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「我が国の歴史を振り返る」(52) 日米戦争への道程(その5) ついに開戦決定

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▼御前会議(9月6日)

 9月6日の御前会議をもう少し詳しく振り返りますと、採択された「帝国国策遂行要領」は、①対米英蘭戦争を辞せざる決意のもとに10月下旬を目途として戦争準備を整える。②これと並行して米英に対し外交手段を尽くして要求貫徹に努める。③10月上旬に至っても要求が貫徹できない場合はただちに対米英蘭開戦を決意する、となっており、第48話で紹介しました原枢密院議長の「戦争が主で外交が従なのか」の発言となります。

天皇が明治天皇御製の和歌を詠まれた後、沈黙を破って永野軍令部長が「海相の答弁が政府と統帥部を代表したものと思い、発言しませんでした。外交を主とする趣旨に変わりはありません」と発言し、杉山参謀総長も「軍令部長と同じです」と直立不動で発言し、御前会議は終わりました。

驚くことに、御前会議のみならず、これに至る大本営政府連絡会議や閣議においても、近衛首相は、自ら画策した首脳会議が頓挫したせいか、戦争決意に対する異議や反対意見を一切述べておりません。首相の地位にある政治家としては極めて不可解でした。

▼近衛退陣・東條内閣誕生

会議後、武藤軍務局長は部下を集め、「天皇は何としても外交で妥協せよとの仰せだ」と発言しますが、服部卓四郎のように「陸相は何度も参内して天皇を説得すべきだ」という強硬な意見もあって、陸軍全体の考えを避戦に変え、時代の流れを止めることができたのはわずか1か月ほどでした。その理由の主たるものは、米政府首脳の態度が日に日に硬化していったことにもありました。

9月3日、日米首脳会談を事実上拒否する回答が大統領から野村大使に手交され、10月2日、ハルが野村に会い、改めて4原則を強調するとともに、「仏印と中国(英語表記はCHINA、日本は「支那」と呼称)から全面撤兵」を求める覚書を手渡します。

近衛は、中国から全面撤兵を決意し、陸海外相らを集めて協議します。その席で、及川海相から「今や和戦いずれかに決すべきだ。その決心は総理に一任したい」と決断を強要され、東條陸相からは「駐兵問題は絶対譲れない」と断られます。

この後もハル4原則や中国の撤兵など受諾をめぐって政府と陸海軍の間に幾度となく議論が実施されますが、結局物別れに終わります。

10月15日、野村大使から「首脳会談絶体見込みなし」の電報が届きます。こうして、翌16日、日米首脳会談の希望が打ち砕かれた近衛は「閣内不一致」を理由に総辞職し、退陣を余儀なくされます。

問題は後継者でした。「陸軍を抑えなければ戦争になる。その陸軍を抑えられるものは東條以外になく、その東條に戦争回避の勅命があれば、日米交渉を再考するだろう」として、原則を重んじる東條陸相に“白羽の矢”があたります。

10月17日、参内した東條に対して、天皇は「9月6日の御前会議にとらわれることなく、内外の情勢をさらに広く深く検討し、慎重なる考究を加えよ」と述べられました。のちに、「白紙還元の御諚(ごじょう)」といわれる“日米交渉の期限を白紙にする勅命”です。

▼「甲案」「乙案」の案出

これに基づき、東條は「主戦論」を棄て、撤兵問題などで妥協する日米交渉の「甲案」をまとめあげます。

その概要は「①欧州戦争への態度、つまり3国同盟の問題は従来通りで、参戦決定は自主的に行う、②ハル4原則については、アメリカの主張を認める、③通商無差別は、全世界に適用されるべきとした上で承認する、④中国の駐兵問題は、従来通り、蒙疆(もうきょう:内モンゴル一部)・華北・海南島に駐兵する、交渉によって25年とするも可、それ以外は2年以内に撤兵」などと日本側からみればかなり譲歩したものでした。

補足しますと、“満州国は中国に含まれていない”と考えていた日本は、満州の駐留を当然として駐留問題の対象外でした。

11月1日の連絡会議では、第1案「戦争を極力避け、臥薪嘗胆する」、第2案「開戦を決意しこれに集中する」、第3案「開戦決意のもとに外交施策を続行する」の3案を提示します。

第1案を永野軍令部長が拒否し、第2案の杉山参謀総長と第3案の東郷外相と激しく議論しますが、第3案をもとに新たな「帝国国策遂行要領」が決まります。つまり「武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す」「対米交渉が12月1日午前零時までに成功する時は武力発動を中止する」というものでした。

そして、「甲案」を米国が拒否した場合に備え、「乙案」も用意し、2段構えの交渉で妥協に漕ぎ着けようとします。「乙案」の内容は「①日本の南部仏印から撤退する代わりにアメリカは日本に石油を供給する、②両国は蘭印における必要な物資の獲得に協力する」との「暫定協定案」でした。

この「乙案」には、杉山参謀総長らが猛反発しますが、武藤は「乙案を拒否すれば、外相辞職、政変となる」として受け入れ説得をします。これに対して、対米戦をすでに決意していた田中は「絶対に許しがたい」として、その怒りの矛先が武藤に向けました。

新たな「帝国国策遂行要領」(甲案、乙案含む)は、11月5日の御前会議で決定されます。これに先立ち、陸海軍の「対米英蘭作戦計画」はすでに10月下旬に決定されており、11月5日、山本五十六連合艦隊司令官に「大海令」が、6日、寺内寿一陸軍南方軍総司令官に「大陸令」が発令され、日米開戦に向けた準備に着手したのです。

▼つぶされた「暫定協定案」

対米交渉の「甲案」と「乙案」は、11月4日、野村大使に打電されます。野村は、11月7日にまず「甲案」をアメリカ側に提示しますが拒否されます。20日、今度は「乙案」が提示します。「乙案」には、フィリピンなどへの戦力増強のため、対日戦を先延ばしして時間的猶予を得ることを望むアメリカ側も関心を示します。

のちにわかるのですが、この時点でアメリカ側は日本の秘密暗号電報を解明していた(有名な「マジック情報」です)といわれ、日本の“手の内”を知っていたのでした。

ハル長官は、“石油禁輸などの経済制裁を3か月間解除し、さらに延長条項を設ける”「暫定協定案」を提案し、「英蘭中などの同意を得たうえで提示する」と述べます。

この「暫定協定案」に対して、オランダは賛成、中国は強硬に反対します。特に蒋介石は「もしアメリカが日本と何らかの妥協をすれば、それは中国を犠牲にすることになる」と危惧していたのです。

チャーチルは、「これ以上の戦争は欲しないが、中国に対して少し冷たいのではないか」という内容の電文を送りますが、「暫定協定案」の手交そのものには反対していなかったといわれます(資料によっては、「反対した」とするものもあります)。

11月25日、ホワイトハウスにハル長官の他、陸海軍長官、陸軍参謀総長、海軍作戦部長が集められ、ハル長官が「暫定協定案」を説明します。「対日関係の議論の中で主要なことは“我々自身が過大な危険にさらされないで、最初の1弾を撃たせるような立場に、日本をいかに誘導していくか”であった」とスチムソン陸軍長官は日記に残しています。この時点では、「暫定協定案」は日本側に提示される予定だったのです。

ところが、翌26日朝、「暫定協定案」は放棄されます。その原因として2つの説があります。まず、「日本軍の南方移動の情報」が陸軍情報部からスチムソン陸軍長官にあげられ、“通常の行動”としていたにもかかわらず、それがハル長官からルーズベルト大統領になぜか誇張して伝わり、大統領が“烈火のごとく立腹”して放棄しという説です。

もう一つは、ハルが(細部の理由は不明ですが)一夜にして「暫定協定案」放棄を決断し、スチムソン陸軍長官に説明し、その裏付けとして上記の情報が大統領に伝えられたとの説です。どちらが正しいか、調べ得る限りでは不明でした。

▼「ハル・ノート」の提示

 実は、アメリカは“最初から1ミリも日本に譲歩する気きはなかった”との説も有力です。当然ながら、25日の時点で「ハル・ノート」はすでに出来上がっており、11月26日、「暫定協定案」に代わり、ハル長官から野村・来栖大使に対して手交されます。

その概要は、①中国と仏印より全陸海軍及び警察力の撤退、②重慶政府(蒋介石政府)以外のいかなる政府の不支持、③日独伊三国同盟の実質的破棄を求める、などの10項目からなる過酷なものでした。

この「ハル・ノート」という言葉は正式な名称ではなく、正しくは「合衆国及び日本国間協定の基礎概略」といい、正式なアメリカ政府の提案ではなく、ハル国務長官の“覚書”ともいうべき「ノート」でした。後世の研究者達は「1941年11月26日のアメリカ提案」と呼称し、東京裁判あたりから「ハル・ノート」と呼称されるようになります。

その東京裁判において、唯一「日本無罪論」の論陣を張った有名なパール判事は、「ハル・ノート」を「同じ通牒を受けた場合、モナコ公国、ルクセンンブルク公国のような国であってもアメリカに対して武器を取って立ち上がったであろう」として、「アメリカ政府は日本が受託するとは考えていなかった。この通牒は最後通牒であり、宣戦布告にも等しいものである」と論破します。

当然ながら、戦後になってアメリカ側が「最後通牒でも宣戦布告でもなかった」と抗弁していますが、パール判事は「アメリカ政府は、手交した翌日、日本側の回答を待つことなく、“戦争の警告”を諸指揮官に発した」として、この時点、つまり、「11月27日から太平洋戦争が始まった」ことを立証しています(細部はのちほど触れることにしましょう)。

▼日米開戦決定

「ハル・ノート」を知った東條内閣は、その内容に愕然とし、東郷外相も激しい失望を感じ、両者とも「もはや交渉の余地なく、開戦を決意するしかない」と判断します。田中作戦部長だけは、「ハル・ノート」を“好機到来”として、日本にとって国論を一致して開戦するため“天祐”とみたようです。

11月29日、戦争回避の思いを捨てきれない天皇は、宮中に首相経験者を集めて懇談形式で意見を聞きます。重臣の多くは避戦を示唆しますが、「ハル・ノート」を突き付けられた以上、「開戦あるのみ」とする政府と統帥部の決定を覆すことはできませんでした。

こうして、12月1日の御前会議において、「11月5日決定の『帝国国策遂行要領』に基づく対米交渉は遂に成立するに至らず、帝国は米英蘭に対し開戦す」として対英米蘭開戦が正式に決定されます。昭和天皇は一言も発言されませんでした。

会議の席で、「『ハル・ノート』の中国に満州が含まれているのかどうか」について、またしても原枢密院議長から東郷外相に問いかけがあります。外相は「これまでは含まれていなかったが、重慶政府を唯一の政府としていることからすると、前言を否定しているかもしれない」と意味不明なことを答えます。

「満州国の承認」あるいは「満州国に所在する関東軍の撤去は含まれない」ことが担保できれば、まだ交渉の余地があっただけに、これほど重要な問題に米国側に質問した形跡がなく、日本が勝手に解釈して開戦に踏み切ったというのは驚くばかりです。

戦後、元大本営参謀の瀬島龍三氏は、その著『大東亜戦争の実相』の中で、「ハル・ノートは対日強硬派のモーゲンソー財務長官の特別補佐官ハリー・デキスター・ホワイトによって起草された。その原案では「支那(満州を含む)となっている。発出にあたりその括弧内が削除されたのは、満州を含まない意向とも取れるし、含まれるのは自明の理であるから削除したともとれる」と説明していますので、これが当時の陸軍の認識だったと考えます。

▼「ハル・ノート」をめぐる疑惑

「ハル・ノート」に込められたミステリーを解明するのは私の知見を超えますので専門家にまかせたいと考えますが、概要のみ少し補足しておきましょう。

まず確かに、不成立に終わった「日米諒解案」の時点では確かに「満州国の承認」は盛られていました。それがなぜ、最終的に「ハル・ノート」のような表現になったのかは不思議です。実はここにこそ「何としても日米和平案をつぶし、日米開戦に追い込め!」とする“ソ連の意図”が働いたというのです。

すでに紹介しましたように、冷戦終焉後の1995年、アメリカ国家安全保安局が「ヴェノナ文書」の公開に踏み切り、これによって、第2次世界大戦前後、アメリカ国内におけるソ連の工作員達の活動の詳細が明らかになり、それまでの近現代史の歴史観を根底から揺るがす事態となりました。

瀬島氏がその事実を知っていたかどうかは不明ですが、前述の財務長官の特別補佐官ハリー・ホワイトは、「ヴェノナ文書」によるとソ連情報部の協力者であり、このホワイトが工作した作戦は、その名に由来して「雪(SNOW)作戦」と命名されていたことまで明らかになっています。

1997年、「ヴェノナ文書」にも名前が出てくる元ソ連軍NKDV(後のKGB)のビタリー・グリゴリエッチ・パブロフは、NHKの特別番組の取材に応じ、「ソ連が『ハル・ノート』の母体となったホワイト文書の作成に関与していた」ことを明らかにしております(細部は、『ハル・ノートを書いた男』(須藤眞志著)参照)。

2017年には、「ヴェノナ文書」に基づく「雪作戦」の細部やゾルゲや尾崎秀実などによる日本国内の「南進論」への誘導などについても明確になっています(『日本は誰と戦ったのか』(江崎道朗著))。

これらによると、ホワイトハウスのラフリン・カリー大統領補佐官や蒋介石顧問のオーウイン・ラティモアまでソ連の工作員だったことが明らかになっており、(中国が強硬に反対した)「暫定協定案」放棄につながる公電や強硬な「ハル・ノート」の作成にまで関与していることが明白になっています。

それ以外にも、ルーズベルト側近として「ヤルタ会談」を取り仕切ったアルジャー・ヒスもソ連の工作員だったことが判明しています。このように、ホワイトハウスは当時、ソ連の工作員や協力者に乗っ取られていたのでした。長くなりました。(以下次号)

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