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「我が国の歴史を振り返る」(41) 「支那事変」の拡大

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▼はじめに

 米国において白人警察官が黒人男性を殺害するという、これまで何度もあったような些細な事件が、新型コロナの惨事、特に黒人の死者が白人の2倍強であるとか失業者が多いことなどに対する不安や不満が重なり、「人種差別問題」として米国内各地で一部は暴徒化しつつデモが発生しました。

そして最近は、黒人のみならず白人やヒスパニックなど多様な人種が参加する「格差に対する抗議デモ」に拡大し、またこの動きが世界に拡散するなど、長期化の様相を示してきました。

本シリーズでも取り上げましたように、第1次世界大戦後のパリ講和会議において、我が国が“捨て身”の「人種的差別撤廃」を提案し、多数決を獲得したにもかかわらず、「人種的差別撤廃法案は内政干渉であり、本法案が採決された場合は、米国は国際連盟に参加しない」との米国上院決議がウィルソン大統領を窮地に追い込み、その結果、「全会一致」の原則を主張して、本法案は廃案になりました。

しかし当時、日本の提案に期待していた米国の黒人達が全米各地で暴動を起こし、100人以上が死亡、数万人が負傷しました。まさに“歴史は繰り返している”のです。

パリ講和会議から約30年の歳月と多大な犠牲を払った戦後の1948(昭和23)年、 “我が国の主張”が認めらたような格好で、ようやく、「人種差別撤廃」は、『世界人権宣言』として採択されます。

長い間、白人たる欧米人が国際社会を支配し、優越感を保持し続けてきましたが、この宣言により、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上の意見、門地などのあらゆる差別が撤廃され、すべての人間は生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利について平等であることが認められたのです。

これらの事実を受けて、「大東亜戦争は人種戦争(レイス・ウォー)であり、宗教戦争だった」として、「日本が世界史における『白人の支配』に終止符を打った」と賞賛する見方もあります(大東亜戦争については後ほどたっぷり触れることにしましょう)。

歴史を動かす要因は様々です。振り返れば、「パリ講和会議で“我が国の主張”が認められておれば、その後の人類の歴史は様変わりし、あるいは大東亜戦争も発生しなかったかもしれない」とつい考えてしまい、当時の米国の国内事情に思いが至ります。

その米国においては、近年、オバマ大統領も誕生したことなどから、人種差別問題は決着したかのように見えましたが、今回のようなデモや暴動が依然として繰り返されることは、改めて、驚きであるとともに、この問題の“根深さ”を感じざると得ないのです。

▼上海から南京まで

さて前回の続きです。「北支事変」から「支那事変」に拡大した後も、日本はドイツを仲介に和平工作(トラウトマン工作)を始めます。仲介案の骨子は、「中国側が今後、満州を問題としないという黙約の下に、河北の諸協定を廃止し、その代わり反日運動を取り締まる」というものでした。

蒋介石もこの案を支持しますが、杉山陸相が(石原莞爾がすでに満州に転任させられていた)陸軍内の“強硬派”の突き上げを受けて一夜にして約束を反故にしたのでした。

その後の閣議において、近衛首相も広田外相も一言も発言しなかったといわれます。前にも紹介しましたように、近衛、広田、杉山に対して「大日本帝国を滅ぼした責任者はこの3人」(岡崎久彦氏)との厳しい指摘は、このような判断や指導力の欠如を指しているものと考えます。

中国軍の敗走を目のあたりにして、蒋介石は、首都・南京を死守すべきか否か迷った結果、死守を決めます。ソ連の参戦に“最後の望み”を託していたといわれています。中国共産党も「南京防衛は中国人民の責任であり、日本軍に対して人民が総武装化して戦うべき」と主張していました。

1937(昭和12)年12月1日、大本営は「南京攻略」を下令し、海軍爆撃隊による爆撃も南京に集中します。12月6日、蒋介石は南京死守を宣言したのにもかかわらず、日本軍の南京総攻撃の直前、脱出を決意します。

その理由として、日本軍の圧倒的な軍事力の差の前に敗北を予測したことのほかに、参戦を期待していたスターリンから「日本が挑発しない限り、単独での対日参戦は不可能」との回答を得たこと、それに一向に改善しない英米等の国際支援などがあったようです。

この結果、蒋介石をはじめ中国政府高官は次々に南京を離れ、重慶の山奥まで逃げ込んでしまいます。市民の多くも戦禍を逃れ、市内に設置された南京国際安全区(難民区)に避難します。この際、“日本軍に利用されないよう”多くの建物が中国軍によって焼き払われました。

12月9日、松井司令官は、中国軍に南京城を引き渡すよう開城・投降を勧告しますが、中国軍の司令官が拒否したので総攻撃と掃討を命じます。蒋介石の撤退指示が遅れた上、日本軍の進撃がきわめて敏速だったことから中国軍は撤退の時期を失してしまい、揚子江によって退路がふさがれていたことから混乱状態に陥ります。

その結果、多数の敗残兵が“便衣兵”に着替えて難民区に逃れますが、13日には、中国軍の組織的抵抗は終了し、日本軍は南京を占領します。

▼「南京事件」の真相

このような状況の中で「南京事件」が発生したとされます。「南京事件」の犠牲者は、東京裁判における判決では20万人以上、南京戦犯裁判(1947年)では30万人以上とされ、現在の中国の見解は後者に依拠しています。

現在、外務省の公式サイトでは「非戦闘員の殺害や略奪行為などがあったことは否定できないが、被害者の具体的な人数については諸説あり、正しい数を認定することは困難である」としています。

第2次世界大戦中に発生したマニラ、スターリングラード、ワルシャワ、ベルリンなどの市街戦にみられるように、一般に、大都市の市街戦に至った場合、兵士のみならず民間人の犠牲者がでることは避けられないことは明白です。

しかして、「南京事件」の真相はいかなるものだったのでしょうか。「激動の昭和」を振り変える際にどうしても避けては通れないと考え、諸説をチェックしてみました。

残念ながら、戦後に2つの裁判の結果を検証しようとした研究は、多かれ少なかれそれらの裁判結果に影響されているような気がしますし、日中共同研究も明確な分析は避けています。当然日本側は、「日本の分析に中国の同意が得られるわけがない」と判断したものと推測されます。

幸いにも、松井大将をはじめ南京攻略に参加した各指揮官の日記や従軍記者の写真や手記も残っており、「偕行社」がその抜粋を『南京戦史資料集』として平成5年に編纂しています。 

それらを紐解きますと、まず南京攻略前に「軍紀緊縮の訓示」を行った松井司令官にとって、「数10万の大虐殺」は“寝耳に水”の驚きだったことがわかります。

従軍記者の写真や手記などを読む限りにおいて、確かに、敗残兵の処断などの事実はあったものの、いわゆる通常の掃討、南京の場合には、明らかに国際法違反である便衣兵の捜索・処刑(これ自体は戦時国際法上合法とされた)が多かったことがわかります。

唯一、「数10万を処理した」とする騎兵将校の太田壽男少佐の供述書(1954年8月付)も残っております。中国にとってはありがたい供述なのでしょう、その原文は、南京の記念館に大事に保存されているとのことです。

しかし、太田供述は信ぴょう性に欠けることがわかります。理由は太田少佐の終戦後の足跡です。太田少佐は戦後ソ連に抑留され、その後、中国の橅順戦犯管理所に移送されます。供述はその際に提出したものでした。そこで何があったか細部は不明ですが、まともではない状態で供述した可能性は否定できないでしょう。太田少佐は、昭和31年ようやく帰国し、昭和39年死去してしまいます。

なお、太田少佐の供述には、12月14日から15日にかけて南京市内各地で何万体もの死体処理を目撃したように書かれていますが、太田少佐が南京に到着したのは、12月25日だったことが他の証言者によって判明しておりますので、供述は実際に太田少佐が直に見聞したものでなかったことは明白です。

また、戦後大問題になった「百人斬り競争」の2人の将校の写真について、実際に撮った従軍記者の証言も残っています。この写真は、南京へ移動中、つまり“攻略前の写真”であり、タバコほしさに“はやる気持ち”を語っていたに過ぎず、百人を切った証拠にはなりません。

当時の従軍記者は、発行部数の拡大のため(だったと推測しますが)、このような“飛ばし記事”を競って戦場からたくさん送っていたようです。不幸にもこの2人の将校は、この写真を証拠に有罪になり、銃殺刑に処されます。

「東京裁判」については後ほど振り返ることにしますが、陸上自衛隊の戦士教育参考資料『近代日本戦争概説』では、「南京攻略」の戦史は約1ページ、その作戦の概要が記されているのみで、「南京市内には市民がほとんどいなかったし、占領直後には市内に部隊が入れない処置などもあった。多数の遺棄遺体は、敗走した中国軍のものであった」とさらりと記述されていることを付記しておきましょう。

▼日中両国の戦争指導

 一般に「戦争指導」については、その戦争が終わった後に、しかも第3者の立場で冷静に分析してはじめてその問題点などをとやかく論評するものが多く、いわゆる“後出し”です。

「支那事変」が拡大し「南京事件」が発生するに至ったのは、「海軍の積極的な作戦に陸軍が後追いした結果である」と第40話でその「史実」を解説しました。日本軍は、首都・南京を占領したものの中国に勝利することはできず、戦線はますます拡大します。

他方、中国側も、蒋介石の上海や南京の防衛戦における戦争指導の迷走は戦略的に重大な過ちであり、結果として多くの人的損害をもたらしました。また、南京を失ったものの、「日中戦争の国際化により勝利する」という蒋介石の戦略は中期的には成功しますが、最終的には、共産党に敗北して台湾への追われることになります。

当時の「ニューヨーク・タイムズ」は「南京の戦いにおいて、日中双方ともに栄光はほとんどなかった」と結論付けていますが、当時から、アメリカは「勝利なき日中戦争」を見抜いていたとも判断でき、そこに“つけ入る隙”を見出していたと分析できると考えます。その細部は後ほど触れることにしましょう。

▼国民政府の抗日戦争

改めて、複雑な中国の国内事情を整理しておきましょう。しばしば誤解されますので、1925年から1948年までの“中華民国政府の呼称”について整理しておきます。

つまり、中華民国=国民政府ではありません。国民政府は、1924年、国民党が広州で旗揚げした時からしばらくの間は、「広州国民政府」と名乗っていましたが、当時、国際的に承認されていたのは、清の末裔というべき北京にある政府(「北京政府」)でした。

国民政府は、北伐によってその「北京政府」を倒した後、広州から南京に移動し、「南京国民政府」と名乗り、ようやく中国を代表するようになります。日本と戦争したのは、この「南京国民政府」でした。その政府は、南京陥落後に重慶に移動し、「重慶国民政府」となります。

しかし実際には、重慶には一部の政府・党機能しか置かず、武漢(南京と重慶のほぼ中間に位置:今回、コロナで有名になりました)が事実上の戦時首都の機能を持ち、武漢において、蒋介石は断固たる抗戦意志を表明します。

他方、トラウトマン和平工作は南京陥落後も引き続き進められていましたがなかなか成功しません。そして1938(昭和13)年1月16日、近衛文麿は「国民政府を対手(あいて)にせず」という有名な声明を発し、トラウトマン工作は終焉するのです。(つづく)

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