千葉和彦選手(サンフレッチェ広島F.C)に落ち度はない
新年あけましておめでとうございます。
2016年も残りわずかとなった12月20日。日本アンチ・ドーピング規律パネル(以下「規律パネル」といいます。)は、私が担当していた事件の当事者である千葉和彦選手(サンフレッチェ広島F.C)をけん責処分とする決定をしました。
この決定は、処分であり、制裁を科すものです。しかし、私は、規律パネルが、千葉選手には落ち度がなかったと判断したと理解しています。2年間の資格停止が原則とされている「特定物質」(定義は後で解説します。)に対するドーピング違反に対する審理で、規律パネルが、「けん責」の決定をしたことは、同時に、千葉選手には、資格停止を科すべき落ち度がないことを示した内容なのです。この決定により、千葉選手に対する2016年10月21日からの暫定的資格停止の処分も自動的に失効しました。
私にとっては、うれしい年末のプレゼントでした。
規律パネルは、これから書面により理由を公開するという段階ですが、審理の過程に照らして理由の内容は推測できますので、早期に、この決定の意義を明らかにしておくべきであると考えました(注:2017年1月6日、1月14日追加)。
(注)1月6日規律パネルは、理由を含めた全文の決定を発表し、1月13日には、JADAホームページでこの決定を公開しました。これで、私の解説の基礎となる決定原文を読者の方々が確認できるようになりました。私は、本文書を決定書(理由書)受領前に作成しておりますが、決定理由は推測していたとおりで、本文の結論及び理由について変更する部分はありません。決定理由を受け取っての私の思いと考えは、本文書の末尾に追記しました。規律パネル決定書は、JADA規程14.3.4に基づき1か月間JADAホームページに掲載されます(その後は削除されます)。
初日の出を見ながらこの報告を書き出して、先ほど脱稿できました。本当の仕事始めです(^0^)。
急いで解説をしなければならないと思ったのは、千葉選手の名誉の回復の目的です。千葉選手は意図的なドーピングをしていないだけでなく、選手として可能な注意を尽くしていたという点で、落ち度を見いだせないのです。事情を知らないと、「けん責にしろ処分を受けたのだろう」「千葉選手もガードが甘かったのだ」と受け止める人がいてもおかしくありません。ここは、正確に事実関係を理解してもらう必要がある、千葉選手の名誉を回復しないといけないという思いです。
正確に理解してもらうためには、長文とならざるを得ませんが、しばしお時間をお貸しください。
私が千葉選手に降りかかった災難を知ったのは2016年10月27日の新聞報道です。当時各紙で報道されました。報道の要点は、
(1) 2016年9月25日の明治安田生命J1リーグ2ndステージ第13節サンフレッチェ対レッズ戦後のドーピング検査で、千葉選手から採取された尿検体から「メチルヘキサンアミン」が検出された、
(2) JADAは千葉選手に対し、10月21日、違反が疑われる分析報告及び違反が行われた旨の主張に関する通知並びに暫定的資格停止に関する通知をした、 というものでした。
日本アンチ・ドービング規程(2016年)では、世界アンチ・ドーピング機構が定める禁止物質の中の「特定物質」(定義は後で解説します。)が検出された場合には、最初の違反であっても(千葉選手はこれまで違反行為はありませんでしたので、今回が最初となります)、原則2年間・最大4年間の資格停止です。
私自身は、
(1) 日本におけるWADA認証検査機関(LSIメディエンス)とJADAの検査手続に対しては高い信頼性があると信じていますので、陽性反応が出ている以上何らかの方法で、尿検体にメチルヘキサンアミンが入っていたのは事実だろう、
(2) 検出された物質が興奮剤の一つであるメチルヘキサンアミンであることに照らして意図的な摂取ではないだろう(この理由は後に述べます。)、
(3) スポーツ選手が選手として活動できる期間は一般的な仕事の就労可能期間ほどには長くないことと千葉選手がプロスポーツ選手であることを考えると、千葉選手には年単位での資格停止というような重大な不利益を受けなければいけないほどの落ち度があったのだろうか、
と思いながら、報道を読んでいました。
それから数日後、思いがけず、私は、同僚の大橋卓生弁護士と共に、千葉選手の権利を守る手続にかかわることになりました。ドーピング違反に対する制裁処分は、JADAから独立をしているJADA規律パネルで審理され決定されます(注)。規律パネルは選手を含めた関係者の聴聞手続を開催しますので、ここが代理人のたたかいの場となります。
(注)規律パネルは、日本アンチ・ドーピング機構の所管でしたが、2015年4月から、日本スポーツ振興センターに移管されました。規律パネルは、より中立性の高い手続きが求められるため、日本アンチ・ドーピング機構から分離され独立性を強化しています。
日本では、2010年にパワーリフティングの選手がサプリメントに含まれていたメチルヘキサンアミンによる陽性の結果で2年の資格停止になっている先例があります(当時と2016年とで制裁の内容と期間についてJADA規程が異なっています)。
全く身に覚えがないという千葉選手。チームスタッフも千葉選手がドーピングをするとは考えられないと一様に語ります。
尿検体にメチルヘキサンアミンが含まれていた事実を前提とするならば、千葉選手は、
① 「過誤又は過失がない」として「資格停止期間は取りされる」(日本アンチ・ドービング規程第10.4項)、
あるいは、
② 「重大な過誤又は過失がない」として「資格停止期間は、競技者又はその他の人の過誤の程度により、最短で資格停止期間を伴わない譴責とし、最長で2年間の資格停止期間とする」(規程第10.5.1項)、
という結果を得られなければ、パワーリフティングの選手の事案と同様に最低でも原則の2年間の資格停止処分を受けることになります。
「過誤又は過失がない」あるいは「重大な過誤又は過失がない」の立証に成功しない場合に千葉選手が受ける不利益の重大さを考えると、私自身もきびしい2か月間でした。
最初に、メチルヘキサンアミンがどんな物質かを紹介しましょう。独立行政法人国立健康・栄養研究所のホームページでは、「DMAA, ジメチルアミルアミン、 Dimethylamylamine, 1,3-Dimethylamylamine, Methylhexanamine, 4-methyl-2-hexanamine, Forthane」は、「メチルヘキサナミン、ジェラナミン、ホルサン、ホルタン等とも呼ばれる化学物質。」とされ、
「ゼラニウム植物油由来の”天然成分”と宣伝されている場合があるが、そのような事実は確認されていない。俗に『ダイエットによい』『運動能力向上によい』『筋肉増強によい』等と言われているが、ヒトでの有効性については十分な情報が見当たらない。当初、鼻充血抑制薬として開発されたが、ダイエットや筋肉増強等を目的としたサプリメントとしての利用において、心臓血管系の重大な有害事象が発生した。そのため、海外ではサプリメントや食品への使用禁止並びに注意喚起情報が出されている。日本においても、厚生労働省が情報提供の事務連絡を出している。」
と説明されています。
2012年6月28日付厚生労働省医薬品食品局食品安全部基準審査課「ジメチルアミルアミン(DMAA)を含むいわゆる健康食品の取り扱いについて」との事務連絡では、
「今般、ジメチルアミルアミン(DMAA)を含むいわゆる健康食品について、豪州で当該物質を検出した製品の回取を求めている旨、また、米国で安全性に関する根拠が示されていないとして警告が行われている旨の情報を入手しました。当該物質は、高血圧、心臓発作、嘔吐等を誘発する可能性があるとされ、因果関係は確立されていないものの、豪州で2件、米国で42件の健康被害(心疾患、神経系疾患、精神系疾患及び死亡)が報告されています。現在、当該物質を含む製品は健康食品として取り扱われていますが、豪州等において食品として取り扱うことが適切か否か検討されており、その動向も見つつ判断する必要があります。」
と健康への悪影響の可能性が警告され、「心臓血管系に重大な有害事象を起こす懸念があるため、経口摂取はおそらく危険である。」と評価されています。一方、有効性は確認されていないため、現在では医薬品の原材料とはされていません。
このような物質ですから、意図的な摂取、すなわち、興奮剤を意図的に使用する場合であっても、あえてメチルヘキサンアミンを選択すること自体が考えにくいのです。実際、過去のメチルヘキサンアミン陽性事案のほとんどがサプリメントにメチルヘキサンアミンが混入していたことを知らずに摂取したという事案です。
次に、サッカー選手の場合には、そもそも興奮剤を使用して選手としてのパフォーマンスが向上するのかという問題です。
メチルヘキサンアミンは興奮効果があるとされています。興奮剤が禁止物質とされている理由は一般的に、一時的な集中力の向上、痛み・恐怖の緩和等の効用があり、これらの効果を得る目的で使用するとされています。
しかし、サッカーは、パフォーマンスを持続的に維持して、延長戦がなくても90分間という長時間走り続け、その走行距離は9~10kmにもなるという競技です。競技の特性上、メチルヘキサンアミンが、客観的にサッカー選手のパフォーマンスを高めるという効果があるとは考えにくいのです。
2015年のWADA規程の変更に伴い、JADA規程も変更され、ドーピング違反とされる物質は、その性格により、「特定物質」と「非特定物質」とに分けられ、メチルヘキサンアミンは制裁が軽い「特定物質」に分類されています。
分かり易さを優先して説明すれば、「特定物質」とは意図的に摂取することは稀であり、意図せず、うっかり摂取することが多い物質です(注)。メチルヘキサンアミンはこの「特定物質」です。
(注)JADA規程では、特定物質は、「その他のドーピング物質と比べ重要性が低い、又は危険性が低いと判断されるべきではない。むしろ、これらの物質は、単に、競技力向上以外の目的のために競技者により摂取される可能性が高いというに過ぎない。」と解説されています(規程第4.2.2項の解説)。
「特定物質」については、JADAが、当該アンチ・ドーピング規程違反が意図的であった旨立証できた場合(JADAの立証責任)以外は、競技者が意図的に摂取したとはされず、原則2年の資格停止となります(規程第10.2.1.2項)。「非特定物質」が、JADAは意図的な摂取との立証責任を負わず、資格停止期間が原則4年となるのと異なるところです。
私たちが、千葉選手の代理人に就任した段階では、
(1) 千葉選手が尿検体にメチルヘキサンアミンが存在した事実を争うのか、
(2) JADAが「競技者が意図的に摂取した」との主張立証をするか否か、
はいずれも明らかになっていませんでした。
代理人の予想としては、
(1) JADAの検体採取後の管理・移送の厳格性及び検査機関(LSIメディエンス)の信頼性が高いことに照らして、千葉選手が尿検体にメチルヘキサンアミンが存在した事実は争わないであろう、
(2) メチルヘキサンアミンの性格上、JADAが「(千葉選手が)意図的に摂取した」との主張はしないだろう、
と予想していました。その後、前2点の予想は、誤っていなかったことが明らかになりました。
争点は、千葉選手の尿検体にメチルヘキサンアミンが存在したことを前提として、これについて、千葉選手に「過誤又は過失がない」あるいは「重大な過誤又は過失がない」の立証に成功するか否かに絞られます。
「過誤又は過失がない」あるいは「重大な過誤又は過失がない」の意味は、日本語としての一般的な理解ではなく、JADA規程で明確に次のとおり定められています(規程、附属文書1 定義)。
「過誤又は過失がないこと」
競技者又はその他の人が禁止物質若しくは禁止方法の使用若しくは投与を受けたこと、又はその他のアンチ・ドーピング規程に違反したことについて、自己が知らず又は推測もせず、かつ最高度の注意をもってしても合理的には知り得ず、推測もできなかったであろう旨を当該競技者が証明した場合をいう。18歳未満の者の場合を除き、第2.1項の違反につき、競技者は禁止物質がどのように自らの体内に入ったかについても証明しなければならない。
「重大な過誤又は過失がない」
競技者又はその他の人が、事情を総合的に勘案し、過誤又は過失がないことの基準を考慮するにあたり、アンチ・ドーピング規程違反との関連において、当該競技者又はその他の人の過誤又は過失が重大なものではなかった旨を証明した場合をいう。18歳未満の者の場合を除き、第2.1項の違反につき、競技者は禁止物質がどのように自らの体内に入ったかについても証明しなければならない。
「過誤又は過失がない」あるいは「重大な過誤又は過失がない」というためには、いずれも、競技者が「禁止物質がどのように自らの体内に入ったかについて」証明することが必要です。
私たちが受任した段階では、千葉選手の尿検体にメチルヘキサンアミンが存在した原因は明らかになっていませんでした。
一般に、ドーピング検査において陽性反応が出た場合には、意図的な摂取以外で禁止物質が体内に入った経路として、最初に、治療薬あるいはサプリメント等を疑います。過去の事例においても、製造者が、信頼性が十分でない海外の会社であり、その成分についても禁止物質が含まれているか否かの確認が困難なサプリメントを、インターネット経由等で、個人で購入して摂取したことが陽性反応の原因となったケースは少なくありません。
これまでメチルヘキサンアミンが問題となったケースの多くは、サプリメントにメチルヘキサンアミンが混入していた事案でしたから、最初に検討対象に上がるのは、千葉選手が摂取していたサプリメントです。
千葉選手個人もサンフレッチェ広島F.Cも共に、アンチ・ドーピングに関して十分な知識を有しており、対策を講じていました。千葉選手は、チームが推奨するサプリメント(以下「チーム推奨サプリメント」といいます。)以外には摂取しておらず、しかも、このサプリメントに対する疑いは基本的に解消していました。
チーム推奨サプリメントを信頼した理由は次のような事情がありました。
第1が、製造元メーカーに対する信頼があったことです。これまで禁止物質に汚染(注)されたサプリメントが禁止物質が体内に入った原因となった事例の多くは、必ずしも信用性が高くないメーカーにより製造されたサプリメントです。
(注)「汚染製品」とは、製品ラベル及び合理的なインターネット上の検索により入手可能な情報において開示されていない禁止物質を含む製品をいう(規程、附属文書1 定義)。
チーム推奨サプリメントのメーカーは、「FDA(米国食品医薬品局)にライセンスされ、政府機関への納入権利を持つ、全米最大の天然ビタミン製造メーカーです。」と紹介されていました。
それだけでなく、このメーカーは、実際にFDAの認可を受けていました。
第2は、チーム推奨サプリメントの表示です。
成分表示に禁止物質は含まれていません。さらに、パッケージには、「この製品はドーピング規定に違反する成分は一切使用していません」との明示的な表示さえありました。
「この製品はドーピング規定に違反する成分は一切使用していません」との明示的な表示があるサプリメントは多くはありません。社会的な信用ある会社が、「この製品はドーピング規定に違反する成分は一切使用していません」との明示的な表示をする以上、メーカー側で禁止物質が含まれているか否かの検査を実施した上で、禁止物質が含まれていることを確認していると思わせる表示です。
第3は、上記2点に加えて、
(1) チームが輸入販売業者を通じてメーカーに対して、再三、チーム推奨サプリメントに禁止物質が含まれていないこと及び禁止物質に汚染されていないことを問合せ、メーカーから禁止物質は含まれていないし、汚染もされていないとの回答を得ていた事実、
(2) チームは選手に対し、(1)の確認手続を経た上で、禁止物質が含まれていないサプリメントとして使用を推奨していた事実です。
ちなみに、千葉選手の尿検体にメチルヘキサンアミンが存在したことがわかった後にも、チームはメーカーに対して複数回同じ確認をしましたが、メーカーは毅然として、サプリメントへのメチルヘキサンアミンの混入は否定しておりました。
千葉選手は、アンチ・ドーピングについて十分な知識を有していたため、サプリメントに関しては、このようにチームが安全を確認したサプリメントだけを使用していました。 ドーピング検査を受ける際には、尿検体採取前1週間の間に使用した医薬品及びサプリメントを申告する手続となっています。千葉選手は、チーム推奨サプリメントに禁止物質が含まれているなどと考えておりませんので、チーム推奨サプリメントを使用していることを申告しています。
第4は、1993年以降、サンフレッチェ広島F.Cは、チーム推奨サプリメントを選手に推奨しており、チーム推奨サプリメントを使用していた選手は、千葉選手以外にもドーピング検査を受けております。しかし、ドーピング検査でメチルヘキサンアミン陽性の結果は一度もありません。
メチルヘキサンアミンは2016年に初めて禁止物質となったものではありません。かねてから禁止物質であったにもかかわらず(注)、チーム推奨サプリメントを使用した選手からはこれまで一度も陽性反応が出ていませんでした。
(注)世界アンチ・ドーピング機構が定める禁止表には、2010年からメチルヘキサンアミンが記載されていますが、それ以前からも禁止物質とされています。2009年以前は、「すべての興奮薬(関連した物質のD体及びL体光学異性体も含めて)は禁止される。」(2009年禁止表)とされている興奮薬に該当しています。2009年まで具体的な成分名がWADA禁止表に掲載されず、2010年から掲載された事情は、メチルヘキサンアミンが医薬品としては使用されていないことから具体的な名称を掲げる必要性が少なかったが、2000年後半に特定のサプリメントにメチルヘキサンアミンが含まれていたために陽性反応となるケースが続発したためであり、新たに禁止物質として追加されたものではありません。
この4点の理由は、説明を受けた私にとっても十分に説得的でした。とりわけ、4点目の理由は、チーム推奨サプリメントを使用していた選手のドーピング検査を通じて、日本で唯一のWADA認証検査機関であるLSIメディエンスによって、チーム推奨サプリメントに禁止物質が含まれていなかったとの検査結果を得ていたことと同一であるからです。
サンフレッチェ広島F.Cのチームドクターの寛田司医師は、私が担当した我那覇選手(当時川崎フロンターレ所属)がカゼで脱水症状となった時に、医師から点滴による補液治療を受けたことをドーピング違反として6試合出場停止としたJリーグの制裁の取り消しを求めたCAS事件の際に、Jリーグチームドクターの総意としてこの制裁が誤っているとの意見を述べてくれた頼もしい医師です。寛田医師も私たちと同じく、チーム推奨サプリメント以外が原因となって、尿検体にメチルヘキサンアミンが存在したという意見でした。
私たちが受任するまでの千葉選手と寛田医師との作業で、「怪しい」とされたのが千葉選手が使用していたボディーローション等でした。
メチルヘキサンアミンは、一般にゼラニウム植物に含まれていると言われています。2015年には、市販されているお茶の一つが、原料として使用しているハーブの中に「ゼラニウム」があったことから、このお茶を飲むとドーピング違反になるのではないかという問題が生じたこともありました。このお茶に関しては、メーカーが「本商品及びゼラニウム由来香料を分析し、いずれもメチルヘキサンアミンは検出されないことを確認しております(検出限界10ppb=0.000001%)。」との公式コメントを発表して、騒ぎが治まったという経過もありました。
ゼラニウムを原材料とする化粧品や食品は稀有ではありません。ゼラニウムにメチルヘキサンアミンが含まれているかという点に関しては、国立健康・栄養研究所が、「ゼラニウム植物油由来の”天然成分”と宣伝されている場合があるが、そのような事実は確認されていない。」と指摘するとおり疑問がありましたが、化粧品等では、逆に「天然植物由来の成分」としてメチルヘキサンアミンを使用しているケースが想定されました。
そこで、サンフレッチェ広島F.Cの選手の中で、千葉選手だけが使用しているボディーローション等を検討したのです。
使用しているボディーローションの成分が尿検体にでるという経路は、経皮的にボディーローションの成分が吸収され体内に入る、あるいは、皮膚についていたボディーローション成分が尿検体採取時に尿検体に混入するという2つが考えられました。
前者の経皮的な吸収の問題は、これまでのメチルヘキサンアミン陽性となった事案でも争点となっていました。今回の件で特徴的だったのは、千葉選手の検体採取手続が、私たちがJADAから従前説明されていた方法とは異なっていた点です。
尿検体の検体採取手順は、選手への検査通告があってから尿検体を検尿カップに入れて蓋をするまでの間は、検査通告後最初の尿であること確保し、かつ、尿検体に異物が混入することを防ぐために、選手には様々な制約があります。選手には、検体採取前にシャワーを浴びることは原則として許されていません。もちろん、体にボディーローションを含むあらゆる物質を塗布することも同様に許されません。検体採取前に手を洗う場合でも石けんを使用しない、尿以外の物質の混入を避けるために採尿カップの内側には触れてはならないという厳格な手続を取るとされています。
ところが千葉選手の検体採取では、選手への検査通告があってから尿検体を検尿カップに入れるまでの間に、
(1) シャンプーや石けんも使用してシャワーを浴び、
(2) その後ボディーローション等を塗布し、
(3) 採尿カップの内側に指を触れてしまったのですが、採尿カップを交換することなく検査を続行したというのです(注)。これには、私たちも驚きました。JADAの検査手続は、ホームページで動画で紹介されています。
(注)ドーピング・コントロールオフィサーは、千葉選手が採尿カップの内側に指を触れた事実は確認していないというのがJADAの調査結果であり、事実関係について当事者の主張は一致していません。
シャワーや飲食物の摂取については、世界アンチ・ドーピング規程の「検査及びドーピング捜査に関する国際基準( ISTI ) 」第5.4.1項及び附属規程で定められています。ここでは、不正の防止という視点での定め方ですが、ドーピング・コントロールオフィサーの研修などでは、シャワーは禁止、採尿カップの内側に指を触れてしまった場合には採尿カップを交換するという指導がなされています。
上記JADAによるドーピング・コントロールオフィサーに対する指導が厳守されていなかったことが適切かという点はともかく、不正の防止という視点での規程ですから、この指導を守っていないことを選手が有利に主張すること、この指導が守られていなかったことだけを理由として検査手続の違法無効を主張することはできませんが、異物の混入の可能性の主張の間接的な事実とはなります。←事実この主張はしました。
「検査及びドーピング捜査に関する国際基準( ISTI ) 」
第5.4.1項 a)~f)は略
g) 競技者が検体の提出に先立って食事又は飲料を摂取する場合には、当該競技者は自らの責任で摂取するべきこと;
h) 適切な検体が提出されるのが遅延するおそれがあるため、過度な水分補給を避けること;
並びに
i) 検体採取要員に競技者により提出された尿検体はすべて、通告の後に競技者から排尿された最初の尿であるべきこと、すなわち、シャワー中又はその他検体採取要員に対する検体の提出に先立って排尿してはならないこと。
「付属文書 D -尿検体の採取 (Collection of Urine Samples ) 」
D.4.7 DCO/シャペロンは、実行可能な場合には、競技者が検体の提出の前に両手を十分に洗浄するか、又は検体の提出の間適切な手袋(例えば、ゴム手袋)をはめることを確実にする。
このような検査手続であれば、ボディーローション等に含まれていたメチルヘキサンアミンが体内に経皮的に吸収されるか否かという以前に、皮膚に塗布されたボディーローションの中のメチルヘキサンアミンが、検体採取手続の中で尿検体に混入する可能性がありました。
ドーピング・コントロールにおいては、尿検体に禁止物質があること自体がドーピング違反となります(規程第2.1項)。これは、尿検体採取から検査を担当するWADA認証検査機関(日本ではLSIメディエンス)に持ち込まれるまでWADAが定める厳格な手続が遵守されるために、<尿検体に禁止物質が存在する>ことから<体内に禁止物質が存在する>ことが強く推認されるからです。
ところがこの検査手続の厳格性が揺らぐと、<尿検体に禁止物質が存在する>≠<体内に禁止物質が存在する>ことになるのです。
第1回聴聞会では、千葉選手は、
(1) 尿検体中にメチルヘキサンアミンが存在した事実は争わない、
(2) チーム推奨サプリメントを持参し、摂取していたサプリメントはこれのみであり、メチルヘキサンアミンの経口摂取につながるようなサプリメントは使用しておらず、尿検体に含まれていたメチルヘキサンアミンは、経口摂取したサプリメント等に含まれていたものではない、
(3) 尿検体に含まれていたメチルヘキサンアミンは、第1に、体内に存在していたものではなく、検体採取手続の過程で尿検体に混入したものであること、第2に、仮に体内に存在していたものであるとすると皮膚に塗布したボディーローション等に含まれていたメチルヘキサンアミンが経皮吸収されたものであること、
を主張し、以上の理由から、千葉選手には「過誤又は過失がない」あるいは「重大な過誤又は過失がない」に該当し、資格停止処分を科さない、処分が科されるとしても、けん責として資格停止は科されない、あるいは、資格停止期間は短縮される処分となると主張したのです。
そして、この主張を立証するために、千葉選手は、使用していたボディーローション等9点を聴聞会の場に持参し、JADAを通じてLSIメディエンスで、これらにメチルヘキサンアミンが含まれているか否かの成分分析を希望しました。JADAは、千葉選手の調査希望に協力をすることとなり、聴聞の続行期日が決まりました。
同時に、経皮的な吸収の有無についての文献を検索し、該当する文献としていくつかを入手しましたが、証拠としては十分な内容ではありませんでした。メチルヘキサンアミンは、前記のとおり、健康被害が予想されている物質であり、人体を対象とした正式な実験を行うことは倫理的にハードルが高く、規律パネルの審理に間に合う可能性はありません。寛田先生から詳細は聞いておりませんが、寛田先生自身が被験者となってこの点を立証するための実験を同時に進めていたということです。
千葉選手が使用していたボディーローション等9点のLSIメディエンスによる分析が行われました。2週間ほどの時間を要しましたが、検査結果は全てメチルヘキサンアミン陰性でした。
この報告を受けた時には、私は、正直「参ったなー」という気持でした。
そもそも、「競技者は禁止物質がどのように自らの体内に入ったかについても証明しなければならない。」という要件をクリアしないと、「過誤又は過失がない」あるいは「重大な過誤又は過失がない」に該当しないので、「処分をしない」あるいは「処分の軽減」という結論は得られません。
さらに、メチルヘキサンアミンが体内に入った経路が特定されないということは、千葉選手が本件での処分後に競技に復帰しても、どこでドーピング違反とされるかわからない「地雷原」を、「地雷」がどこにあるかがわからないまま歩かざるを得ないというひどい結果になってしまいます。
当初の、方針を見なおすしかありません。
しかし、追加で疑わしいものをいろいろ探したのですが、残ったのはマウスガード洗浄剤のみでした。そこで、マウスガード洗浄剤の検査をLSIメディエンスに依頼することとなり、再依頼するなら念のためにということでチーム推奨サプリメントも同時に検査依頼をしました。
この第2弾の検査依頼の検査結果でマウスガード洗浄剤は陰性。ところが、確認のために検査依頼したチーム推奨サプリメントからメチルヘキサンアミンが検出されたのです。
「よかった」というのが第一声。
でも、どうして?チーム推奨サプリメントにメチルヘキサンアミンが含まれていたなら、これまで同じサプリメントを使用していた選手はどうして陽性にならなかったのか?
理論的には、<これまで同じサプリメントを使用していた選手は陽性にならなかった>という事実の証明の射程距離は、「WADA認証検査機関による安全性の認証」テスト時点(過去にドーピング検査を受けた時点で使用していたサプリメントと同一ロットの商品の範囲)という時的な限界があります。
すなわち、過去の検査で陽性とならなかった事実は、
① 過去の検査時点の検出技術、
② 過去の検査時点のサプリメントに含まれる成分、
においては、陽性と判定されるレベルで禁止物質が含まれていないことが証明されているに過ぎません。その後の事情の変更により、同一商品が陽性と判定される可能性は否定されないのです。
過去において陽性反応がでなかったにもかかわらず、その後の検査で陽性反応が認められる場合としては、一般論としては以下のような要因が指摘されます。
第1に、従前の検査時点でも禁止物質が含まれていたが、検査技術の限界で、検出不可能な量でしかなかったが、その後の検査検査技術の進歩により、過去においては検出できなかった禁止物質が検出可能となったため、陽性反応となる可能性です。この点は、サプリメント摂取の量、サプリメントを摂取してから尿検体採取までの時間が異なることにより、メチルヘキサンアミンの尿中への排出量が変わるという要因も関係しています。
第2に、製品の原材料の変更あるいは製造方法の変更(製造ラインが異なる場合も含みます)等により、同一商品でありながら、過去は禁止物質による汚染はなかったが、現在では汚染されている可能性です。
しかし、一般的にはこのような可能性が高いとして、サプリメントを使用するたびに、当該サプリメントが製造されたのと同一ロットの商品に最新の検査技術での検査で禁止物質が含まれていないことを確認した上で使用する等ということは行われていません。本件においても同様です。このような時的限界のリスクは、日本アンチ・ドーピング機構認定商品であっても同じです。
本件ではこのような稀な可能性が、現実化したのです。その原因は、前記理由のいずれか、あるいは、それらが複合したということになります。ドーピング禁止物質という伏兵はどこにいるかわからないというのが本音です。
証明の時的限界まで考慮して、安全性が証明されていると言えるサプリメントはあるのでしょうか?この点を考慮すると、日本アンチ・ドーピング機構認定商品でさえも、証明の時的限界はあると思います。そう考えると、チーム推奨サプリメントを摂取していたサンフレッチェ広島F.Cの選手のみならず、現在サプリメントを使用している全アスリートが千葉選手と同様にこれまでにいつ陽性反応がででも不思議ではないリスクを抱えていた、これからも抱えているということになります。
このような経過ですから、私たちでさえ信用したチーム推奨サプリメントを、千葉選手が摂取したことを非難することは、無理を強いることにほかなりません。
この第2弾の検査依頼の検査結果でチーム推奨サプリメントからメチルヘキサンアミンが検出されたことの第一声は、「よかった」=うれしいでしたが、第二声は、「これで無過失は消えた」=がっかりでした。
JADA規程は、「『過誤又は過失がないこと』は、次の場合には適用されない。」として、
「(a) ビタミンや栄養補助食品の誤った表記や汚染が原因となって検査結果が陽性になった場合(競技者は自らが摂取する物に関して責任を負う(第2.1.1項)とともに、サプリメントの汚染の可能性に関しては競技者に対して既に注意喚起がなされている。)。」(規程第10.4項の解説)
とされています。
この規程は、チーム推奨サプリメントが汚染されていたことが、千葉選手の体内にメチルヘキサンアミンが入った原因である場合には、千葉選手がどんなにドーピング違反にならないように注意を払っていたことを立証しても、結果責任として「過誤又は過失」が肯定されることを明らかにしています。すなわち、「過誤又は過失がない」ことは認められないのです。
続行のJADA規律パネル聴聞会では、千葉選手は従前の主張を撤回し、チーム推奨サプリメントにメチルヘキサンアミンが混入していたことが、千葉選手の尿検体からメチルヘキサンアミンが検出された原因であり、千葉選手には過誤又は過失がない、あるいは、重大な過誤又は過失がないと主張し、JADAもこの点に関する千葉選手の主張立証に対する積極的な反証はしませんでした。
JADA規律パネルの結論及び結論から推測される判断理由は、
(1) チーム推奨サプリメントにメチルヘキサンアミンが混入していたため、このサプリメントを摂取した千葉選手の尿検体からメチルヘキサンアミンが検出された(千葉選手は体内へのメチルヘキサンアミンの侵入経路の立証に成功)、
(2) (1)は「ビタミンや栄養補助食品の誤った表記や汚染が原因となって検査結果が陽性になった場合」であるから、千葉選手がどんなにドーピング違反にならないように注意を払っていても結果責任として「過誤又は過失」が認められる(不満ではあるが、JADA規程第10.4.1項の規程上やむをえない判断)、
(3) 千葉選手の「過誤又は過失」の程度は、「重大な過誤又は過失がない」に該当する(千葉選手の立証が成功)、
(4) (3)の場合には、「最短で資格停止期間を伴わない譴責とし、最長で2 年間の資格停止期間」の制裁となる(JADA規程のとおり)、
(5) 規律パネルは、千葉選手の過誤の内容に照らして、最短である「資格停止期間を伴わない譴責」の制裁を科し、規律パネル決定と同時に千葉選手に対する2016年10月21日からの暫定的資格停止の処分も自動的に失効する(注)。
(注) 「「暫定的資格停止」とは、第8 条の規定にしたがって開催される聴聞会において終局的な判断が下されるまで、競技者又はその他の人による競技会への参加又は活動が暫定的に禁止されることをいう。」(規程附属文書1 定義)
との結論となったものです(千葉選手の主張・立証が成功)。
さて、ここまでが本件の顛末であり、
○ 千葉選手がどんなに注意を払っていたのか、
○ 千葉選手がけん責処分を受けたのは、サプリメントの汚染の場合には、「過誤又は過失がないこと」の主張・立証を許さないというJADA規程のためであり、千葉選手に落ち度があったことを示すものではない、 ことを御理解いただけたと思います。
せっかくここまで説明をしてきましたので、今後のアンチ・ドーピング活動の上で本事案が示す二つの重要な問題を指摘しておきます。
第1の問題点は、チームと選手は何をしたら良いの?という点です。
私の目から見ても、サンフレッチェ広島F.Cのアンチ・ドーピング活動は、日本の競技団体あるいはスポーツ団体に比較しても十分評価できると考えていますが、結果として本件のような事案になっています。WADA規程の側で対応してくれるまでは、現状のドーピング・コントロールを前提としてできることを考える必要があります。
この事件を前提とする限り、完璧にドーピング違反とならない方法としては、
○ サプリメントは一切摂取しないという選択、
○ 最新の禁止リストに照らして禁止物質が含まれていないことが確認された商品と原材料や製造工程が同一で、汚染の可能性のない商品(検査による証明の時的限界を超えない範囲で製造された商品)に限定するという選択、
のいずれかしかありません。
次善の方法としては、使用するサプリメントは、日本アンチ・ドーピング機構認定商品のサプリメントに限定するという方法になります。これが次善となるのは、検査による証明の時的限界を超えない範囲で製造された商品としての保証が十分でない可能性があるからです。しかし、チームや選手個人が同じ検査をした場合で、検査による証明の時的限界を超えたために汚染があった場合に比べれば、ドーピング違反として制裁する機関であるJADA自身が安全と保証している商品という点で、これを使用してドーピング違反として制裁を科すのは禁反言の原則の主張が可能という点で差異があります。
「ここまでやるの」という声が聞こえそうですが、弁護士としての立場で、「安心なのは?」と聞かれるとこの範囲でしか回答できません。
このような窮屈な制度としないための対策はいくつか考えられますが、例示すると次のとおりです。
一つは、チームや競技者が安心して摂取可能なサプリメントの認証システムをJADAの関与下で設けることです。JADAの関与ある認証システムがポイントで、認証システムの限界から生じる陽性反応は、競技者側に不利益な扱いとしないことにするためには、JADAの関与が欠かせません。⇒日本アンチ・ドーピング機構認定商品とはどう違うの?という意見があろうかと思います。日本アンチ・ドーピング機構認定商品と同一の結果を狙っているという点では違いがありません。しかし、日本アンチ・ドーピング機構認定商品が4メーカーに限定され、その後新規認定メーカーがでていないことに疑問を感じていませんか?事実上の新規参入障壁があるのが難点で、これをクリアしたいという提案です。
もう一つは、禁止物質を現在の「特定物質」と「非特定物質」とに分けてコントロールしている現在の類型化を細分化する方法です。これは、松本泰介弁護士から教えられたアイデアですが、競技力の向上を目的とする禁止物質の使用をコントロール使用という目的ならば制裁の可否及び制裁の重さを細分化可能という発想です。
例えば、β遮断剤は、落ち着かせる効用ですから射撃、アーチェリー等の特定の競技の競技会検査のみでの禁止物質とされています。これを拡張させると、一定の競技においては競技力の向上があるとして禁止物質となるが、他の競技では競技力の向上としては効用がゼロとは言えないものの、この効用を狙った意図的ドーピングが考えにくい競技について、意図的ドーピングが考えられる競技とは異なる取り扱いをするという方法です。具体的には、
○ 全競技において「特定物質」とされる禁止物質、
に加えて、
○ 一定の競技においてのみ「特定物質」とされる禁止物質という新たな分類をつくるという方法です。以下では、説明の便宜上「特定物質(特定競技)」と仮に呼びます。
特定物質(特定競技)の効果としては、
○ 特定の競技においては「特定物質」となるが、
○ この競技以外の他の競技では、意図的使用でないことの立証がなされればドーピング違反としないという扱いです。
このような方法は、本件のようにサッカー選手が競技力の向上を意図して興奮剤を使用することが考えにくい場合の汚染サプリメントなどによる陽性反応から選手を救済する方法が残ります。本件と同じような事案を想定すると、選手側が意図的使用でないことを立証すれば制裁を科されないという結論を導くことが可能です。しかも、この方法では、特定物質(特定競技)を意図して使用するであろう競技における、同物質を使用するドーピング違反を逃すことも防げると思います。
第2の問題点は、ボディーローション等の経皮的吸収が考えられる商品の使用に伴い、ドーピング違反とされる危険性についての研究と啓発です。
医薬品の経皮的な吸収によるドーピング検査陽性事案は、私も承知しているところです。ラグビーの山中選手事案は、競技力の向上目的とは思えないのですが、ヒゲを蓄える目的で男性ホルモン(禁止物質)を含む塗り薬を使用してしまい、経皮的に禁止物質が体内に吸収され、尿検体が陽性反応を示したことから、2年間(現在の規程でしたら4年間になります)の制裁を受けている気の毒な事案です。
千葉選手の場合には、当初、ボディーローションに禁止物質が含まれていて、これが経皮吸収したことが疑われました。
医薬品以外のボディーローション等からの禁止物質の経皮的吸収の問題は、私としてはこれまで考えたことがなかったのですが、本事件で過去の事例を検索したところ、これまでも様々な国・競技で問題になっていることがわかりました。
過去の事例では、いずれも経皮的吸収により体内に入った場合に尿中に排出されると考えられる禁止物質の量に比較して、現実のドーピング検査により尿中に確認された禁止物質の量が多量であるために、塗布された禁止物質が経皮的吸収がされて陽性反応となったという因果関係は否定されていますが、経皮的吸収自体が否定されているものではありません。
これまで、ボディーローション等からの経皮的吸収の問題は重要視されていなかったのですが、本件を契機に、ボディーローション等に含まれる禁止物質の経皮的な吸収、あるいは、ボディーローション等を顔に塗布する場合には、口唇に触れることで経口摂取と同様の結果になる可能性に対する対策を講じることが重要であることが判明しました。
どうするか?まずは、化粧品等の皮膚に塗布することが想定されている商品の成分が経皮的に吸収される可能性、あるいは、顔等に塗布した際に口唇に触れることで体内に入る可能性について研究をし、可能性がある場合には、警告を発する等必要な啓発をすることです。
さらに、チームや選手の段階では、禁止物質に精通をしているスポーツファーマシストにより使用しているボディーローション等に禁止物質が含まれていないことを確認することは直ちに行うべきです。
アンチ・ドーピング活動の目的の一つは、競技の公正性を担保することでアスリートを守るという目的です。
そのために、不正を働いて、ズルをしようという選手を見逃さないということにより、真面目に闘っている選手を守る必要があります。このためには、競技者に厳格責任を負わせて、意図していなかったという口実でドーピング違反をすり抜けようとする逃げ道を断つことは必要です。
しかし、一方で、真面目に戦っている選手、不正をしていない選手が、不意打ちでドーピング違反とされることがないような取り組みをすることで、真面目に闘っている選手を守るという視点も忘れてはなりません。
規律パネルの聴聞会やJSAA審問の場で、私が選手代理人として、JADAスタッフの方々とは違うテーブルに座っているのは、アンチ・ドーピングをめざすという目的が違うからではありません。JADA側は「逃げ道」をつくらせないという側から、選手側の私は不正をしていない選手が不意打ちでドーピング違反とされることを防止するという側から、それぞれアンチ・ドーピング活動の上記2つの柱の両立を目指しているというだけの違いです。
アンチ・ドーピング活動の2つの柱の両立を目指すという共通の目的のために、アンチ・ドーピング活動にかかわる人々全てが力を合わせて、議論を尽くし、よりよいアンチ・ドーピング活動としたいと思っております。
これを今年の課題の一つとして行きたいと思っています。
【1月14日規律パネル決定(全文)を受けとっての追記】
規律パネル決定は、
「本件FCの一連の行為(決定書のその前の部分で判示されている部分であり、要約すると、①チームが本件サプリメントの推奨に先立って、製造業者への問い合わせやチームドクターによる確認等の措置を講じ、②チーム所属選手らに対し、サプリメントを摂取する場合には、本件FCが推奨したものを服用するよう要請し、③本件サプリメントについても本件FCが各選手らに代わって一括購入の手続を行った)は、あくまでも本件の競技者をはじめとするチーム所属選手をドーピング規則違反から守るために企図され実施されてきたものであると認められるところ、かかる本件FCの(チームドクターも含めた)積極的な関与を踏まえてもなお、サプリメントの取得はチーム所属選手の自己責任であると突き放すには、厳格責任を謳う本規程の趣旨を踏まえてもなお躊躇を覚えるところである。」
と判断し、
「以上の点も勘案すると、上記のとおり、競技者には過誤又は過失がないと認めることはできないものの、重大な過誤又は過失はなかったと認めることができる。」
と結論を述べています。
この決定理由は、千葉選手に落ち度がなかったとの私の指摘と共通する内容であり、かつ、ドーピング・コントロールにおける厳格責任による処分の正当性の限界についての優れた洞察であり、今後のドーピング・コントロールにおいて、活かされるべき普遍性をもっていると思っています。
2015年からは、非特定物質に関する違反は原則2年の資格停止処分が4年に拡張されています。
刑法では、故意犯と過失犯を明確に分けています。故意で他人を死亡させた場合には死刑や無期懲役刑もありますが、過失の場合には有期懲役が最高刑です。
スポーツの世界では、トップアスリートとして活動できる期間が、生涯の特定の期間であることを考えると、4年間の資格停止は、選手生命を絶つ処分となりえます。
意図的な、しかも国家ぐるみでのドーピング違反が存在している以上、意図的なドーピング違反に対して、厳罰をもって望むために、選手に厳格責任を負わせる理由は理解できます。
しかし、あくまでも、不正を働いて、ズルをしようという選手を見逃さないということにより、真面目に闘っている選手を守る必要があり、そのために意図していなかったという口実でドーピング違反をすり抜けようとする逃げ道を断つ目的に必要な範囲で、「故意」=意図的使用が立証できなくても、競技者に「故意」と同等の責任を負わすことが、厳格責任の正当化理由であり、「過失」によるドーピング違反の可罰性が「故意」=意図的なドーピング違反の可罰性と同一であるとの理由ではないはずです。
とりわけ、現状の「重大な過誤・過失」の先例(その多くは、2015年のJADA規程改定前の事案で、争いは2年を短縮するか否かが争点)をもって、機械的に、2015年以降の「原則4年の資格停止」のJADA規程解釈に適用させることは再考がいるのではないでしょうか。
アンチ・ドーピングにかかわる人々皆で考えていきたいと思います。
【この文書は2017年1月2日に公開していますが、その後の1月13日、規律パネルの決定がホームページ上で公開されました。これに伴い内容の一部を更新しております。2017年1月14日追記。】