「我が国の歴史を振り返る」(40) 「盧溝橋事件」から「支那事変」へ
▼はじめに
記念すべき40回目の発信となりました。読者の皆様にはいつもお付き合いいただき心より感謝申し上げます。歴史の素人の私が様々な歴史書を読み漁ってからだいぶ時が経ちますが、歴史研究家の皆様のご苦労に思いが至るのが、まさにこれから振り返る「支那事変」以降です。さまざまな事象が複雑に絡み合い、歴史を動かした“決めて”を容易には見いだせないからです。
米国は、1995年に「ヴェノナ文書」を公開しました。米国陸軍情報部が傍受し、解読した記録といわれる本文書は、第2次世界大戦前後のソ連の陰謀をかなり詳細に解き明かしていますが、「ヴェノナ文書」以前とその後では、「歴史の見方」、つまり歴史を動かした“決めて”が180度変わった部分もあります。
日本では当時から「ゾルゲ事件」のようなものも発生し、ソ連の陰謀がある程度は顕在化していましたが、なぜか、為政者たちはその意図を見抜けず、結果として、操られるように「国の大事」を選択してしまった一面もあります。まことに不思議です。その辺の状況も含め、引き続き国内と国外事情を織り交ぜながら振り返ってみようと思います。
▼「盧溝橋事件」発生
「張作霖爆破事件」から「満州事変」そして北支工作などについては、依然として謎はありますが、戦後、そのほとんどを日本軍が仕組んだとされています。
しかし、「盧溝橋事件」に至る1935(昭和10)年以降に中国各地で起きた諸事件には日本側の秘密工作の証拠がなく、反日宣伝活動で感情が高ぶった一般国民か国民党下部か共産党系かは明確でないにしても、すべて中国側から挑発を受けていたことは明らかなようです。
「西安事件」を経て国共合作体制下にあった中国は、この頃から「日本と一戦交えてもいい」という雰囲気に変わり始め、北支・中支・南支各地で頻繁に事件が発生していたのです。
改めて、当時、日中両国が対峙している状況を振り返ってみますと、華北では、中国41万人の兵力が5千の日本軍を包囲する形となり、徐州方面でも35万の兵力が北上をうかがうなど、日中両軍の緊張が高まっていました。しかし、日本側はあくまで華北にとどまり、事態の不拡大方針を堅持していたのです。
このような中の1937(昭和12)年7月7日夜、「支那事変」の発端となった「盧溝橋事件」が発生します。まず、演習を終えた日本軍に突如、“中国側からと思われる数発の銃弾”が撃ち込まれました。翌8日払暁以降も、再三にわたり不審な発砲を受けます。隠忍自重すること7時間、ついに日本側は中国に攻撃開始し、これを撃滅します。
「盧溝橋事件」については、現在の中国政府は「日本側が意図的に侵略を開始した」としていますが、歴史研究家の間では、“日本軍を見通しのない戦争に引きずり込むために、国民党軍を矢面に立たせて消耗させ、共産党を勝利に導く道を開く”という共産党の陰謀だったという説が最有力です。
実際に、中国第29軍に入り副参謀長まで登りつめ、日本との戦争を画策していた共産党の秘密党員(名前も判明しています)や中国軍大隊長の告白も出版物や回想録として出回っていますから、中国政府が認めないとしても、“中国側からの発砲”には間違いありません。
事件当日、日本軍は検閲のための演習を実施中でした。中隊長の配慮で隊員は重い鉄兜をかぶってなかったことがわかっています。鉄兜を被ってないような部隊が“戦争を引き起こすような行動をしない”ことは明白です。
日本政府は、(中国に遠慮して)「偶発説」を採用しているようですし、歴史教科書もすべてその責任を曖昧にして「衝突が起きた」とだけ書いています。
確かに、共産党本部(延安)の指示ではなかったという意味では、「偶発」だったと言えるのかも知れませんが、“状況証拠が明白でもそれを事実として受け入れない”のが「中国の歴史認識」であることを私達は知る必要があるのです。
なぜ日本軍があの現場にいたのか、についても再度確認しておきましょう。それは、日露戦争前の「義和団事件」までさかのぼります。各国と中国の最終議定書で「北京から海に至る10数か所に各国の軍隊を駐留する」という協定を結びました。よって、当時、日本以外にもアメリカ、イギリス、フランス、イタリア(ドイツやロシアは撤退)が駐留していたのです。
▼「盧溝橋事件」から「北支事変」へ
次に「盧溝橋事件」勃発後の拡大ですが、ただちに外務省と陸軍中央は「不拡大・現地解決」の方針を固めます。しかし、陸軍内部は「拡大派」と「不拡大派」が対立し始めます。
「不拡大派」は、「日本が出兵したら、泥沼にはまって長期戦に陥る可能性があり、列強に漁夫の利を与えかねない。それよりも満州経営に専念し、対ソ戦に備えるべき」というもので、作戦部長の石原莞爾らがその中心人物でした。
他方、強硬意見を発する「拡大派」が存在しましたが、「拡大派」と言えども、中国の反日・侮日の機運が高まる中、反日政策を改めさせようする「対支一撃論」であり、けっして全面戦争を求めるものではありませんでした。
事件2日後の1937(昭和12)昭和7月9日、現地で「停戦協定」が結ばれ、軍の派遣はいったん見送られますが、中国軍による協定違反の執拗な攻撃が続き、とうとう我慢しきれなくなって反撃を開始します。
7月27日、日本の天津軍が中国に開戦を通告し、北京と天津を掃討します。それまで日本を挑発していた中国軍は、あっという間に北京・天津を放棄し、南の方に逃げてしまったのでした(「北支事変」と呼ばれます)。
その後、天皇が近衛首相に「もうこの辺で、外交交渉で決着させてはどうか」とのご意向を漏らされたこともあって、日本政府と陸海軍は一丸となって積極的に和平に乗り出します。
このような情勢下の7月29日、「通州事件」が発生します。通州は、それまで長城以南では最も安定した地域で、多数の日本人が安心して暮らしていました。日本の軍隊が「盧溝橋事件」で街を離れていた留守に、本来、日本の居留民を守るべき中国保安隊3000人が反乱を起こして日本人居留民を襲撃し、200人以上の日本人が、言葉では表現きでないような残忍で猟奇的な殺害・処刑を受けることになります。
▼「北支事変」から「支那事変」へ
やがて、蒋介石が中央軍を上海に増派し、現地の日本軍に対して攻撃を繰り返した結果、「第2次上海事変」が発生します。こちらは海軍が主導して陸軍を引きずり込みます。その経緯を振り返っておきましょう。
「盧溝橋事件」が起きるや、米内正光海相は、「不拡大方針」を主張していましたが、海軍は、本事件が全中国に波及する可能性が高いとの認識のもと、軍令部と海軍省が協議の上、全面作戦に備えた作戦計画や処理方針を作成していました。
日本側は「北支における権益をすべて白紙に戻す」という寛大な方針に基づき和平交渉案を作成し、中国側と交渉します。第1回目の話し合いを予定していた8月9日当日、交渉阻止を狙いすましていたかのように「大山事件」(海軍陸戦隊の大山中尉以下2名の射殺事件)が発生し、会談は流れてしまいます。
この事件を境に上海情勢が悪化するや、米内海相はそれまでの「不拡大方針」を放棄して、陸軍の派兵を要請し、居留民保護の目的で派兵が閣議決定されます。米内はのちに「全面戦争になった以上、南京を攻略するのが当然」と発言するまで強硬論に転じたのです。
陸軍参謀本部作戦部長の石原莞爾は、海軍の強硬論について「作戦の本質を知らないものである」と嶋田繁太郎軍令部長に申し入れたとの記録も残っています。また、拝謁した米内海相に対して昭和天皇が「これ以後も感情に走らず、大局に着眼して誤りのないよう希望する」旨のお言葉が下されたとの記録も残っていますし、「海軍はだんだん狼になるつつある」と当時の外務省東亜局長も日記に記しています。
海軍は、予ねてからの計画通り、南京や南昌に対する本格的な爆撃を開始しますが、それは上海を戦場に限定していた陸軍参謀本部の作戦計画を大幅に超えるものでした。
一方、蒋介石は、「盧溝橋事件」勃発後「不戦不和」「一面交渉、一面交戦」の中で葛藤していましたが、7月下旬、和平をあきらめ、「徹底抗戦」を全軍に督励します。そして「応戦」から「決戦」に転換しますが、その理由として、軍事力、特に空軍の優位について自信を保持していたことに加え、国際都市・上海で有利に戦えば、対日経済制裁など外国の支援を得られるだろうと考えていたといわれます。
上海においては中国側が先に仕掛けます。海軍旗艦「出雲」に対する爆撃を敢行しますが、軍艦には命中せず、上海租界の歓楽街を爆撃、千数百人の民間人死傷者が発生します(「第2次上海事変」といわれます)。
8月14日、中国側は「自衛抗戦声明」を発表し、日本側はこれを事実上の「宣戦布告」と受け止めます。翌15日、近衛内閣は「支那軍の暴虐を膺懲(ようちょう)し、南京政府の反省を促す」と声明を発表し、「上海派遣軍」を編成、松井岩根大将が司令官となります。一方、蒋介石側も全国動員令を下令します。
これによって、実質的に日中全面戦争に突入しますが、1941(昭和16)年12月に日米戦争が勃発するまでは両国とも実際の「宣戦布告」を行いませんでした。主な理由は、双方ともアメリカの「中立法」の発動による経済制裁を回避することが念頭にありましたが、日本側は早期事態解決を狙っていたこと、中国側は軍需物資輸入に問題が生じることを懸念していました。
8月17日、海軍の強硬論に引きずられるように、我が国は従来の「不拡大方針」放棄を決定し、「支那事変」と呼称しました。9月末、不拡大派の筆頭、石原莞爾作戦部長は更迭され、後任の下村部長によって、主戦場を華北から華中に移すことになります。陸軍も「不拡大方針」を放棄したのでした。
日本軍が上海の南の杭州湾に上陸すると、中国軍は予想外に敗走を続け、11月中旬には上海全域をほぼ制圧します。陸軍は、上海線終結をもって軍事行動停止案を作成していましたが、海軍などの「時期尚早」との反対から見送ることになります。
このあたりのいきさつは、以前に紹介しました、日中歴史共同研究の成果を取りまとめた『決定版 日中戦争』に克明に記されていますので、ある程度は中国側も了解しているものと判断されます。
今なお、「日中戦争は日本の侵略ではなかった」と主張する歴史家は後を絶ちません。戦場が中国大陸であった以上、日本側に全く非がなかったとは言えがたくとも、「日中戦争拡大に至るには様々な要因があった」「少なくとも日本の一方的な侵略ではなかった」ことを多くの読者に知っていただきたく少し長くなりました。
「陸軍悪玉論」も同じです。軍国主義者=戦争拡大論者=陸軍と決めつけるのは、あまりに「史実」と違います。海軍主導の展開は、今後も続きます。(以下次号)