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我が国の歴史を振り返る」(70) マッカーサーの“功罪”

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▼はじめに

 今回も前回に続き、マッカーサーを取り上げます。マッカーサーの名前さえを多くの日本人、特に若い世代には頭の片隅にすら残っていないと推測します。

しかし、マッカーサーほど戦後の日本に影響を与えた人物はいないとことは間違いないでしょう。本シリーズでもこれまで何度も取り上げましたが、今回は、帰国後のマッカーサーを取り上げ、改めてその“功罪”についても触れてみたいと思います。

▼マッカーサー離日・凱旋帰国

 4月15日、昭和天皇とマッカーサーは、赤坂の米国大使館で最後の面談を行います。天皇は、5年8カ月にわたったマッカーサーの日本再建への貢献に対して、儀礼的以上の「謝意を示された」といわれます。翌16日、衆・参議員は、マッカーサーに感謝決議文を差し上げることを決定し、経団連も感謝声明文を発表します。

東京都議会も臨時会議を開き、感謝決議文を決議し、羽田でマッカーサーに手渡します。そこには、わずかに6年ほど前、B―29の爆撃によって30万人の都民が殺されたことはすっかり忘れ、「首都の復興に成果をあげ得たことは、都民のひとしく感謝感激に堪えないところである・・」と書かれてありました。この付近の国民性は日本人独特のものでしょう。

その朝、米国大使館から羽田空港までの沿道は20万人以上の群衆で埋まり、日の丸と星条旗の小旗を打ち振ってマッカーサーを見送ります。翌日、新聞各紙もマッカーサーに対して“歯の浮くような賛辞”を載せました。

マッカーサーはホノルルで大歓迎を受け、サンフランシスコに到着すると約50万人の人々が迎えます。その後、ワシントン、ニューヨークなどでも空前の大歓迎を受け、これらの地における“凱旋パレード”は、総勢100万人もの人々が集まったといわれます。

4月19日、さっそく上下両院議員を前にしたマッカーサーは、「老兵は死なず、ただ去り行くのみ」の台詞で終わる伝説的な名演説を行います。

この演説の中で、「私は、日本国民ほど清らかで、秩序正しくかつ勤勉な国民を他に知らない」として、「戦争以来、日本人は近代史に記録された中で最も立派な改革を成し遂げた。称賛に足る意志と、学習意欲と、抜きんでた理解力をもって、日本人は戦争が残した灰の中から、個人の自由と人格の尊厳に向けた大きな建造物を建設した。政治的にも、経済的にも、そして社会的にも、今や日本は地球上にある多くの自由国家と肩を並べており、決して再び世界の信頼を裏切る事はないであろう」と日本を褒めたたえたのです。

この背景には、とかく批判のあった占領政策について、「“マッカーサー自身が日本で成し遂げたと考えていた業績”を弁護していた」とする解釈もありますが、国内では「マッカーサー神社」まで建立しようとする動きが出て、マッカーサーも「非常に光栄に思っている」と承認したといわれます。

再び、大統領候補にもなり、本人もやる気満々だったようです。そして上院軍事外交合同委員会の聴聞会に召喚され、本人も大統領選挙に有利と判断し、これを受諾します。5月3日、マッカーサーは再び、歴史に残る証言を実施します。

▼マッカーサーの証言

まず、質問者より「赤化中国に対する海空封鎖というあなたの提案は、アメリカが太平洋において日本に勝利したのと同じ戦略ではないか?」と問われ、大東亜戦争での経験を交えながらマッカーサーは次のように答えます。

「日本は産品が蚕を除いてほとんど何もない。日本には綿も羊毛も石油製品も錫もゴムもない。その全てがアジア地域にはあったが、それらの供給が断ち切られたら、1千万人から1千2百万人の失業者が生じることを日本は恐れていた。それゆえ、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障(Security)によるものだった」として、その後の日本の中国大陸や東南アジアへの進出、それに対する米軍の反撃作戦について縷々説明します。

これは、マッカーサーが聖書に手をついて宣誓を行った上での証言内容ですので、敬虔なクリスチャンのマッカーサーの偽らざる“本心”だったと断言することができます。

省略しましたが、「東京裁判」の証言において、東條英機は、「この戦争を避けたいことは政府も統帥部も皆同じだった・・・ここに至っては、自存自衛上開戦はやむを得なかった」と答えていますが、それから約1年半後、東條の基本主張が正しかったことをマッカーサーが自ら証明したのでした。

マッカーサーの証言自体は、翌日、ニューヨーク・タイムズ紙などの記事になりましたが、占領下であったせいか、国内ではその内容が話題になることはなかったようです。

その理由は、のちにこの証言を日本で最初に取り上げた渡部昇一氏によれば、「マッカーサーの証言自体は当時、記事にはなっていたものの、朝日新聞など日本のマスコミは、マッカーサーが“日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障によるものだった”とする部分を省いて報道していた」とのことです。しかも、「それ以降、現在(渡部氏が書籍を出版した2015年頃)まで、新聞やテレビがマッカーサー証言を取り上げたケースもない」と解説しています。

なお、「この発言は、中華人民共和国に対する海上封鎖の有効性を示すために発言したものであり、日本の戦争目的を擁護する意図は含まれていない」とする反論もありますが、それだけならば、上記の質問に対する答の冒頭に、わざわざこの“くだり”を入れたことについての説明がつかないと考えます。

しかし、この“日本を擁護するような”発言は、アメリカ人の受けが悪く、この発言によって、マッカーサーの政治生命が絶たれたと言って過言ではなかったようです。

またマッカーサーは、「現代文明を基準とするならば、我ら(アングロサクソン)が45歳の年齢に達しているのと比較して日本人は12歳の少年のようなものだ」とも証言します。この発言は「日本人はドイツ人より信頼できることを強調したかっただけ」とする解釈もありますが、この発言の前に「日本人は極めて孤立し、進歩の遅れた国民」と証言していたことと重なり、多くの日本人の怒りと失望を招き、結果として「マッカーサー神社」建立の話題も立ち消えてしまいます。

マッカーサーはまた、「過去100年に米国が太平洋地域で犯した最大の政治的過ちは“共産勢力を中国で増大させた”ことだ。次の100年で代償を払わなければならないだろう」と述べ、アジアにおける共産勢力の脅威の増大を強調しています。

マッカーサー自身、間違った情勢判断を繰り返したことに対する反省(後悔)の意味もあったのかも知れませんが、その後の歴史をみれば、この発言だけは正しかったと言えるでしょう。まさに、現時点においてもその“代償”がまだ終わっていないばかりか、最近の米中関係をみれば“これから正念場を迎える”ことも明らかになりつつあります。その細部については、本歴史シリーズの最後に総括することにしましょう。

▼マッカーサーの“功罪”

 GHQの占領政策は、戦後の我が国の「形」を作りましたが、最後に、そのトップであったマッカーサーの“功罪”を考えてみましょう。それを知るためには、前にも紹介しました『國破れてマッカーサー』(西 鋭夫氏)以上に、鋭くかつ公平にマッカーサーを評価している書籍を見つけることは出来ませんでした。

西氏はこう述べています。「日本という『国』が悪で、日本国民は『無知の、いや無知な犠牲者』だという発想は、マッカーサーが仕組んだものだ。東京裁判もこの発想で進行した。この発想は『国民が国』という民主主義の土台を引っ繰り返したものであり、マッカーサーが日本の国民に特訓した民主主義に反するものだった。しかし、『国』が悪いとする考えは、日本国民が『国』を愛さないようにするためには、実に巧妙で、効果的な策略であった。これが、マッカーサーの『日本洗脳』だ」と分析しています。

そして、「このからくりにハメられた状態を『戦後民主主義』とあがめ、国歌・国旗を『悪の象徴』として否定し、憲法第9条を『平和の証』として奉った多くの有識者に加え、共産主義を心棒する教師たちがソ連や中国の工作員のように振る舞い、弱民化の最良の武器である『教育』を駆使した」として、これらによって「『日本潰し』が企てられた」と指摘しているのです。

マッカーサーの命により、日本人は、夢を捨て、誇りを捨て、信念も捨てました、いや捨てさせられました。その結果、日本人であること自体を「恥」とされ、それが「一億総懺悔」となりました。

確かにマッカーサーは、戦争に至った戦前の日本の立場への理解、共産主義の否定、東京裁判の過ちなどは証言しますが、日本及び日本人に対する無理解のまま、自ら先頭に立ち、ニューディーラー達と歩調を合わせて実践した日本及び日本国民の改造については自画自賛に終始し、最後の最後までそれを反省あるいは否定することはありませんでした。

共産勢力の脅威の増大があって、占領政策は途中で変更されましたが、これまで縷々振り返ったような占領当初の「日本改造」の各施策のインパクトがあまりに強く、我が国は、その影響を国の「形」の根幹の部分に残し、国民は「誇り」さえ失ったまま、見直すことなく今日に至っています。

これをマッカーサーの「功」と考えるか、「罪」と考えるかについては、国論は依然、2分されるでしょう。西氏は「誇りを捨てた民族は、必ず滅びる」と断言しています。

私達は、マッカーサーらGHQによって強行された「日本改造」に何ら疑問を持たないまま、肯定し続けきました。そろそろ一度立ち止まって見直す、つまり「マッカーサーの呪縛」を自らの意思で脱する時に来ているのではないでしょうか。(以下次号)

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