことを言います。

最近の現象である②については、上久保教授は「PCR検査の拡充で感染者数は爆発的に増えているが、初回の感染で免疫がついている人達の体内に再びウイルスが入っているだけで、重症になることはない。最近、この“集団免疫”が世界各地で定着しつつあり、重傷者・死亡者が少なくなっている」と解説しています。

この説が正しいとすれば、中国や欧米諸国と違い、法的に私権を制限できず、(言葉だけは“ロックダウン”として先行しましたが)“都市封鎖”のような強制処置をできなかった我が国のやり方が、結果として“功を奏した”ことになります。

つまり、のちに「政府の対応が遅かった」と批判されますが、昨年11月以降、約184万人の中国人観光客、1月から2月頃であっても武漢からの直行便で約34万人も中国人が入国していたことが、我が国の被害を“軽症”に留めた要因だったということになります。

事実、上久保教授は「何もしないのが一番」として、「従来、風邪やインフルエンザでPCR検査などしたことなかったように、大騒ぎする必要がない」とし、その上で、「重い肺炎患者だけは手厚く治療すれば、いずれ『集団免疫』に達して、コロナは終息する」と断言しています。

高橋教授も、“自然免疫”で無症状とか風邪ぐらいの症状は98%治り、「抗体が免疫反応を起こす第3段階以上(残りの2%弱)の発症数と死者数の把握に限定すべき」として、「29歳以下の重症化リスクは低いので、学校の授業やスポーツは元の状態に戻すべき」と勇気ある提言をしております。

各県知事などの“弱気”に比して、政府が“経済との両立を貫く姿勢”を崩さず、また、トランプ大統領が「コロナは鼻風邪のようなもの」と発言して物議を醸した要因に、上久保教授や高橋教授、あるいは同じような説をだれかに聞き、理解しているのかも知れません。高齢者の私はすべて理解して納得しているわけではありませんが、このような説に耳を傾ける必要はあると考えています。先を急ぎましょう。

▼我が国の石油事情

 「石油の一滴は血の一滴!」、この同じ言葉を我が国も大東亜戦争遂行の標語として使いますが、これは後の話です。少し時代をさかのぼり、我が国の「石油事情」を振り返ってみましょう。

 戦前の我が国は、国家としての燃料政策がほとんどなった中で、海軍だけは、建軍以来一貫して燃料問題に取り組んでいました。燃料がなければ船を動かすことができないからです。海軍は、日露戦争前の1900(明治33)年から艦船燃料を石炭から石油に変更する研究を開始し、さまざまな実験を行っていました。

 そして、1906(明治39)年には重油タンク(6千トン)を横須賀に建設、翌07年には、炭油混焼方式の大型軍艦「生駒」建造に着手しました。

 しかし、産油国でない我が国の石油確保は困難を極めます。特に「八八艦隊」は、建造費が当時の国家予算の約3分の1、維持費が国家予算の約半分を必要とする大計画でしたので、国会の議論は、国家としての燃料油の問題を巻き込むことになります。

昭和8年、ようやく陸軍も海軍に同調しはじめ、国家の政策として、石油の民間備蓄義務、石油業の振興、石油資源の確保、代用燃料工業の振興などの政策が「石油国策実施要綱」としてまとめられます。

1938(昭和13)年頃には、“水からガソリンができる”という詐欺師が起こした「水ガソリン事件」も発生しています。海軍高官には「水には石油に必要なCはないが、酸素Oがある。Oの横をちょっと切ればになる」との奇妙な説明を信じた人もいたようで、三日三晩の公開実験の結果、詐欺は暴露します。まさに“ワラならぬ、水にもすがる思い”だったのでしょう。「海軍が化学教育を軽視したことが原因」と『日本海軍燃料史』には記されています。

▼満州に石油はあったか?

 いつもながらの「歴史にif」ですが、「もし満州国が建国された時代に、満州に油田が発見されていたら、その後の我が国の歴史は大きく変わった」とだれもが考えるのではないでしょうか。

しかし、この仮説はあながち非現実的なものではありませんでした。現在の中国の原油産出量は、世界第7位(2018年)にランクされ、そのほとんどが旧満州国及び北支(現在は、華北と呼称)に所在する大油田から産出されているからです。

中国は、戦後の1955(昭和30)年頃から、ソ連の技術協力を得て旧満州国中央部で大規模な石油の探鉱を開始し、1959年にはハルピン北部の「大慶油田」を発見します。その後、奉天北部の「遼河油田」(中国3大油田の1つ)などを次々に発見します。

フルシチョフ時代になると政治路線の対立が起こり、ソ連の技術者が総引き揚げしますが、中国は、「改革開放」時代以降、アメリカや日本からも先進技術を導入して、華北の「勝利油田」「大港油田」などの増産に成功します。

満州国建国からわずかに30年あまり後のできごとでした。なぜその時代に、満州や北支で石油は発見されなかったのでしょうか。

当時から満州国内で現地調査が行われ、「満蒙でも石油が見つかる可能性はある」と調査団は報告していました。試掘も行われましたが、当初、石炭鉱山調査用のボーリングを実施したとか、(今でも油田が発見されていない)ジャライノール(ノモンハン北部)地域で探鉱作業をしたが発見できなかった、などの記録が残っています。

さらに、樺太など他の地域ではすでに米国製の最新鋭掘削機を導入していましたが、満州国の石油探鉱は日本の国家機密であったことから、最高水準の技術を保有する米国の探鉱請負者を投入することを避けていたとの記録もあります。

その背景に、陸軍は、石油に関してはもっぱら海軍にゆだねた形となり、“動き出すのが遅かった”ことがあります。陸軍は、満州事変、盧溝橋事件、ノモンハン事件と続いて起こった大陸での戦闘で、ようやく戦車隊や工兵、車両を擁する機械化戦力が必要であると痛感し、ガソリン、軽油、航空機燃料の必要性を認識したのでした。そのため、海軍のように、地質調査や探鉱作業の専門家がいなかったことが“致命的”でした。

昭和11年頃の満州国は、「産業生産5か年計画」により約52億円の投資計画によって、銑鉄生産目標年112万トン、石炭年1000万トンが掲げられていました。これに満州油田によって石油が産出されれば、一大コンビナートが出現し、「日本は石油を求めて南方に進攻する必要性はなかった」と戦後、旧満州地域の石油事情に詳しい関係者が「おしいことをした」と悔しがっています。

今にして思えば、“喉から手が出る”ほど石油が欲しかった海軍がなぜ満州の石油探鉱に協力を申し出なかったのか不思議ですが、その形跡はありません。根底に、陸軍と海軍の対立など様々な要因があったと考えるしかないのですが、チャーチルの進言を採用した英国陸軍と海軍の関係を羨ましく感じる瞬間でもあります。

その後、我が国は、目指すべき方向として、石炭を液化する「人造石油」の生産に傾いていき、北海道に工場施設などを建設しますが、実際には資材不足などで稼働率も低迷し、期待した生産量の3%ほどに留まったようです。

ちなみに、陸上自衛隊の北海道滝川駐屯地の本部隊舎は、当時の人造石油会社の本社建屋をそのまま使用していますし、留萌駐屯地にも研究所や工場の建築物が残されています。いずれも当時の政策に基づき潤沢な資金がつぎ込まれたせいか、自衛隊が作る“安普請の建築物”に比べ、立派で頑丈な建物です。

このような現状から、伝統的にソ連を仮想敵国とした「北進論」の陸軍内部も次第に「南進論」に傾いて行きます。そして、近衛首相が唱えた「東亜新秩序」に従って、「アジアの盟主日本が、同じアジアの同胞を植民地の苦役から解放し、その石油資源を日本の安定した供給源とするのは極めて道理にかなっている」と「これこそが日本の進むべき道」だとして、松岡洋右外相の「大東亜共栄圏」構想に結実していくのです。

他方、我が国のこの国策は、米国と真っ向から対立することになります。当時、石油自給率8%の我が国は、石油の80%を米国から輸入していましたが、米国の「石油禁輸」によって、我が国は世界で最初の“石油危機”に直面します。

その結果、前述の「石油の一滴は血の一滴!」の標語になるのですが、当時、米国は世界最大の石油生産国・輸出国であり、原油生産量は我が国の740倍もあったのです。今回のテーマは、「戦争は『石油』で始まり、『石油』で決まる。」ですが、振り返れば、我が国は、ものすごい国と戦争したのでした。次回以降、なぜ日米戦争に至ったのか、の詳細を振り返ってみましょう。(以下次号)

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