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「我が国の歴史を振り返る」(75) 「大東亜戦争」の総括(その3)

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▼はじめに

 さて、前回取り上げました青年将校らの行動に関連して、個人的な思い出があります。若かりし頃、自衛隊の「隊歌」を練習させられる機会がありました。その中に、「べきらの淵に波騒ぎ ふざんの雲は乱れ飛ぶ 混濁の世に我立てば 義憤に燃えて血潮湧く」との歌詞からなる『昭和維新の歌』もありました。もちろん、教えている方も習う方も歌詞の意味など知ろうとするはずもありません。

のちのち、この歌詞こそが、青年将校達の目に映った「当時の世情」であり、国家改造の先頭に立とうとする熱意がほとばしった歌であることがわかります。細部は本文で触れましょう。

▼軍が“独立した政治意識”を持つに至った要因

軍という圧倒的な力を持った組織がなぜ“独立した政治意識”を持つに至ったのでしょうか。前回取り上げました竹山道雄氏は、①青年将校の運動、②軍の国体精神、③大東亜共栄圏建設と国内改革という3ステップを踏んだと解説します。

まず、青年将校の運動ですが、昭和初期、「赤にあらずんば人にあらず」との左翼思想がインテリの間にまん延し、若い世代は完全に政治化します。インテリ層は武器を持っていなかったのですぐに弾圧されますが、その風潮が若い将校たちに伝搬し、軍人特有の形に“変形”していきます。

特に、多くの軍人が農家や中産階級出身であったことから、社会の不正を憎み、苦しんでいる人々に同調する“激情”を保持している点ではインテリ層の動機とほぼ同じでした。唯一の違いは、インテリ層がマルクス・レーニン主義に則り天皇と祖国を否定したのに対して、国防に任ずる将校達はこれらを肯定し、“絶対視”します。

しかも、将校達が求めていた「天皇制」は、イギリス的な立憲君主的天皇制(“機関説的性格”とも言われる)ではなく、国家の一元的意思の体現者としてプロシア的な“統帥権的天皇”だったのです。

そればかりか、立憲君主的天皇を支えていた政党、財閥、官僚、軍閥を否定します。中でも、大正デモクラシー以来の自由主義政党による“腐敗”に反発して軍国的な国家社会主義を目指すのです。

この動きは、「昭和維新」を唱える昭和初期の「五・一五事件」や「二・二六事件」に始まり、やがて、軍全体が「国を救う者は自分達だけである」との異常なまでの自尊心を誇示し、「天皇親政」のもとの「皇軍」に代表される圧倒的な力を確立していきます。

当然、背景に、「世界恐慌」以降、国民経済が疲弊し、政治においては政党や官僚に対する不信感から、このような軍の動きを強烈に支持した社会の機運(国民の総意)がありました。

▼共産主義者達の暗躍

その上、青年将校ら軍人には“思いがけない応援団”がおりました。すでに紹介しましたように、青年将校らの現状打破・革新への思想を巧みに利用した、ゾルゲや尾崎秀美など共産主義者グループです(三田村武夫著『戦争と共産主義』より)。

彼らは、コミンテルンの戦略に基づき、日米戦争を画策して我が国を敗戦に導こうとの“謀略”を働かせ、一連のスパイ活動を実施しますが、やがて軍人の一部のみならず、革新官僚、近衛政権内の要人らとも連携し、統制経済の実施をはじめ、当時の主要な政策を陰で主導します。

こうして、国民の圧倒的な支持を得た「満州事変」を契機に、「日中戦争」、さらには、「八紘一宇」のもとの「大東亜共栄圏構想」へと拡大して、「日米開戦」、そしてついには敗戦という結果に繋がります。

第73話で「昭和天皇の敗因分析」を取り上げましたが、昭和天皇は、敗戦のご聖断と「二・二六事件」のご決断を除き、立憲君主の立場を終始貫きます。敗戦の原因を語る数少ない天皇のお言葉の中に、山県、大山、山本等の如き陸海軍の名将がいなかったことを嘆かれますが、戦争が始まるや、実質的に「輔弼責任」を有する国務大臣も機能せず、立憲君主制そのものが崩壊していたのでした。

その上、ご指南役たる元老も不在、枢密院の権限も低下するなど、まさに、明治時代と似ても似つかない我が国の統治制度における“裁可者”として、孤立無援だった天皇の“嘆き”だったと推測されます。

岡崎久彦氏は、「戦前の重要な政治的結果のどれをとってみても、一人の人間にその責任をなすりつけたり称賛したりするのは不可能だ」とも解説していますが、我が国の破綻の根本は、「不磨の大典」とした明治憲法をはじめ、顧みられることなかった我が国の統治制度が、“時勢”への適応性を欠いてしまったことにあると考えざるを得ないのです。

▼作戦参謀が残された「大東亜戦争」の教訓 

 さて、「大東亜戦争」総括の2番目に話題を変えましょう。「振り返れば、すべて苦しみの連続だった」として『幾山河』と題した回想録をはじめ、『祖国再生』『大東亜戦戦争の実相』などを上梓された瀬島龍三氏は、「大東亜戦争」の間、主に陸軍参謀本部の作戦参謀として勤務され、陸軍首脳部の内側において戦争を実体験されました。戦争末期には関東軍参謀に転属、そこで終戦を迎えられ、シベリア抑留も体験しておられます。

瀬島氏はまた、山崎豊子の小説『不毛地帯』のモデルの一人だったことやソ連のスパイ説なども取りざたされましたが、これらの書籍を通じて瀬島氏が後世に残し、伝えたかった“事実”について、私ごときがとやかく論じる資格も知見もありません。

しかし読めば、旧軍の将校達の“実像”、つまり“国家の存亡を背負って正面から取り組んだ軍人達の生きざま” ――確かに今日の判断基準で見れば、未熟で、かつ間違いもあったかも知れませんが――を偽ることなく後世に残そうとした 瀬島氏の“思い”がひしひしと伝わって来ることは間違いありません。

その中で、瀬島氏が残された「『大東亜戦争』の教訓」を紹介し、若干の分析を試みたいと考えます。

瀬島氏は、「大東亜戦争」の性格を①大東亜戦争は、あくまで自存自衛の受動戦争であって米国を敵とした計画戦争ではなかった、②日本から要請した首脳会談を米国が拒否し、首脳会談が適わなかったことは残念だった、③戦争の責任は日本に一方的にあるのではなく、米国にも戦争の責任がある、とした上で以下のような7つの教訓を掲げております。

まず教訓の第1は、「賢明さを欠いた日本の大陸政策」です。我が国が「ハルノート」を受諾できなかったのは、まさに我が国の大陸政策を否定されたからでした。これは「国家の威信の全面否定であった」と瀬島氏はとらえています。

幕末から明治にかけて、我が国は、北からはロシアの南下、南からはインドや清国を植民地化したイギリスの2大強国が迫ってくるという国家存亡の危機にあって、自衛独立の機能が欠如していた朝鮮半島、そしてロシアの満州占領を放任したままの大陸情勢から、国防上「開国進取」を国是にかかげ、日清・日露戦争を実施しました。

両戦争の勝利によって得た大陸の権益は、やがて政治的、経済的、軍事的勢力圏建設へと変貌し、「満州事変」から「支那事変」と発展していきます。背景に、日本の国土狭小、資源貧弱、人口過密に加え、「世界恐慌」による世界経済のブロック化がありました。

この大陸政策は、国民的合意を得たものでありましたが、中国ばかりでなく、中国進出を企図する米国からも否定され、日米戦争の要因となります。

瀬島氏は、「結果論として、様々な事情があったにせよ、日本の大陸政策はその限界、方法、節度において賢明ではなかった」と断じております。

教訓の第2は、「早期終結を図れなかった支那事変」です。本シリーズでもいかなる経緯を経て「支那事変」が拡大して行ったかについて触れましたが、瀬島氏は、「支那事変は満州事変の終末戦」として陸軍中央部に拡大反対派が存在した事実、そして目的を「満州国承認」のひとつに絞り、早期終結を図るべきだったと回顧します。

この考えは、「支那事変」の拡大を強硬に反対して左遷された石原莞爾や当時の参謀次長の多田駿と共通します。改めて、武藤章ら陸軍の強硬派と海軍、さらに近衛内閣の大勢により事変の拡大を図ったことが悔やまれます。

教訓の第3は、「時代に適応しなくなった旧憲法下の国家運営能力」です。その趣旨はすでに紹介した内容と同じです。

瀬島氏は、東條英機といえども、最後は国務大臣の岸信介の辞職拒否によって総辞職のやむなきに至ったことを取り上げ、非常事態においても一国務大臣のポストを自由にできなかった明治憲法の実体(欠陥)を指摘しています。

教訓の第4は、「軍事が政治に優先した国家体制」です。これについてもすでに取り上げましたが、「統帥権の独立」により政略と軍事戦略の統合を必要とする国家意思の決定について、政府と統帥部の協議を待たねばならなかったこと、しかも軍事戦略を伴う決定は、ややもすると統帥部の実質的イニシアチブによって行われたこと、さらに「軍部大臣現役武官制」によって内閣を打倒し得たことを取り上げます。それに加え、「五・一五事件」や「二・二六事件」などのテロの脅威が“政治に対する軍事優先”に拍車をかけたとしています。

教訓の第5は、「国防方針の分裂」です。国防方針をめぐる陸海軍の対立は明治時代にさかのぼります。以来、陸軍がロシアを、海軍が米国を想定敵国として軍を建設してきましたが、昭和になり、陸軍は自ら推進してきた大陸政策を米国に否定されたため、対米主戦論に傾き、逆に海軍が対米慎重論に傾きます。

一方、「大東亜戦争」開始直前まで、日本国民のだれもが米国との戦争など考えていなかった中にあって、その海軍が日米戦争の口火を切ったのは、「戦争抑止軍備が時に戦争促進軍備になるという軍事力の持つ“慣性”であり、海軍もその轍を踏んだ」と解説します。

陸海軍ともに、自軍軍備建設に好都合な国策を主張して対立を続けましたが、言葉を代えれば「自軍軍備あるを知って、国家あるを知らざる状態」が続いたことを「誠に悲劇だった」と述懐しています。

教訓の第6は、「的確さを欠いた戦局洞察」です。「戦局の将来を的確に洞察することがいかに至難なことであるか」、しかし、「戦争最高指導部の最大の使命は戦局の洞察にある」ということを瀬島氏は改めて指摘します。

何度も取り上げましたように、楽観的な「支那事変」の見積、そして欧州正面、中でも大英帝国の崩壊予測や独ソ戦の早期決着などに加え、「大東亜戦争」初戦においても、太平洋正面作戦は海軍の艦隊決戦によって決着すると判断したことから、対米英蘭作戦に充当する陸軍兵力の見積誤りなど、随所に及びました。「戦局洞察の稚拙さ」は、陸海軍を問わず旧軍の最大の欠陥だったと言って過言でないと考えます。

教訓の第7は、「実現に至らなかった首脳会談」です。国家間における話し合い、特に責任ある首脳会談の重要性をあげています。

昭和16年8月の日米首脳会談、また「東條内閣が発足して国策再検討を行っていた頃に首脳会談が実施されなかったことは誠に残念であった」とし、「もし実現しておれば日本の破局は回避し得たかも知れない」と分析しています。その上で、日本側は、「対米戦争を決断した際にも首脳会談を執拗に提案し、破局の打開を希求すべきだった」としています。

首脳会談の重要性は、当時の教訓だけに留まらず、現下の国際情勢においてもそのまま通ずるものでありましょう。

 以上挙げました7つの教訓は、戦後に回顧したとはいえ、実際の作戦参謀としての経験から掛け値なしの“本音”と思われるだけに一つ一つに重みがあります。

見方を変えれば、この7つの教訓は、我が国が破局に至った要因そのものでもあり、歴史の「if」、つまりこのうち一つでも「そうならなかったら」あるいは「それが実現したら」と仮定すると、我が国の命運が様変わりしたであろうことは容易に想像つきます。

旧軍を批判するのは簡単です。しかし、ここに掲げられているような教訓をすべて“昭和の軍人のせい”とするのはあまりに史実と違い、無理があることは明白です。

そして、将来の我が国の平和と安寧を維持するため、これらの教訓を活かすことが肝心と考えます。当然、当時とは情勢も全く違いますが、教訓第3の「時代に適応しなくなった旧憲法下の国家運営能力」などは、“時代や情勢の変化に応じて国家運営能力を柔軟に適応させていく重要性“を訴えております。

私たちは現在、歴史の教訓を活かし切れず、おなじ過ちを犯そうとしているのではないでしょうか。真剣に考えるべき時期に来ていると声を大にして言いたいと思います。

瀬島氏は、平成19年9月4日、95歳の天命を全うされました。昨年9月、大東亜戦争の総括についてあれこれ悩んでいた時、その事実を知り、不思議な縁を感じたことを改めて思い出します。もう少し総括を続けましょう。(以下次号)

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