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マハン海軍戦略(その1)――マハン著「海上戦略史論」登場の時代的背景

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 マハン提督に出会う!?
ハーバード大学遊学中の2006年夏、マハンの「海上戦略史論」を読んだ。米国で安全保障や戦略に関わる論文やハーバード大学における講義等を見聞する際に、マハンの著作はよく引用されており、今日においても米国の外交政策・戦略などに大きな影響を及ぼしていることに気付いたからだ。
原文を読みたいと思い、ハーバード大学のワイドナー図書館を訪ねた。同図書館はタイタニック号の沈没で死亡した同大卒業生のハリー・ワイドナーの親が本の収集が好きだった愛息を偲んで図書館の建設費を寄贈し建立さたもので、300万冊余が所蔵されている。
初版本(1890年)を見つけ、手にした時はマハン提督に出会ったようで感動した。初版本の表紙は海の碧色を濃くした「茄子紺」で、文字は一切刻まれず、中央に軍艦(帆船)の金の型押し模様があった。軍艦は三本マストで舷側には三段に夫々10箇所以上の砲口が描かれている。この軍艦の型押し模様を見ていると、米国が独立当初の13州から領土を拡張し、今日の「超大国の原型」を整えた後、太平洋シーレーンに向けて「西進を続けようとする意思」を意匠しているかのように見えた。
 「天の時」・「地の利」・「人の和」
古来より、事を成すには、「天の時」「地の利」「人の和」という3つの条件が必要だといわれる。「天の時」とは時代的背景。「地の利」とは立地条件、「人の和」とは人的要素、といえるだろうか。
以下マハンの「マハン海軍戦略」が米国に出現した背景について、「天地人」の視点から考えてみたい。今回は「天の時」――時代背景――について考察する。
 「天の時」――マハン提督登場の時代的背景
<フロンティアの消滅(1890年)――インディアン掃討作戦の完了>
米国は独立後西へ西へとフロンティアを推し進めた。そして終に1890年「フロンティアの消滅」を宣言、米国の全ての土地に入植者が入ったことを認めた。「フロンティア」とは実際には「インディアン掃討の最前線」であり、「フロンティアの消滅」とは、インディアンの掃討作戦が完了したことを意味するのだ。
<買収・謀略・戦争による西部への領土拡大と移住促進(1803~67年)>
米国はフロンティア推進と並行して、未開の地であった西部の領土拡大を目指し、1803年にフランス領ルイジアナを、1819年にはスペイン領フロリダを、更に1867年にはロシア領アラスカを購入した。また、1845年にはメキシコ領テキサス併合した。更に、米墨戦争でメキシコに勝利した結果、1848年に米国はカリフォルニアを獲得した。これらの領土拡大により、マハンの「海上戦略史論」登場までには、ハワイを除き、現在の米国本土エリアが確立された。また、1850年代には、カリフォルニア・ゴールドラッシュにより、白人の移住が加速され、それまで空白だった西部発展の基盤が作られた。
<咸臨丸来航(1860年)――太平洋シーレーンを越えたアジア市場の展望>
米国は、カリフォルニアを手に入れたことで、太平洋シーレーンの向うにある支那・日本などアジア市場へのアクセスが可能となった。折しも、ペリーの砲艦外交により徳川幕府の鎖国政策が打破され、米国は1858年の日米修好通商条約により、日本という太平洋シーレーンの中継地を確保した。ブキャナン大統領時代の1860年には、同条約批准のために咸臨丸が太平洋を越えてサンフランシスコに来航した。使節団一行のワシントン、ニューヨークなどで極めて盛大な歓迎を受けた。この一大イベントは、当時の米国識者達に支那・日本などアジア市場の重要性・可能性を強く印象付けた。
<南北戦争(1861 – 65年)>
当時、南部と北部との経済・社会・政治的な相違が拡大していた。南部・奴隷州では黒人労働奴隷を用いたプランテーション経済が盛んで、綿花の自由貿易を望んでいた。一方、北部・自由州では急速な工業化により、欧州に対抗するための保護貿易が求められ、新たな流動的労働力を必要性から奴隷制とは相容れなかった。北部と南部の対立は、南北戦争に発展した。結果は、北部が勝利し、米国は分裂を回避し、統一した考えの下での国家再構築が可能となった。
<“太平洋ハイウェイ”の確立など>
“太平洋ハイウェイ”と呼ばれる、①大陸横断鉄道の建設(1969年)及び②サンフランシスコ支那を結ぶ蒸汽船航路の開設(1867年)により、米国とアジア市場が繋がった。また、1861年には大陸横断電信網が開設された。特に、大陸横断鉄道は人口豊かな東部とまだ未開発だが肥沃な西部とを連結するもので、米国発展にとっては不可欠の「動脈」であり、独立を確実なものにする東西の絆であった。
<艦船技術>
1807年にはフルトンが外輪蒸汽船を開発した。また、1858年にはブルーネルが発明したスクリュープロペラを備えた外洋定期客船「グレート・ブリテン」が作られた。かくして19世紀末には、大西洋・太平洋の波濤を越えて運行できる高速・大型の船舶の建造が可能となった。
 「天の時」として捉えたマハンの「海上戦略史論」の意義
上述のように、大西洋と太平洋にまたがる大国の体裁を確立した直後に米国の指導者達は何を考えたろうか。恐らく「今後、旧大陸の欧州・アジア諸国と如何に関わるか?米国が世界に冠たる国家に成長するためにはどうすればよいか?」と自問したはずだ。別の表現をすれば、「出来上がったばかりの米国という『巨体』に吹き込む『魂』あるいは、今風に言えば『カーナビ』を探すこと」だった。まさにこのタイミング――1890年――に、米国の「魂」の一つとなるマハンの「海上戦略史論」が世に出た。私は、マハンの「海上戦略史論」は、世界の超大国に発展するポテンシャルを秘めた米国の「戦略指南書」に相当するものと捉えている。マハンの「海上戦略史論」の価値は今も色褪せることなく、今日の「パクス・アメリカーナ(米国の平和)」を維持するための「戦略指南書」であり続けていると確信する。

 

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