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「我が国の歴史を振り返る」(46) 「ノモンハン事件」勃発と停戦

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▼はじめに

 普段、「戦史」のようなものに接する機会のない読者の皆様には、今回の内容はなかなか理解困難かと思います。毎回、「戦史」の紹介の場面になると、まるで“職業病”のように血が騒ぎ、筆が走ります。申し訳ありません。

自衛隊の「戦史」教育では、対象となる戦闘(事件、戦いなど)の経緯のみならず、その①戦闘が発生した背景、②戦場となった地域の特性、③敵と我の戦力比較、配置、④敵と我の作戦や戦術、⑤戦闘の経緯・結果、⑥得られる教訓・課題などまで学びます。

しかし、ややもすると局所に拘り、全般の歴史などを幅広く振り返らない傾向もあります。

「戦史」の教材としては、当時の敵と我の指揮官や幕僚達の見積や決心、作戦計画など細部の資料を使います。それらを突き合わせると、その都度都度の「状況判断」の“適格性”を一目瞭然で判断できます。

しかし、それらはすべて、“その後の戦況の展開がわかる”、いわゆる「後追い」だから判断できる“適格性”であることは間違いありません。通常、戦場では、“敵の企図(意思)や敵の状況”をすべて解明することは不可能だからです。

通信能力が未発達の時代は、“味方”の状況さえ、リアルタイムに把握することは困難です。このような状況を“戦場の霧”と呼称しておりますが、だからこそ、「桶狭間の戦い」のような結果も生まれるのです。

私達・自衛官は、「戦略」や「戦術」の基本(いわゆる「戦理」といわれます)、そして古今東西の「戦史」教育を通して、孫子の「彼を知り我を知れば百戦殆(あやう)からず」などに代表される“人類の英知”を学び、自らの鍛錬の資とします。

歴史研究家や作家の皆様が書かれる「戦史」には、ある意図があったり、読者目線で“面白おかしく”書くことが最優先なのでしょう。(いつものように)失礼ながら、どうしても“素人の理解の範囲“と思ってしまうことが度々あります。この道を見極めるのは、“段階を踏む”必要があり、簡単ではないことを改めて申し述べておきたいと思うのです。

▼「ノモンハン事件」前夜

さて、1939(昭和14)年5月11日、満州と外蒙古の国境付近で敵味方が銃火をかわす大事件が発生しますが、その経緯を振り返る前に、「ノモンハン事件」前夜の状況について少し整理しておきましょう。

ノモンハンは、満州西北部ハイラルの南方約200キロの草原にある小さな集落です。地図をみますと、ノモンハンの北側は西の方に満州国が張り出し、南側は東の方に外蒙古が張り出しているのがわかります。

満州国は、独立以来、ノモンハン西側を流れるハルハ河を国境と設定していましたが、外蒙古側は、ハルハ河東方約20キロを国境線としていました。当時の地図でも、ノモンハンが満州国側に表記されているものと、外蒙古側に表記されているものと2種類ありますが、まさに国境を巡る“係争の地”だったことがひと目でわかります。

外蒙古側には、蒙古軍のみならず、2度にわたる5か年計画によって充実の極みにあったソ連軍戦力も配置されていました。一方、満洲国側は、国境警備の満州国軍の他に、関東軍の第23師団(師団長小笠原中将)がハイラルに駐屯していました。

第23師団は、昭和13年に内地で編制されたばかりで、3個連隊単位で装備も劣悪、歩兵も不足していました。このような師団がなぜソ満国境の“係争の地”に配置されたかは謎ですが、「支那事変」の真っただ中にあって精強な師団を中国大陸に投入したことと、陸軍首脳部が“これほど大規模な事件がこの地域で発生することを予測していなかった”結果であると考えます。

▼「ノモンハン事件」発生

こうした状況下で「ノモンハン事件」が発生します。通常、事件は第1次と第2次に分けられますが、第1次ノモンハン事件は、5月11日、約70名の外蒙古兵がハルハ河を渡河し、満州国軍監視哨を攻撃する所から始まります。満州国軍の7時間にわたる反撃の結果、一旦はハルハ河西岸に後退しますが、翌12日、約60名の兵士が再び渡河越境し、13日には所在の満州軍と再び戦闘状態に入ります。

第23師団は、“東支隊”を編成し現地に急派します。支隊が到着して攻撃前進すると外蒙古兵はハルハ河西側に後退しましたので、支隊はハイラルに帰還します。ところが、17日、またしても外蒙古兵が渡河越境し、後方にも兵力が集結していること、タムスク(ノモンハン南西部)に空軍が展開していることも判明します。

そこで、師団長は、侵入した敵を急襲することを決し、28日、3方から攻撃を加えますが、ハルハ河西岸からの砲火によって前進を阻止された上、逆に外蒙古兵の逆襲を受け、1個連隊が玉砕するという結果に陥ります。

ソ連が長射程の砲兵を展開しているハルハ川西側の高地がこの地域の“制高点”(常に高い位置を占めることで優位に立つこと)となっており、再三、日本軍を苦しめることになります。

関東軍は、「徹底的に反撃して日本の決意を示す必要がある」との結論に達して、第23師団全力、第7師団の一部、第1戦車団隷下の安岡支隊(戦車2個連隊、歩兵1個大隊など)、第2飛行集団をもって反撃の準備を整えます。

こうして、第2次ノモンハン事件前半の戦いが起こります。まず6月22日、来襲ソ連機延べ150機を迎撃しますが、ソ連は機数を増やし、新鋭機を繰り出してきます。関東軍はついにソ連機の根拠地のタムスクを攻撃することに決します。6月27日、関東軍は130余機をもってタムスク空襲を決行します。この結果、地上部隊の集中も順調に進みました。

しかし、タムスク攻撃は、“不拡大を方針とする”陸軍中央部の許可を得なかったため、じ後、陸軍中央部と関東軍の間に感情的な対立が生じることになります。

第23師団は、7月1日未明、ハルハ河を渡河し、西側のソ連陣内に突入します。ここでソ連軍戦車の大群と遭遇して100両余りは撃破しますが、3日午後には戦況不利と判断し、ハルハ河東側に転進し、東側の要地を占領します。

安岡支隊もホルステン河(ハルハ河南側の支流)北側のソ連陣地を攻撃しますが、移動障害物が進路を塞ぎ、砲火や戦車火力によって多大な損害を出し、主陣地前まで後退を余儀なくされます。第23師団も攻撃を再考しますが、ソ連軍戦車とハルハ河西側からの砲火により攻撃失敗、戦線は膠着します。

関東軍は戦線を整理し、越冬を準備するとともに、ノモンハン地域の指揮を統一するために第6軍司令部を編成します。

このような矢先の8月、第2次ノモンハン事件後半の戦いが始まります。ソ連はジューコフ将軍の指揮の下、日本軍の4~5倍の戦力を投入して全正面で攻撃を開始し、関東軍は大打撃を受けます。

この結果、関東軍は、第6軍に第2・第4の2個師団と関東軍の全火砲を配属し、「断固反撃に転ずべき」と新たな作戦を準備します。しかし、陸軍中央部は「不拡大」を方針として関東軍の攻勢作戦を中止させます。一方、対ソ戦備弱化を防止するために、中国戦場から2個師団の転用を計画します。

▼停戦協定と事件総括

他方、この時点で、ソ連側も停戦を望んでいることが判明し、9月8日から交渉開始、9月16日、モスクワで停戦協定が締結されます。なお、この間の8月23日には「独ソ不可侵条約」が締結され、9月1日、ドイツはポーランド侵攻を開始します。

この結果、すでに紹介しましたように、平沼内閣が三国同盟交渉の打ち切りを決定し、「欧州情勢は複雑怪奇」との明言を残して総辞職してしまいます。

ソ連のこれらの行動はけっして偶然ではありません。「ノモンハン事件」の最中から、スターリンはゾルゲに“日本が本気でソ連攻撃を計画しているかどうか”を探らせ、“そうさせないような”スパイ活動を指示しています。のちに逮捕されるゾルゲは、「それこそが私が日本に派遣された目的のすべてだったといって間違いない」と証言しています。

やがて、「南進論」につながるゾルゲらの活動によって、ソ連は“東アジアの後顧の憂い”なく欧州正面に戦力を集中できたのでした。こうして、事前に取り決めた“分割ライン”でドイツと出会い、ポーランドを分割したのです。この間、英仏は手をこまねいているだけでした。

振り返りますと、軍事的には、“ドイツという主敵があるソ連が日本相手に断固として対応するわけがない”との読み違いや、外交的には、独ソが「不可侵条約」締結に向けて接近していることを十分感知していなかったという失敗がありました。

日本軍は、その後、国境の不明確な地域から部隊を後退させ、また「侵入してきたソ連軍に対する攻撃は、関東軍司令官の命によるものとする」ことを定めました。この結果、この後のソ満国境は大東亜戦争末期まで比較的平穏のまま過ぎることになります。

この時点においては、関東軍は極東ソ連軍に敗北したと認識していましたが、改めて“対ソ戦備の充実”と“ドイツによるソ連牽制の強化”が喫緊の課題として浮上します。

のちの真珠湾攻撃に至る日米の駆け引きも同じですが、“二重取引”のような欧米諸国のしたたかさに思慮が至らないまま、アジア・太平洋の狭い視野でしか考察しない我が国に比し、世界的な視野で開戦から停戦まで考えていた欧米列国の差異が「ノモンハン事件」時点でも明確になっていたのでした。

このような事実を、矢面に立った軍人らのみにその責任を押し付けることも間違いであると考えます。一徹な“島国根性”のように、他の要因には目をつぶり、軍人らの責任を追及することに専念する歴史研究家も散見されますが、この事件から学ぶことは他にもたくさんあると考えます(それらは、本歴史シリーズの最後にまとめたいと思います)。

「ノモンハン事件」について、冷戦最中の私達の時代は、“負け戦”として戦闘経過と結果のみを学んだことを記憶しています。よって、欧州と東アジア事情の関連、中でもスターリンやヒトラーの思惑、陸軍中央と関東軍の確執(その原因)、ゾルゲらの活動、それに「ノモンハン事件」の成果により終戦時まで満州が平穏だった“史実”などには思いが至りませんでした。

▼「石油の一滴は血の一滴!」

いよいよ本メルマガのクライマックスともいうべき「日米戦争」を振り返ろうと思いますが、その前に、日米対立の直接の原因となったともいえる「石油事情」について触れてみましょう。

この話題を要約するのは難しいのですが、「石油」を避けて真実の歴史を振り返ることは不可能と考えますので、その“さわり”だけ触れてみようと思います。

「戦争の世紀」と言い切っていい20世紀には、様々な近代兵器が発達し、大量殺戮が可能になりました。その陰には、石油をはじめとする化石エネルギーの存在があり、言葉を換えれば、“近代の戦争は石油なくしては成り立ち得ない”ものでした。

その石油の“戦略的重要性”を知らせてくれたのは、第1次世界大戦が始まって間もない頃でした。そのきっかけは、パリ陥落直前、フランス軍の反攻のため、パリ中のタクシー運転手による兵員の前線への輸送作戦にありました。仏陸軍のガリエニ将軍のこの機転が功を奏し、仏陸軍は、圧倒的に有利と考えられたドイツ軍勢を押し返すことができたのです。

やがて、イギリスで開発された「戦車」が鉄条網や敵の機関銃で膠着状態に陥った西部戦線に導入され、連合国に勝利をもたらす契機となります。「戦車」の実態を悟られないよう、開発中の「戦車」を“水を輸送するための車両”と偽装して「タンク」と呼んだことから、今でも「戦車」の英語表記は「タンク」となっているのです。

当初、イギリス陸軍が無視した「戦車」(装軌式装甲車)のアイデアを拾い上げ、開発を開始させたのは、当時、海軍大臣のチャーチルだったという有名なエピソードも残っています。

当時の「戦車」は燃費が悪く、1リットル当たり数百メートルしか走行できなかったようで、フランスのクレマンソー大統領は、すでに世界一の産油国であったアメルカに「石油の一滴は我が兵士の血の一滴に値する」と記した電報を送り、石油の支援を求めたのです。

また、兵器として「戦車」の他に航空機や潜水艦も開発されました。海の戦いについては、大戦中本格的な海戦は、「ユトランド沖海戦」一度だけでしたが、燃料を石油に変更したイギリス艦隊がドイツ艦隊に勝利して、北海の制海権を確保するとともに、ドイツ艦隊を本国母港に封じ込めました。

まさに第一次世界大戦は、“石油が戦争の真の担い手”となり、これ以降、各国は“石油の戦略的重要性”を強く認識し、石油利権をめぐって激しい攻防を繰り返すことになります。(以下次号)

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