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聖フランシスコの清貧の精神と現代社会

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第5回 投資と投機は似て非なるもの

前回までは「個人の心の平和」「人間社会における平和」「人間と地球の間の平和」という総論を語ってきた︒今回からは、経済社会のあり方について、我々が日々接する問題を捉え︑それぞれのテーマを各論として論じていくこととする。その第一として、「投機」と「投資」の違いについて、述べてみたい。人を投機に走らせるものは「強欲」である。他方、人を投資に導くものは「大志」と「情熱」である。投機と投資とは根本的に異なるが、今ではこの両者はすっかり混同されている。本稿ではその違いを明らかにし、さらに中央銀行の「超金融緩和」政策の誤り、実体経済を伸ばすための人材育成の重要性を述べたい。
現代社会の「強盗」
医薬品業界のような病人に奉仕すべき世界において、イエスが「強盗」と非難したような人物が実在する。例えば、あるヘッジファンド(富裕層から私的に資金を集め、それをさまざまな手法で運用するファンド)の資金運用者はジェネリック薬品(特許切れで独占販売が終了している薬品)の販売権を買収し、それまで一錠三ドル五十セントで販売されていた薬品を一挙に七百五十ドルに値上げして売り出した。そのため、多くの患者がその薬を買えな くなってしまったのである。こうした行為は「強盗」以外の何物でもないだろう。

 

第6回 事業を行う際の 社会性経済性 持続性

事業をするにあたっては、その事業の「社会性」「経済性」「持続性」を検証することが重要だが、「社会性」と「経済性」は、「一方を立てれば他方が立たず、相反するもの」と考えられがちである。しかし、その事業の「持続性」を考察するなら、「社会性」と「経済性」は「ともに満たさなければいけない必要条件」だということは容易に認識できる。「社会性」をないがしろにして「経済性」のみ追求すれば、やがてその事業は破綻する。社会性に十分配慮する事業でも、経済的に成り立たなければ、やはり持続不能になる。
多くの投資銀行の末路
筆者は一九八四年にニューヨークにやってきて、まずゴールドマン・サックスに入社した。同社で七年働いた後に独立し、自分の投資銀行を設立して二十二年経営にあたった。投資銀行とは、その名の通り「投資の専門家」で、顧客企業の経営者に経営に関するガイダンスを与える「先生」の立場にあるはずだ。投資銀行家のほとんどは、弁護士資格を持つか、経営学修士号を有している。しかし、皮肉にも、筆者はこの三十年間、実に多くの投資銀行が消滅するのを見てきた。

 

第7回 事業を行う目的と 果実の評価

新規事業を始めるにあたって審議される事業計画書には、ひと言「これだけ儲けます」と書いてあるわけではないはずだ。どのような事業で、どのような財、またはサービスを世に提供し、世にどのようなインパクトを与えるのか、またなぜその事業はその会社が採り上げるにふさわしいのかなどが、情熱を込めて書かれているはずだ。そして、その事業を行うにあたって、これだけの投資を必要とし、これだけの利益をやがて上げるであろうと予想されるのが通常だ。
しかしながら、「果実の評価」となると、株主は「いくら儲かったのか」「利回りはどうなのか」といった数字にばかりに注意を払い、経営陣も株主も株価にばかり気をとられるようになる。一方、「事業の目的をどのようにして、どれほど達成したのか」を吟味する質的な議論はお座なりにされがちだ。国民経済も同様で、諸政策が国民生活にどのように寄与したかよりも、「GDP(国内総生産)が何パーセント伸びたかどうか」というように、数字だけが一人歩きして評価される。
筆者は自ら一つの会社を創業して経営にあたったが、そのような数字本位の評価は自分の意図を反映するものではなかった。また、自分の顧客・投資先を評価するにあたっても、利益という数字だけを主たる評価の対象にするということはなかった。本稿においては「事業を行う目的と果実の評価」について再考する。

 

第1~4回(聖人と教皇の教え)はこちらをご覧ください。

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