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「我が国の歴史を振り返る」(36) 「満州事変」勃発

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▼はじめに(日本人ジャーナリスト・河上清氏について)

 読者の皆様は、戦前から戦後、米国で活躍した日本人ジャーナリストの河上清氏(別名、K・カール・カワカミ)をご存じでしょうか。明治6年生まれの河上氏は、明治34年には同士5名とともに社会民政党を創立するも、同党が禁止されるや身の危険を感じて渡米し、以来生涯、米国に活躍した希有なジャーナリストです。

「河上氏は、キリスト教への傾斜から社会主義の信奉へ、米国の民主主義をたたえながら日本の国粋主義を擁護し、やがては一転して日本を敵視し、ソ連の社会主義を徹底的に非難する・・・曲折や振幅の激しさはたいへんなものである」(古森義久氏)のように、ジャーナリストとしての河上氏の思想は、首尾一貫していなかったことは事実です。

その河上氏は、「国際連盟で満州事変が取り上げられた際に、日本の自己主張が遅遅として進まず、逆に、持論を思うままに展開した中国に連盟が影響されて、軽率にも中国に有利な見解を採用してしまったこと、そして米国にも日本の立場が詳しく説明されていないこと」に業を煮やし、当時の中国大陸の“事情”について米国内で解説活動を始めます。

それらの中国事情は、「支那事変」から1年後の1838(昭和13)年に、『シナにおける日本』としてロンドンの書店から英文で出版されました。世界大戦の破局を回避すべく、日本の置かれた立場を世界に訴えるためにこの本を書いたものと思われます。

本書に出てくる具体的なデータ等は、ほぼソ連の秘密文書(北京のソ連大使館付武官の事務所から中国当局によって押収されたもの)に基づいており、ソ連による中国工作の“事実”を知る上でもとても貴重です。

興味のある方は是非『シナ大陸の真相』(福井雄三訳)をご一読下さい。なお、前述の古森義久氏は、河上氏の半生を『嵐に書く』という書籍にまとめておりますが、こちらもお薦めです。当時の米国言論界で、孤軍奮闘していた河上氏のような日本人がおられたのでした。

▼「コミンテルン」(ソ連)の中国進出

前回振り返りましたような流れで中国の大混乱が続きますが、その陰には、ロシア革命後、「世界革命」を目指すレーニンが1919(大正8)年に創設した「コミンテルン」(国際共産主義指導組織)の中国進出がありました。

「コミンテルン」は、まず、欧州の資本主義諸国の打破を目指します。実際、1919年、ロシア革命の影響を受けて「ドイツ革命」も起き、「コミンテルン」の画策が成功したかに見えましたが、共産主義革命までは至らず、議会制民主主義共和国(ワイマール共和国)で踏み留まりました。

これらから、レーニンは、“最初にアジアの西洋帝国主義を破壊することによって欧州の資本主義を打倒する”つまり「アジア迂回戦略」へ決心変更したのです。「コミンテルン」はまた、ソビエト政府(ソ連)樹立(1922年)後はソ連の意のままに動くようになります。

その最初のターゲットは「中国革命を成功させること」とし、孫文に目をつけます。孫文は、ロシアに大量の武器や軍需物資を要求し、その資金によって軍官学校も設立して(すでに紹介しましたように)蒋介石を校長に任命しました。

ソ連は、孫文没後は蒋介石を支援することになりますが、中国工作は孫文一派に留まりませんでした。前述の北洋軍の馮玉祥(ふうぎょくしょう)のために騎兵学校も設立します。これらの学校を設立する狙いは軍事訓練だけが目的でないのは明白であり、革命的・共産主義的思想を学生に植え付けることにありました。そして、馮玉祥の元にも大量の軍事物資が届けられることになります。

それらの支援の実態も、ソ連の武官が仲介した形で具体的な量まで克明な記録が残っています。例えば、孫文に対しては、6千丁のライフル、1千35万発の弾丸、野戦砲15門、1万5千発の砲弾、迫撃砲50門、5千発の砲弾、1万発の毒ガス弾など、馮玉祥に対しては、1万8千丁のライフル、1千8百万発の弾、90丁の機関銃と弾、大砲24門と2万4千発の砲弾、毒ガス弾640発、飛行機2機などです。

ソ連は、“犬猿の仲”の双方を同時に支援していたのでした。そして1927年秋、蒋介石と馮玉祥は湖南省で衝突、馮は完膚なきまでに打ち負かされ、山東州に逃げ込んでしまいます。

ソ連はそのような事実は全く意に介しません。中国に対する究極の狙いは、“中国全土を共産化”させることにあったからです。

当時の秘密文書には、「中国の国家独立のために国民党を有利になるよう煽動を進めていく必要がある・・・目下の所は、共産主義の宣伝活動をしないように注意せよ。列強間における敵対関係を維持することも極めて大切である。・・・日本を孤立させておくことはとりわけ大切である」などと中国における工作や反外国活動についてこと細かい指示が残っています。

このようなソ連の寛大な援助によって、1926年、蒋介石は揚子江流域まで前進し、漢口に国共合作政権を樹立しますが、やがて共産主義者との危険を察知し、共産党員を追い出し、南京に国民党政府を樹立します。

その結果、農民と共産主義労働者からなる“紅軍”が誕生しますが、その指導者こそが毛沢東や朱徳だったのです。紅軍は行く先々で恐ろしい破壊工作を繰り返し、中国北部やモンゴル南部などに侵入し、外モンゴルのソ連軍と合流を企図します。

その破壊活動は私達の想像を絶します。例えば、江西省においては、殺された人間18万6千人、死亡した避難民210万人、焼失した家屋10万、略奪された財産6億5千万ドルなど、湖南省においては、殺された人間7万2千人、焼失した家屋12万、財産の損失1億3千万ドルなど、河南省においては、殺された人間35万人、家を失った難民850万人、焼失した家屋9万8千、略奪された財産6千万ドルなどです(「シナ大陸の真相」より)。

▼ソ連の満州工作と我が国の認識

張作霖が支配していた満州については、その狙いは北満州の領土的野心のような小さなものではなく、中国の共産化の一環として盛んに宣伝活動は実施していました。

当然ながら、日露戦争への怨念やシベリア出兵もあって日本を敵視します。まず、「カラハン宣言」(1919年)を出して中国との“不平等条約”を撤廃するとともに、満州やモンゴルを日露で分割した「秘密協定」を暴露し、中国に対して「我々は中国の味方。満州は中国のもの」と反日を煽ります。

張作霖の息子の張学良は蒋介石に帰順し、共産主義者の「平定委員」にも任命されますが、共産主義者とも接触し、「真の敵は日本だ」と説きまわり、共産主義者と戦おうとせずに自分の野望の道具にしようとします。

この時期の中国そして満州の“混乱”が目に見えるようですが、当然ながら、特務機関(諜報・宣伝工作・反反乱作戦などを主任務とする特殊軍事組織)などによって、十分ではないものの逐一情報を入手していたと思われる日本にとって、「共産主義の脅威は、単に学問的あるいは思想上の空論ではなく、不吉な現実そのものである」(河上氏)と認識するようになります。

 『シナ大陸の真相』についてもう少し触れておきましょう。本書は、「後世の歴史家などの後知恵とは無縁の、まさにリアルタイムの歴史的価値を持つ本」(訳者福井雄三氏)だったにもかかわらず、その真意、中でも“共産主義の非人道的な実態”などは当時の欧米世界には届きませんでした。

逆に、本書では、国民党政府が世界各国の報道機関に莫大な謝礼を払って、その見返りに、日本軍の残虐行為を示す偽造写真を掲載してもらっている“陰謀”が暴露されています。この延長が、のちの「南京大虐殺」の手口に繋がります。

戦いにおいては、「支那の1コ師団は日本の1コ大隊」といわれるほど強い日本軍でしたが、“国際社会(特に米国)を味方につける”活動については、知恵者がおらず稚拙だったことが返す返すも残念です。そして、現在もそれは続いていると私は考えます。

▼「満州事変」前夜の国内情勢

「満州事変」に至る我が国の国内情勢をもう少し振り返っておきましょう。1929(昭和4)年、田中内閣の後継内閣の浜口雄幸内閣が発足し、「協調外交」論者の幣原喜重郎が2度目の外相に就任します。幣原外相は、中国に対する一貫した「寛容主義」を主張し、中国側の善意と公平に期待し、将来を楽観していました。

幣原の協調政策に異を唱えたのが、当時の外務次官吉田茂その人であり、吉田は前職の奉天総領事として苦労した経験から「対満政策私見」を外務当局に提出します。それによると「日支親善などでは問題は解決しない。対満政策を一新すべき。・・・当面の対策は機会ある毎に、先ず各地に増兵もしくは派兵を断行し・・」と強硬な意見を主張します。このように、吉田茂は、戦後のイメージからはおよそ想像できない、別人のような積極外交論者だったことを記憶しておきたいものです。

こうして、当初は現地の関東軍や陸軍中央部の中堅層の意見だった「軍の実力をもって張学良軍を満蒙から駆逐しなければならない。外交では到底解決できない」との考えが、政府の一部を巻き込んだ形で陸軍中央部の“総意”ともいうべき雰囲気が出来あがっていきます。

▼「満州事変」勃発

上記のような満州、しかも張作霖爆破事件により行き詰まり状態にあった満州の打開のため、陸軍首脳部は、陸軍きっての鬼才・石原莞爾に求め、関東軍参謀に任命したのでした。

石原は、着任するや20万人を超える張学良の軍隊に対して関東軍は総数1万4千人に過ぎない現実を目のあたりにして頭をかかえたことは容易に想像できます。しかも石原の念頭には、対張学良作戦に留まらず、対ソ連防御戦も視野にあったのでした。

石原は、①南満州や朝鮮を守り、支那民衆のために満州を勢力圏にするしかない、②革命直後、5カ年計画の真っ最中のソビエトの国力では到底満州へ進攻する能力を持たない、③米国には帝国海軍に喧嘩を売る力はない、③英国と国際連盟に喧嘩を売っても何とかなる、④完璧な計画であれば、張学良軍を撃破できる、などと判断したといわれ、「関東軍満蒙領有計画」を立案します。

その細部に触れる紙面の余裕はありませんが、有名な「世界最終戦論」者の石原は、この時点でアメリカとの決定的対立、ひいては戦争に至るとの認識を持っていたことは付記しておきましょう。

張学良政権による日本権益の侵害に直面していた満州の在留邦人達は、日本政府の弱腰をなじっていましたが、石原らは精力的に説得し、これら在留邦人も味方につけます。蛇足ながら、在留邦人の中には、指揮者・小澤征爾氏の父君もおられました。征爾の征は、板垣征四郎の征、爾は石原莞爾の爾から頂いたといわれます。

1931(昭和6)年9月18日午後10時過ぎ、奉天市近くの柳条湖付近で線路の爆破事件が起こり、近くで演習中であった関東軍独立守備隊第2大隊第3中隊約600人は、その爆裂音と共に、1万5千人近い軍勢の張学良軍が駐屯していた北大営に進軍を開始します。有名な「柳条湖事件」です。こうして「満州事変」が勃発します。

翌19日零時直前、奉天から旅順の関東軍司令部に第1報が届き、幕僚達が召集されて寝間着や和服姿のまま集合しますたが、石原莞爾ただ1人、軍服を着ていたといわれます(その光景が目に浮かぶようです)。

本庄繁関東軍司令官の表情は沈痛でした。司令官の頭の中には①圧倒的に劣勢な関東軍が張学良軍を駆逐できるか、②たとえ撃退したとしても蒋介石がそれを座視するか、③さらにソビエトは、日本が満州を占領することを黙認するか、があったのです。

しかし、考え抜き、自信に満ちた、気力溢れる石原の面持ちをみて、なおかつ後戻りできない情勢を鑑み、眼前の石原を信用することにして「本職の責任においてやろう」と決断したのでした。司令官の決断を受け、石原は計画どおり、“メモ1つ見ずに”関東軍隷下の各部隊に素早く命令を発したといわれます。

当日正午頃、本庄司令官以下幕僚達が臨時列車で奉天に到着しますが、戦況はめざましいものでありました。奉天はすでに張学良軍が武器弾薬、戦車などを残したまま撤退しており、奉天の守備隊もすべて制圧していたのです。

当時、張学良軍の主力約11万人の兵は、長城線以南にあって、「共産党包囲掃討作戦を最優先に全力集中する」との蒋介石の方針のもと、張学良は、日本軍に対して「不抵抗及び撤退」を命じていたともいわれます。この方針まで石原の念頭にあったかどうか不明ですが、“戦機が我に有利に働いた”ことは明らかでした。(つづく)

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