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「我が国の歴史を振り返る」(25) 「日露戦争」の経過と結果(後段)

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▼はじめに

冒頭から少し話が逸れますが、陸上自衛隊の幹部教育には「戦史」という課目はありますが、戦争に至る情勢や外交、戦後処理などについて体系立てて幅広く学ぶ「外交史」や「戦争(指導)史」のような課目はありません。当然ながら、一般的な「日本史」や「世界史」についても(すでに習得しているものとして)学ぶことはありません。

その理由を考えてみました。自衛隊の草創期には旧軍の諸先輩がたくさんおられました。しかし、国の命運を左右するような地位や立場におられた方々は“公職追放”されていたか、“黙して語らず”の方々が多く、加えて、貴重な資料も焼却されたか没収されたことなどもあって、自衛官は、戦前の「我が国の歴史」、特に“大東亜戦争に至った政軍両面の経緯”などの細部を学ばないまま時が経ってしまいました。

特に陸上自衛隊は、旧軍の歴史や伝統に反発して“新たな武力集団を創造する”との強い志をもって健軍したことから、“未来志向”が強い分、“過去”を振り返らなかったものと思われます。

これらの背景もあって、多くの自衛官は、「歴史」に特段の関心を持たず、自衛隊には、一般の日本人同様、「自国の歴史を知らないことは恥」との文化が育たなかったものと考えます。かくいう私自身も、本歴史シリーズの冒頭(1回目)で紹介しましたように、自衛官人生の後半になって初めて“歴史を学ぶ必要性”を痛感し、自学研鑽しているうちに認識を新たにしている“史実”が少なくありません。

同時に、「幹部自衛官、特に上級幹部に『戦史』を切り出して教えるだけで十分なのだろうか」との疑問を持つようになり、浅学非才の恥を承知の上で、彼らが「歴史」に関心を持つきっかけにでもなれば、との想いも手伝って「我が国の歴史を振り返る」を発信し続けています。

有名な『孫子』は、「兵は国の大事、死生の地、存亡の道」から始まりますが、兵、つまり戦争は国家の命運を左右します。戦前の我が国がどのような情勢下に置かれたか、政治と軍事の関係を含め、リーダー達がどのような覚悟と決意で「国の大事」を選択したか、戦争を回避できなかった要因はどこにあるのか、あるいは戦後処理は如何になされたか、などについて“軍事の専門家”としても正しく「歴史を学ぶ」必要があると改めて強く感じています。

約1時間で決着した「日本海海戦」

先を急ぎましょう。まず前回取り上げました乃木大将について少し補足しておきます。戦争終了後、明治天皇に「将兵の多数を死傷させた罪を償いたい」と申し出た所、天皇から「今は死ぬべき時ではない。どうしても死ぬというなら朕が世を去ったあとにせよ」と言われ、のちの昭和天皇の養育を託されました。そして実際に、明治天皇が崩御された後、奥様とともに自刃されたのでした。

乃木坂に乃木神社とその片隅に自刃された乃木邸が残っています。原宿にある東郷神社と比較しますと、神社も乃木邸もその質素さが際立ちます。訪問するたびに、その質素さこそが乃木大将の生き様であり、明治の軍人の気質であると胸をうたれ、頭が下がるばかりです。

さて「日本海海戦」です。ロシアは、バルチック艦隊をもって太平洋第2艦隊を編成(司令官ロジェストウエンスキー中将)し、まさに旅順要塞の攻防が佳境に入った1904(明治37)年10月15日、リバウ港(現在のラトビア沿岸部)を出港させました。途中、同盟国フランスの植民地に立ち寄って補給するはずでしたが、イギリスの圧力によって寄港できないままの航海となりました。

ロシアは、旅順艦隊(第1艦隊と改称)が全滅したことを知って、急きょ第3艦隊の増派を決定。翌年2月15日、第3艦隊はリバウ港を出港し、スエズ運河経由で航海して、4月14日、先行した喜望峰回りの第2艦隊とバン・フォン湾(現ベトナム)で合流しました。

またロシアは、当時保有していた黒海艦隊の出動も検討しましたが、「パリ条約」(1856年制定、71年改正)によってボスボラス海峡とダーダネルス海峡が通航禁止されていたのに加え、これもイギリスの圧力もあって断念したのでした。

5月14日、新式戦艦5隻を含む50隻のロシア艦隊は、バン・フォン湾を出航して朝鮮海峡に進み、運命の5月27日を迎えることになります。連合艦隊とロシア艦隊の戦力はほぼ伯仲しており、遠戦火力はロシア、近戦火力は日本が有利とされていました。しかし「佚(いつ)を持って労を待つ」の諺のごとく、彼我の兵士そして艦船の“疲労”の差異は決定的だったのです。

連合艦隊の「東郷ターン(T字戦法)」が、船足が落ちていたロシア艦隊に有効だったなど、あまりに有名な海戦の詳細に触れる必要はないと考えますが、実質的な勝敗は、なんと当初の約1時間で決着し、かろうじてウラジオストクに逃げ込んだロシア艦隊は巡洋艦1、駆逐艦2のたった3隻のみでした。

▼「日本の強さは本物」が世界に拡散

総力戦・近代戦と言われた「日露戦争」による人的損耗は、「アジア歴史資料センター」の資料によれば(出典によって違いあります)、戦死・戦病者約8万5900人、戦傷者約14万3000人を数えました(日清戦争の約10倍に相当します)。

戦病者のうち、脚気死亡者が約2万7800人を数え、批判があった旅順攻防の戦死者約1万5400人の2倍弱に及びました。約25万人の脚気患者(戦争参加者の約4分の1に相当)が発生したことも考え合わせますと、“日本軍を脅かしたのは、ロシア露軍よりも脚気だった”とも言えるでしょう。

海軍も軍艦12隻、水雷艇など25隻、輸送船など54隻、総計91隻の艦船を損失したと言われ、「日本海海戦」で圧勝するなど勝敗は明白でしたが、我が国の損害は決して軽微なものではありませんでした。

これに対して、露軍も人的損失約11万5000人、捕虜約7万9500人、撃沈・捕虜艦船98隻など甚大な損失を被りました。両軍の損耗比較からみると、“ロシアが日本に惨敗した”とは言えないまでも、陸・海戦ともに“日本が快勝”したことは明白でした。

後世、「世界史を変えた日露戦争」と言われるように、日露戦争は、この時期、頻繁に起きていた植民地戦争とまったく違う“大国と大国の戦争”でした。塹壕戦と機関銃の組み合わせ、情報と宣伝の活用、制海権の確保に向けた陸軍と海軍の協力など、欧州諸国が第1次世界大戦で学ぶことになる戦争技術や戦場の実相が明瞭に、あるいは萌芽の形で現れていたのでした。

事実、ロシアは、日本を“植民地レベル”と侮ったため、厳しい試練を味わったのでしたが、前述しましたように、13カ国・70人以上の「観戦武官」が20世紀最初の近代化された正規軍同士の本戦争をつぶさに観戦していました。

その結果、ロシアの弱さよりも、「日本の強さは本物」との認識が強調されて世界中に拡散していきました。それを最も敏感に感じて警戒し始めたのが、日露の講和条約の仲介した「米国」であったというのも“歴史の必然”と言うべきことなのでしょうか。

▼「ポーツマス条約」の交渉と結果

1905(明治38)年3月の「奉天会戦」、5月の「日本海海戦」の大勝は日本側にとって講和への絶好の条件となりました。他方、ロシア側は、同年1月の「血の日曜日事件」など国内情勢の混乱と「ロシア第一革命」の広がりに加え、ロシア軍の相次ぐ敗北と弱体化はあったものの、当初の計画どおり、戦争を続ける準備があるとの姿勢をくずしませんでした。

そんな中、5月31日、日本側から米国のセオドア・ルーズベルト大統領に「中立の友誼的斡旋」を申し入れました。大統領は、国内の革命運動弾圧のために戦争終結を望むロシア側の事情も熟知した上でロシア皇帝ニコライ2世を説得させ、6月9日、両国に講和交渉開催を提案しました。

講和会談の場所は、アメリカのニュー・ハンプシャー州の軍港で避暑地でもある小都市ポーツマス(ニューヨーク北方約400㎞に位置)が選ばれ、8月9日の予備会談から始まりました。日本側の全権代表は外相の小村寿太郎でした。桂太郎首相は当初、元老の伊藤博文に打診しましたが、講和の結果が国民の反感を買うことを予期した伊藤(側)が辞退したのでした。

一方、ロシア側の全権代表は、財政事情等から日露開戦に反対し、蔵相を解任されたウイッテでした。皇帝から「一握りの土地も1ルーブルの金も日本に与えてはいけない」と厳命されたこともあり、ポーツマス到着以来、まるで“戦勝国”のように振る舞ったと言われます。

会談に先だって日本側が決定した方針は、講和条件を3種にわけ、「絶対的必要条件」として①韓国を日本の“自由処分に任せる”とロシアに認めさせること、②満州からロシアと日本の軍隊を撤退させること、③遼東半島でロシアが有する租借権とハルピンから旅順までの鉄道に関する権利を日本に譲渡させることの3点、「比較的必要条件」として④賠償金の獲得、⑤中立国に逃げたロシア艦隊の引き渡し、⑥樺太の割譲、⑦沿海州沿岸での漁業権の獲得の4点、「付加条件」として⑦極東におけるロシア海軍力の制限、⑧ウラジオストクの武装解除、でした。

日本側は、何よりも「ロシアに対する安全の確保」を最優先し、「絶対的必要条件」を確保すれば、当分の間、ロシアの日本に対する攻撃を封じ込めることができると考えたのです。

交渉は、当初の予測とは違って円滑に進み、①では韓国の保護国化を盛り込み、②も同意、満州は清国に還付されることになりました。③についても、ハルピンからでなく、日本が実効支配する長春から旅順までの租借権の譲渡で同意しました。

しかし、賠償金の問題と樺太の割譲は激しい対立となり、ルーズベルト大統領の斡旋もあって、「日本側は賠償金を要求しない。ロシアは樺太の北緯50度以南の地を割譲する」との妥協案でまとまりました。9月5日、講和条約が調印され、ここに20ヶ月に及んだ両国の死闘は終了しました。

▼“政軍一致”した「国の舵取り」

最後に、明治のリーダー達の卓越した判断力・指導力についても触れておきましょう。日本は、ロシアとの開戦を決意するや、ルーズベルト大統領とハーバード大学の同窓であった金子堅太郎を特使として中立国・米国に送りました。“日本の実力”を知り、政治家の仕事として「如何に終わらせるか」を考えていた枢密院議長・伊藤博文が直接、金子に依頼したのでした。

戦争中、明石元二郎大佐が中立国スウエーデンを本拠としてヨーロッパ全土で反ロシア帝政活動を煽る様々な工作活動を実施したのはあまりに有名ですが、その工作資金100万円(今の貨幣価値で約400億円と言われます)は、山県有朋の英断により陸軍参謀本部から支給されていました。

工作の成果については諸説ありますが、ロシアの継戦意志をくじいたことはまちがいなく、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世をして「明石大佐一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている」と称賛されたのでした。

講和条約の早期実現は、「奉天会戦」直後、当時の戦争継続能力の限界を知っていた児玉大将がひそかに上京し、「もうこれ以上進撃する力はない。講和の潮時である」と山県総参謀長に進言した結果でした。

例示したら限りがありませんが、このように見事なまでに“政軍一致”した「国の舵取り」について、明治時代とは内外の環境が大幅に違ったとは言え、昭和のリーダー達はなぜ「歴史」から学ばなかったのか、何とも悔やまれます。

“何が失敗だったか”については追々振り返ってみようと思いますが、今回の冒頭に書きましたように、将来、同じような“失敗”を繰り返さないためにも、“軍事のプロ”を含む我が国のリーダー達こそ「歴史を正しく学ぶ」必要があると思うのです。(以下次号)

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