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「我が国の歴史を振り返る」(78) 「大東亜戦争」の総括(その6)

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▼はじめに

 本歴史シリーズを発信するまで、おおむね20年の歳月を要しました。この間、様々な歴史の文献をあさっては自分なりに租借をして文章にしていたのですが、「大東亜戦争」の総括は、我が国の歴史を学んだ自分なりの結論というか、私の“存念”を書きまとめています。

諸先輩、しかも高名な歴史家や研究家の皆様が様々な視点で総括しておられることはよく承知していますが、総括だけは(その資格があるのかどうか、あるいは適切かどうか自問自答しつつも)あくまで自分の視座に拘わり、頭の中に浮かび、“降りてきた”言葉だけを文章にしたものです。

この総括には、もう少しテーマが残っております。もうしばらくお付き合いいただきたいと願っております。

さて、だいぶ前になるでしょうか、テレビで有名な田原総一郎氏が『誰も書かなかった日本の戦争』を上梓しました。日頃から激しい言動を吐く田原氏が「戦争」をテーマにして本を書くのは珍しいと思い、興味を持って読ませていただきました。

読むと、(失礼ながら事前に想像していたよりも)田原氏は、我が国が経験した戦争についてよく調べてしっかり理解しておられ、改めて、氏の慧眼を知ることとなりました。

その田原氏は、最後に「一番大切なことは二度と戦争を起こさないことだ」と結んでおりました。多くの犠牲を払った戦争を忘れてはならないことはわかりますし、「我が国が外交戦略を誤ったことが戦争の原因」とする田原氏の解釈を理解できないわけではありません。

また、この結論に反対する人はいないでしょう。それでも私は、3百ページに及ぶ大作の結論がこれだけで終わりとなると、「多くの読者は「『読んで損した』と思うのではないか」と心配したことをよく覚えています。

氏の考えの根底には、憲法前文でいう「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して・・」のような思想が定着しているのかも知れませんが、我が国を取り巻く情勢が厳しさを増している現下の状況から、我が国の戦争を振り返った結果を受け、またそれらから教訓等を学び、せめて「戦争を二度と起こさないためにはどうすればいいか」についての提言ぐらいはあってもよかったのでは、と今でも思っています。

一方、私は、「二度と戦争を起こさないことだ」で留めた田原氏の本心も何となくわかるような気がします。そこに、戦後、インテリといわれている人達の“共通の視座”を感じるのです。続きは本文で触れましょう。

▼我が国は、欧米諸国に「総合力」で負けた!

前回の続きです。「非情」という意味では、敵国の無辜(むこ)の民の虐殺だけではありません。ルーズベルトが真珠湾攻撃を暗号解読によって事前に知っていたにもかかわらず、現地に知らせず3000名以上の兵士を見殺しにしましたし、チャーチルは、ナチスと戦うためカレーの4000人の兵士を犠牲にしてダンケルクの30万を救いました。

現代戦の本質でもある「勝つためには手段を選ばない」戦略は、味方を犠牲にするのも厭わないのです。これは、兵士の命を犠牲しても戦力発揮を強要する「人命軽視」とはその本質が違います。

しかも、それだけでは終わりませんでした。ルーズベルトの謀略に乗せられたような「真珠湾攻撃」が、トルーマンをして「野獣のような人間とつきあうのには、相手を野獣として扱わなければならない」と原爆投下の大義名分(正当性の根拠)にまで使われてしまいます。

正直言えば、「お前らに言われたくない」の一言ですが、トルーマンはさらに“悪知恵”を発揮します。ソ連の満州侵攻後、日本降伏の報告を受けたトルーマンは、なおもソ連が戦争継続していることを知り、攻撃作戦を一時停止するようアメリカ軍に命じています。ソ連による日本軍の人的損害が拡大することによって、原爆による人的損害を小さく見せることを企図したといわれます。

事実、参戦後、ソ連軍は270万人の日本人を捕らえ、35万人から37万5千人が最終的に死亡、もしくは行方不明となります。その上、64万人の日本人捕虜がシベリア各地の強制労働収容所に送られ、約6万人以上がシベリアで犠牲となるのです。

これに対して、原爆の犠牲者は広島長崎合わせて約21万人あまりです。その上、この数字を正当化する(だけの)目的で、東京裁判では「30万人の南京大虐殺」をでっちあげました。

我の謀略を敵の過失(悪)として国民の戦意を煽った「リメンバー・パールハーバー」の標語や原爆の大義名分やその正当性を印象づける謀略に至る“したたかさ(悪さ)”こそが、彼らの「総力戦」であり、勝敗を分かつ岐路になったと私は考えます。

そこには、ルーズベルトやトルーマンやチャーチルなど、国のリーダーとしての個人的資質のならず、長い歴史の中で、何度も戦争を経験し、勝つために何をすべきかについて魂の奥底で継承されてきた民族のDNAから生み出されたもの、そして、植民地支配を通じて定着した人種差別や宗教差別ともいうべきものが根底にあったと考えるべきでしょう。

これらについては、日本人は逆立ちしても叶いません。お手上げです。「非情になれない」「したたかになれない」と「戦争に不慣れ」「経験不足」は同義語とも言えるでしょうし、「武士道」と「騎士道」の本質的違いかも知れません。我が国は、これらの「総合力」でどうしても欧米諸国を越えられない根本的差異があったと考えます。

▼スターリンの完勝

さて、「非情な上、目的のために手段を選ばず」に関しては米英の指導者よりさらに上がおりました。スターリン率いる共産主義者達です。私達は、中国や北朝鮮の現状のみならず、歴史的事実として共産主義者達に共通した“非情さ(非人間性)”を学ぶ必要があると強く思います。共産主義は、このような非情な面を持たないと、“生き残れない制度”だということをしっかり認識する必要があるのです。

すでに触れましたが、改めて、これまで明らかになった史実を振り返りますと、スターリンの「日米を戦わせ、双方を弱らせて“漁夫の利”を得る」との高邁な戦略に基づき、米国においては「雪作戦」と命名された作戦をルーズベルト政権の中枢で巧妙に展開し、日米開戦の舵を切らせました。

そして国内においては、ゾルゲ機関が近衛内閣の内側、軍、官僚、マスコミ界に巧みに潜り込み、「対ソ警戒の北進論」から「米英と対立する南進論」の決定を画策しました。また、中国大陸においても、蒋介石の顧問として送り込まれた工作員などが共産党と連携して日米交渉を妨害し、日米戦争を誘導しました。

これらを総括しますと、米英側の仲間入りをしつつ、「日米戦争」を画策し、終戦時に「日ソ中立条約」を破って満州や北方領土への侵攻まで、まさに「スターリンの完勝」だったと考えます。

そして戦後、スターリンはその延長で中国を共産化し、巧妙に朝鮮戦争を引き起こします。また、我が国の占領においても、極東委員会による関与に加え、ニューデーラー達を送り込んで占領政策を支配して日本改造を企図、日本の共産化まで画策します。「全面講和」の推進もその陰謀の一環だったことでしょう。

欧州正面においても、ドイツを分割し、東ヨーロッパを支配します。その最中、米英がこのようなソ連の進出を“脅威”と認識し、「待った」をかけなかったら、「我が国や東アジアはどうなっていただろう」と考えるだけでもぞっとします。

▼「知恵の差」こそ最大の敗因(「大東亜戦争」総括のまとめ)

 “本歴史シリーズ流”に「大東亜戦争」を総括してきましたが、まとめておきたいと思います。

我が国の「先天的要因」「後天的要因」「戦争指導上の要因」、いずれも、戦争に明け暮れた歴史―特に第1次世界大戦の「総力戦」の経験―を有する欧米諸国と差異ができてしまい、「敗戦」に至りました。

私は、「我が国は、欧米諸国に『総合力』で負けた」と結論しましたが、戦争の勝敗は意外にも「総合力」の骨幹たる国力の差異だけで決まるものではないことも事実です。ベトナム戦争などはその卑近な例と言えるでしょう。

改めて、「大東亜戦争」の「敗因」を端的に総括しますと、「我が国は『知恵の差』で負けた」というべきなのだろうと考えています。当然、この「知恵の差」を引き起こした主要因もまた「経験」の差異にあったとも言えるでしょう。

しかし、それでも私は、我が国が「大東亜戦争」において国を挙げて発揮した「知恵」とそれにもとづく「実践」は、我が国の現在までの歴史の中でピークではなかったかと考えます。今の常識や判断基準で考えれば、当時の我が国があそこまで出来たことを驚くばかりです。

これらから、その意味するところは田原氏の視点とは全く違いますが、私も田原氏同様、「我が国は二度と戦争を起こさないことが大切だ」との言葉で総括を締めくくりたいと考えています。

その理由は、今後、我が国(国民)が、「大東亜戦争」など一連の戦争の歴史を通じて「戦争の本質」のようなものを学び、欧米諸国同様の戦略眼、勝利するためのしたたかさや非情さを身につけ、それらを将来に活かす意欲や根性を持ちつつ、「大東亜戦争」時以上の「知恵」を発揮して「実践」できるとは到底思えないからです。

現実はその逆、大方の国民が「自虐史観」を受け入れ、自らの「経験」から「学ぶ」ことより、“一億総懺悔”の言葉のように、「経験」を「否定すること」「悔いること」「詫びること」の方に力点が行っています。

よって、「我が国は二度と戦争を起こさないことが大切だ」を強調したいと思いますが、(前述しましたように)大事なことは、「我が国は二度と戦争を起こさないためにはどうすればいいか」にあります。

特に問題なのは、「戦争」は―「大東亜戦争」についても東條らの証言のように―“受動的に起こる”可能性があるということです。そのような「戦争」を防止するためにも、かつての人類の歴史や自らの「経験」を学び、「知恵」を働かせ、「国を挙げて防止の態勢を整備する」しか、戦争という国難の再来を回避する手段がないと考えます。

「戦争」を防止のためには、適切な外交にはじまり、防衛力や日米同盟などの物理的な抑止力が必要ですが、それだけでは不十分です。

「戦争」を回避する最も大切な要件は、自国に対する誇りや国を守る気概をはじめ、「知恵」のあるリーダーの選出やポピュリズムに陥らない冷静さなど、大多数の国民の「精神」にあると私は考えます。これについては後ほどしっかり触れましょう。

▼500年の白人支配に終止符

 さて、「大東亜戦争」の総括の4番目まで来ました。本歴史シリーズ「我が国の歴史を振り返る」のサブテーマは、「日本史と世界史に“横串”を入れる」でした。ここでは、日本史側から世界史側に刺した“横串”ともいうべき、人類の長い歴史の中で、“大東亜戦争の人類史上の意義”について改めて考えてみたいと思います。

まずは、「500年の白人支配に終止符を打ったかどうか」です。 冒頭から取り上げてきましたように、「大航海時代」以降、航海術や科学技術に勝る西欧列国は、「白人優位主義」を掲げ、約500年にわたり植民地支配を続けてきました。

西欧列国は、アメリカ合衆国が独立前の18世紀中頃には、地球上の85%を支配していたことも紹介しました。そして独立したアメリカも西欧諸国に仲間入りし、領土の拡大を企図し、ハワイを併合し、フィリピンを植民地化しました。

問題は、欧米列国による植民地支配のやり方にありました。彼らは、白人以外の有色人種を人間として認めず、人身売買、搾取、殺戮、強姦・・・なんでもありでした。植民地の生産を上げるため、現地の労働者にノルマを課し、ノルマを達成できなかった労働者の命を奪うとか手首を切りおとすというような残忍な行為を平気で繰り返していました。

このように、白人の植民地支配の歴史は、有色人種にとっては“人間としての尊厳そのものが否定された”歴史でもありました。我が国は、第1次世界大戦後のベルサイユ会議において、人類史上はじめて「人種差別撤廃」を提案しましたが、米国内世論の反対に遭ったウイルソン大統領により否決されました。 

我が国は、「大東亜戦争」中、「大東亜共栄圏構想」を掲げ、東亜(アジア)民族の独立と共存共栄を目指しました。そして戦争最中の昭和18年には「大東亜会議」を開催し、8カ国の国政最高責任者やチャンドラ・ボーズらオブザーバーが東京に参集して「大東亜共同宣言」を採択しました。

宣言は、「世界各国が互いに寄り合い助け合ってすべての国家がともに栄える喜びを共にすることが世界平和確立の基本である」と始まり、「しかし米英は、自国の繁栄のためには他の国や民族を抑圧し、特に大東亜に対してはあくなき侵略と搾取を行い、隷属化する野望をむきだしにして大東亜の安定を根底から覆そうとした・・」と続きます。

これらに関しては、依然として様々な議論がありますが、『黎明の世紀―大東亜会議とその主役たち』(深田祐介著)によると、少なくとも当時のアジア諸国が置かれた環境や会議の参加したリーダー達の“独立にかける思い”がひしひしと伝わってきます。

これらを受け、深田氏は「大東亜会議はアジアの傀儡を集めた茶番劇などでは決してなかった」と結んでいます。

欧米諸国は、自らの植民地支配の歴史に対する贖罪意識を保持し続けていたと推測しますが、ついに1948(昭和23)年、「世界人権宣言」が国連総会で採択されます。

そこには「すべての人間は、生まれながら自由であり、かつ、尊厳と権利についても平等である」(第1条)、「すべての人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享受することができる」(第2条)とあります。

改めて、歴史の「if」ですが、この宣言の趣旨がベルサイユ会議で採択されておれば、当然ながら、世界の歴史、そして我が国の歴史も大きく変わっただろうと推測します。

「世界人権宣言」を受けたような格好で、現在、国際社会で認められた196カ国の独立国と13カ国の未承認国が存在していますが、依然として、イデオロギー、宗教、文明の対立が続き、アメリカなどでは相変わらずの人種差別事案が頻発し、社会問題になっています。

さらに、今なお、漢民族による新疆ウイルグやチベットの支配や南・東シナ海進出の企図など、かつての西欧列国による植民地主義となんら変わらない“現状変更路線”を継続している中国のような国もあります。

それでも、かつてのような白人支配に戻る可能性はゼロと断言できるでしょう。すなわち、「大東亜戦争」における我が国の奮闘が、世界史のおける「白人の優越」に終止符を打つ原動力なったことは間違いないのです。

評論家の平川祐弘氏は、「大東亜戦争」について「日の単位で考えれば、真珠湾攻撃は日本が悪い。月の単位で考えれば、ハル・ノートは外交史上まれにみる挑発的要求なので米国が悪い。世紀単位でみればアジアの解放である」と世紀単位で考える重要性を説いております。

ビルマの独立運動家バー・モウは、「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたその開放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない」(『ビルマの夜明け』より)との言葉を残しています。

バー・モウの言葉を引用した深田氏は、「その諸国民の中に『日本国民』自身も含まれているところに、戦後の日本の悲劇がある」と我が国の現状を嘆きつつ述懐していますが、未だ、多くの日本人が東京裁判史観から脱却できていないことを指していることは明白でしょう。長くなりました。(以下次号)

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