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「我が国の歴史を振り返る」(35) 「満州事変」の背景

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▼はじめに

現在も新型コロナの感染や国家の安全保障など、我が国はユーラシア大陸の影響をまともに受けていますが、大陸の東側に位置し、わずかに200㎞の対馬海峡を隔てただけの島国の我が国は、有史以来、大陸と“関わりなし”では生きて来られませんでした。
これまで何度も振り返りましたが、いつの時代も、朝鮮半島の背後には、見せかけだけはアジアの大国・中国、そして南下を国是とするロシア(ソ連)の様々な“画策”がありました。もちろん、彼らの究極の目標が朝鮮半島に留まらないことは終戦後から現在までの動きからして明白です。
「日清戦争」「日露戦争」に始まり「満州事変」「支那事変」を経た我が国の大陸進出を「侵略」とか「軍の暴走」と決めつける“狭隘な歴史の見方”を信奉してしまうと、中国やロシア(ソ連)の“画策”という、我が国の国防上とてつもなく大事な要因を見落とすことになります。
自衛隊では、指揮官が行う「状況判断」から「決心」に至るプロセスについて、それを補佐する幕僚が指揮官と一体になって、「任務」「地域(いわゆる“戦場”)の特性の分析」「敵に関する分析」「我に関する分析」と手順を踏んで行うことになっています。その中でも、「情報幕僚」が実施する「地域の特性の分析」や「敵に関する分析」は極めて重要です。
旧軍は、情報を無視し、陸大教育でも「情報参謀(幕僚)」の教育は皆無だったといわれますが、満州に所在する関東軍の参謀達は、当時の満州、そして中国やソ連に関する様々な情報を入手し、彼らの“画策”についても肌で感じていたものと推測できます。
「満州事変」の背後に何があったのか、なぜ軍が行動を起こしたのか、などについて、長い年月を経た今日、本歴史シリーズでもそれらの“史実”を冷静に分析しつつ逐次明らかにしたいと考えています。その前に、「ロンドン海軍軍縮条約」締結と顛末について少し触れておきましょう。

▼「ロンドン海軍軍縮条約」調印と「統帥権干犯問題」

「世界恐慌」と同時期、国内では別の騒動が発生します。「統帥権干犯問題」です。
1922(大正11)年に締結した「ワシントン海軍軍縮条約」は、巡洋艦以下の補助艦艇の建造数に関しては無制限でした。このため、1929(昭和4)年、「ロンドン海軍軍縮会議」を開催する運びとなりました。現下の経済情勢から軍縮による軍事費の削減に積極的な濱口内閣は、昭和天皇からも「世界の平和のために早くまとめるよう努力せよ」との御言葉を賜わり、若槻禮次郎元総理を首席全権、斎藤博外務省情報局長を政府代表として派遣しました。
交渉は各国の意見が対立して難航します。日本は、ここでも対米英7割を方針としていましたが、アメリカの要望に応じて0.025割を削り、対米英6.975割とする妥協案を引き出せたことでこの案を受諾する方針に変更しました。
海軍省は変更案に賛成の意向でしたが、軍令部は重巡洋艦保有量が対アメリカ6割に抑えられたことと潜水艦保有量が希望量に達しなかったことの2点を理由に“条約拒否”の方針を唱えました。 
1930(昭和5)年10月1日、枢密院本会議は満場一致で条約を可決し、翌日の10月2日、条約は批准されましたが、海軍内部では条約に賛成する「条約派」とこれに反対する「艦隊派」という対立構造が生まれました。また、緊縮財政による海軍予算の大幅縮減も「艦隊派」の不満を高めることになりました。
こうした中、野党の立憲政友会の犬養毅や鳩山一郎、さらに伊東巳代治や金子堅太郎などの枢密顧問官は、大日本帝国の「統帥大権」を盾に、「政府が軍令(=統帥)事項である兵力量を天皇(=統帥部)の承諾無しに決めたのは憲法違反だ」とする「統帥権干犯問題」を生起させ、政府を激しく攻撃しました。
濱口首相は、「実行上、内閣は統帥権を委任された立場にあり、軍縮条約を結ぶことは問題ない」として「干犯には当たらない」と反論しますが、後日、東京駅構内で国粋主義団体員の暴漢から銃撃を受け、その時の怪我が元で他界することになります(濱口首相の銃撃現場も東京駅構内にプレートが設置されています)。
のちに、「統帥権」を振りかざす軍部の独走を議会が押さえられなくなり、政党政治は終焉しますが、元を正せば、前回紹介した「不戦条約」締結時の「天皇大権」に続き、議会側が〝政争の具〟として持ちだしたものでした。“政党が党利党略に走る時、国家は危機に陥る”事実を、我が国はこの時点で体験していたのです。
「統帥権干犯問題」の根本原因が、大日本帝国憲法が有していた“不備”にあったことは間違いないでしょう。元老が健在していた頃はこのような問題が先鋭化する前に元老が統制していたのですが、昭和に入り元老の大半が世を去り、また本来、統制する側にまわるべき東郷平八郎元帥は「艦隊派」に担ぎ出され、この問題では昭和天皇と意見が離れてしまいます。
その後、「艦隊派」の筆頭・加藤寛治軍令部長らは辞職しますが、昭和8年、海軍の制度改正によって、兵力量の起案権は軍令部が握り、平時の海軍大臣の兵力指揮権が削除されるなど、海軍の良き伝統だった海軍省優位が崩れ、軍政に対する軍令の優位が確立してしまいます。同時に、昭和海軍は“米国艦隊を艦隊決戦により撃滅すべき対象”とみなすようになったといわれます。
1935(昭和10)年、「第2次ロンドン海軍軍縮会議」が開催されますが、我が国は脱退し、軍縮時代は終了します。昭和12から14年頃、米内正光海軍大臣、山本五十六次官、井上成美軍務局長トリオを中心に海軍立て直しに努力しますが、当時の情勢から果たせませんでした。
つくづく“歴史とは皮肉なもの”と思ってしまいます。やがて艦船よりも航空機の整備に命を賭けた、いわゆる“飛行機屋”の筆頭格だった山本五十六長官の発案による「真珠湾攻撃」が起こります。この結果、対米戦争を誘発し、主役が航空機となって“形を変えた艦隊決戦”を幾度も繰り返し、その度に敗れ、ついに帝国海軍は滅亡してしまいます。細部についてはのちほど触れましょう。

▼「満州事変」とは

さて「満州事変」です。 1931(昭和6)年9月18日、関東軍は奉天北部の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破した(「柳条湖事件」)。関東軍はこれを中国軍の仕業であると称して、直ちに満州における全面戦争に突入した。これが「満州事変」である。政府は不拡大方針をとったが、関東軍は進撃を続け、朝鮮駐留の陸軍も越境して、翌32年1月までに満州を占領した。
「満州事変」について、ほとんどの教科書は上記のように記述し、その背景とか、なぜ軍がこのような行動したかについては全く言及しないまま、一方的に日本が侵略したかのように記述しているのが一般的です。しかし、これだけの内容では、その背景を含めた“史実”は不明のままです。

▼当時の日本にとっての満州

「満州事変」の背景はとても複雑です。まさに「立つ位置」によって〝見方〟が分かれる所でもあります。まず、出来る限り“史実”に沿ってその背景をレビューしておこうと思います。
「満州」という地名は、狩猟民の「ジュシェン(女真)人」が万里の長城以北に清朝を建国した時、種族名を「マンジュ(満洲)」と改めたことから、〝マンジュ人が出た土地〟との意味で「満洲」と日本人が最初に呼称しました(よって、正確には「満洲」が正しいが、本メルマガでは一般的な「満州」を使用します)。また、「満蒙」という言葉もよく使われますが、満州とモンゴルは国境がハッキリは分かれている訳はなく、密接に繋がっていたのでした。
「日露戦争」ではこの満州が戦場になり、「ポーツマス条約」そしてロシア帝国との「協約」によって、我が国が南満州の「大陸経営」を行うことになったことはすでに述べましたが、当時、陸軍が希望した、軍政による満州支配を元老・伊藤博文が拒否したことに加え、日露戦争で予算を使い果たし、巨額な借金の返済を強いられた我が国は半民半官による鉄道経営を思い立ち、南満州鉄道(以下「満鉄」)株を募集したところ、倍率が1千倍になってあっという間に売れたといわれます。
こうして昭和初期頃には約20万人の日本人が住み、その保護と満鉄の警備のため、1万人の陸軍部隊(関東軍の前身)が駐屯していました。そして、中国国内の内乱(細部は後述します)の影響もあって大量の民族移動も発生し、満州の人口は、1930(昭和5)年頃までの25年間に70%増加し、約2900万人にまで膨れあがります。
その結果、満州の生産は大幅に向上、例えば、特産大豆の生産は5倍、出炭は14倍、貿易は6倍となります。また、満州の輸出入の40%、対満投資の72%は日本が占め、満州経済における日本の地位は断然優位になっていきます。
これを日本側から見ますと、日本の全輸出の24%が対支輸出、そのうちの35%が対満輸出、全輸入の18%が対支輸入、そのうち58%が対満輸入でした。また、対満投資約15億円は、当時の日本対外投資の54%を占めました。このように、日本経済における満州の地位は極めて大になり、原料資源や生活必需品の需要を中心に、“不可分の相互依存関係”に成長していたのです。
そこに、前回取り上げた「世界恐慌」の影響で各国がブロック経済の方向に傾きつつある中、我が国は土地が狭く、資源が乏しく、人口が多く、かつアメリカへの移民も締め出され結果、当時の満州は「我が国の国家存立上不可欠の要件と考えられていた」(瀬島隆三氏)の地位にまで成長していたのでした。
当時の日本陸軍は、依然としてロシアを想定敵国としていましたが、革命後のソ連は、一時の混乱の後、やがて共産主義思想の普及と伝統的な南下政策の両面から再び極東地域に復原することが予想されました。その侵略を阻止すべき〝戦略上の要域〟もまさに満州だったのです。
こうした情勢を踏まえ、1919年、関東庁が発足して関東軍も独立します。その関東軍が戦略的には南満州のみならず、出来得れば北満州も支配して「縦深を確保したい」と考えるようになるのは、その良し悪しは別にして、軍事的には当然のなりゆきだったと考えます。

▼「辛亥革命」後の中国の状況

当時の中国情勢についてもまとめて振り返っておきましょう。実は、「辛亥革命」(1911年)から中華人民共和国が成立(1949年)までの中国の大混乱は、私達日本人には理解しがたく、想像を絶するものがあります。 
まず、私達は、革命後、新政・中華民国が中国全土を支配したような“錯覚”に陥りますが、建国当初は、中国南部の14省が独立を宣言したに過ぎず、清朝の実権を残したまま皇帝を廃止し、袁世凱が大総統に就任します(孫文との間には「密約」があったといわれます)。
1915年、袁世凱は新憲法を発布して自ら皇帝につくことを宣言します。日本の「対華二十一カ条の要求」のあった年です。これを受け入れたのは、帝政承認と引き換えとの意味合いもあったようです。しかし、中国民衆の反発を買い、袁世凱打倒の動きが中国全土に広がって袁世凱は帝政をわずか3ヶ月で撤回、失意のうちに病没してしまいます。
袁世凱が亡くなると、中国情勢は益々分裂に拍車がかかります。袁世凱の北洋軍が段祺瑞(だんきずい)と馮玉祥(ふうぎょくしょう)が指揮する軍閥に分裂、段を日本が、馮をイギリスが後押しします。
他方、革命側も北方軍閥を討伐し統一しようとする孫文の広東政府と北伐を望まない広西の軍閥に分裂します。このように、当時の中国は大別すると4つの勢力があり、それらの勢力下にある何十もの軍閥へと分裂に拍車がかかったのです。
満州では、清朝時代から袁世凱と上下関係にあった張作霖が満鉄と持ちつ持たれつで勢力を増し、奉天軍閥に成長していきます。張作霖は袁世凱没後、その跡目争いに色気を出し、何度も北支に派兵します。そして袁世凱の後継者と見られていた段祺瑞が失脚するや、関東軍が引き留めたにもかかわらず北京入りします。
こうして、蒋介石の北伐が迫る中、他の軍閥が張作霖をトップに担いで、軍閥連合の長になったのでした。
1928(大正3)年、蒋介石の北伐を牽制するため、田中内閣が「山東出兵」に踏み切ったこと、そして日本から満州に引き上げることを勧告された張作霖がその途上で爆破されたこと(「張作霖爆破事件」)についてはすでに紹介しましたが、張作霖死亡後、息子の張学良は蒋介石の配下に入り、「国権回復運動」といって、満州で激しい排日運動を展開します。
次回、中国情勢がさらに複雑さを増す要因となった「コミンテルン」の中国進出について続けましょう。

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