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「我が国の歴史を振り返る」(39) 「二・二六事件」の背景と影響

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▼はじめに(「大正デモクラシー」終焉が意味するもの)

前回、「五・一五事件」で犬養毅首相が暗殺され、「大正デモクラシー」は短い生命を終えたことを紹介しましたが、“そのような事象がその後の我が国の歴史にいかなる影響を及ぼしたのか”について触れておきましょう。

当時の日本は、「満州事変」と一連の戦線拡大によって“大満州ブーム”が沸き返り、その延長で“国際連盟の脱退によって日本が世界から孤立したことへの危機感はほとんどない”ような高揚感が蔓延していました。その結果、内閣も議会も「妥協的態度を軟弱」として、「強硬論をすべて是」とする世論やマスコミの大勢に乗るだけになったのです。

国際連盟脱退後の昭和天皇の詔勅も紹介しましたが、国の統治とは難しいものだということを改めて考えさせられます。“権力を広く分散すれば、自ら良い政治になる”という民主主義の考え方は、そう簡単に人々に根付くものではないことを「大正デモクラシー」は教えてくれました。他方、国家が“一枚岩”になると、確かに意思決定そのものは容易ですが、一度動き始めたら軌道修正できないという致命的な欠陥を内在しています。

「世界恐慌」などの影響によって経済的に疲弊を来し、希望を失いつつあった国民が“強硬論”を最適な選択肢として同調すること、そして“強硬論”を掲げて有言実行する軍人達が“救世主”のように見えたのは容易に想像できます。このような国民精神が、結果として「大正デモクラシー」を終焉させ、我が国の混乱を増大させる要因となったのでした。

この風潮は、「五・一五事件」(昭和8年)の裁判にも表れます。マスコミは首謀者達の主張を正当化し、行動を称えもしました。その結果、減刑運動が拡大し、首謀者の判決は軽いものになります。このことがのちの「二・二六事件」の陸軍将校の反乱を“後押し”したともいわれます。

歴史を振り返れば、バランス感覚をもって極端な国の舵取りを諫め、軌道修正できた明治時代の伊藤博文のような人材を輩出できなかったのが、昭和時代初期の不幸だったのではないでしょうか。

同じ年の1月、巨額な賠償金と「世界恐慌」にもがき苦しんでいたドイツにヒトラー政権が誕生します。ドイツ国民も「彼こそが“救世主”だ」と信じたのでした。

▼「二・二六事件」の背景

さて、「激動の昭和」と言われるとおり、昭和初期は、今の常識からは想像を絶するような事件や事案が次から次へと発生しますが、1933(昭和8)年の国際連盟脱退からおおむね3年間は、昭和にしては静かな期間でした。

その静寂を破ったのは、1936(昭和11)年2月26日に発生した「二・二六事件」でした。20世紀に生きていた日本人に「何が最も強烈な記憶か」と聞くと「二・二六事件」と答えた人が多いといわれます。大東亜戦争時の真珠湾攻撃や原爆投下など様々な強烈な経験と比較して、日本人は、本事件を“自分達が生まれて育ってきた社会全体が足元から崩れる予兆”として脅えたのでした(岡崎久彦氏の言)。

その背景を探ってみましょう。まず、思想的背景として「昭和維新」の“革新思想”がありました。事件後、死刑に処せられた北一輝などが主導して一部の青年将校らに浸透していったものですが、その思想を簡単に紹介しておきます。

第1に、白人帝国主義に対するアジア主義です。日本が戦争に訴えても国際的不正義を匡(ただ)すことを是認しています。第2に、社会主義の影響を色濃く受けた平等主義です。特権階級の廃止などを主張します。この考えは、陸軍が画策した満州の計画経済の考えとも一致します。第3に、議会制民主主義に対するものとして革新派による専制体制の主張です。これらを求めたのが「昭和維新」だったのです。

これらの思想に加え、陸軍内の対立もありました。本シリーズでもすでに「昭和陸軍の台頭」として触れましたが、一枚岩のように見えた「一夕会」の中に、第1次世界大戦の教訓から「国家総力戦」の準備と計画を整備するために軍部主導の政治運営を主張する、いわゆる「統制派」が永田鉄山らを中心に結成されます。そして、それに対抗するように、荒木貞夫陸軍大臣や真崎勘三郎参謀次長らを担ぎ、“革新思想”を信じて国家改造を目指す青年将校らによる「皇道派」も形成されます。

両派の対立は、対ソ戦略を巡っても激しい論争を展開します。「統制派」が日ソ不可侵条約の締結に積極的だったのに対して、「皇道派」は対ソ強硬論を主張してこれを断念させます。その結果、ソ満国境にかなりの兵力を割く必要が生じ、陸軍の「対中国戦略」に大きな足かせとなっていきます。

「対中国戦略」についても、「統制派」が中国に日本との共存共栄が進むよう誘導し、排日が激化すれば断固排除する方針だったに比し、「皇道派」は、欧米列強と協調しながら安定を維持し、主に経済的観点から貿易市場とすべきとの方針でした。

▼「二・二六事件」発生と影響

このような背景によって、「皇道派」を軍中央から一掃しようとした永田鉄山が刺殺される事件が起きます(昭和10年)。永田暗殺の翌年の1936(昭和11)年、第1師団や近衛師団の青年将校グループがクーデタ―による国家改造をめざし、約1500人の兵士を率いて「二・二六事件」を引き起こします。

しかし、昭和天皇の「朕自ら近衛師団を率いてこれを鎮定に当たらん」の強いご意志もあってクーデターは失敗し、青年将校と繋がりのあった真崎、荒木らは予備役に編入、事件の背景にあった「統制派」と「皇道派」の争いも決着をみることになります。

なお、「五・一五事件で海軍に先を越された陸軍過激派はいつか大事を起こす。万一海軍省が占領されるようなことがあったら海軍の名折れである」と考えた当時の海軍省軍務局第1課長井上茂美らは、事件のかなり前から陸軍の動きを警戒して最小限の準備をしていたのです(当時の陸軍と海軍の関係を知る貴重なエピソードです)。

昨年8月15日、「NHKスペシャル」で「二・二六事件に関する海軍の最高機密文書を発掘した」と、鎮圧に至る「4日間」の詳細が報道されました。本事件に対する海軍の態度や昭和天皇の苦悩が明らかになっていますが、「皇道派」と「五・一五事件」を引き起こした海軍「艦隊派」とは気脈が通じていたともいわれ、本事件は事件後80年余り過ぎた現在でも依然、謎が多いのも事実です。

陸軍においては、当時、参謀本部作戦課長職にあった石原莞爾が「兵隊の手を借りて殺すなど卑怯千万」として反乱軍鎮圧の先頭に立った事を付記しておきましょう。

事件後、外務大臣だった広田弘毅が首相に任命されますが、広田内閣の陸軍トップは、陸軍大臣・参謀総長・教育総監らすべて政治色が薄く、その結果、「統制派」の中堅幕僚層の意向が強く反映され、同時に陸軍の政治的発言力が急速に増大します。

中でも、大正2年に山本権兵衛内閣によって削除された「軍部大臣現役武官制」が復活するなど、まさにクーデターが成功したかのように、“軍国主義化の潮流”は歯止めのない状態になっていきます。

▼近衛文麿登場

  それらを象徴するかのように、「二・二六事件」後の我が国の政局は荒れに荒れます。広田弘毅首相は、1937(昭和12)年1月、立憲政友会の浜田国松議員の発言をめぐって寺内陸相の間で大混乱になった「腹切り問答」を機に辞任します。

その後継に指名された宇垣一成(かずしげ)内閣は陸軍の反対で組閣流産します。代わりに首相となった林鉄十郎(せんじゅうろう)も、解散する理由もないのに衆議院を解散(「食い逃げ解散」といわれます)し、政党勢力を勢いづかせた責任をとって同年5月、在職3か月で総辞職します。

このような政局の混乱から、国民に新世代の出現を期待させ、当時45歳の若き近衛文麿が首相となり、首相を辞めたばかりの広田弘毅(こうき)は外務大臣として就任します。

近衛文麿については、のちほど詳しく触れたいと思いますが、「近衛、広田、そして後の陸相・参謀総長の杉山元は、大事な節目で指導力を発揮せず、体制順応した不作為の罪を責められるべき」として、岡崎久彦氏は「大日本帝国を滅ぼした責任者はこの3人」と断じていることを紹介しておきましょう。

岡崎氏はまた、この3人にとどまらず、「昭和前期の人々の通弊(つうへい)だったが、この時期、国の為政者として骨のある人材が存在しなかった」と指摘しています。我が国にとっては何とも不幸だったとしか言えようがありません。

▼「宣伝は政治より重し」

 さて当時の中国です。以前、「欧米列国が一方的に中国に加担した」と述べましたが、中国は国際世論を味方につけるため、積極的に宣伝を活用しました。蒋介石は「政治は軍事より重し、宣伝は政治より重し」として「戦争に負けても宣伝に勝てばいい」と述べていることから、いかに「宣伝」の力を入れていたかが理解できます。

蒋介石夫人の宋美齢が米国の大学卒のキリスト教徒で、のちに、ルーズベルトなど米国の要人工作に一役買ったのは有名ですが、1927年、蒋介石は「唯一無二の合法的な妻とする」として6年前に迎えた2番目の夫人・陳潔如を捨て、宋美齢と再婚します(偽装結婚だったという説もあります)。そして、自身も1929年にキリスト教に改宗しますが、当時の中国大陸には米国から来た宣教師団体が数千名おり、この「宗教勢力は宣伝に使える」と判断した結果と推測します。

蒋介石が私生活まで犠牲にして実施したような、三国志以来の伝統といわれる中国の宣伝工作は、この後の「支那事変」になっても大いに発揮されます。

これに対して我が国は、石原莞爾が「宣伝下手は日本人の名誉」と述べているように、「武士道精神」によって、武道そのものよりも「卑怯なまねはしない」のような徳を重視する考えが定着していたことに加え、軍事的勝利に対する自信から宣伝を軽視していたのでした。我が国の“宣伝ベタ”は今なお続いており、中国や韓国から“いいようにやられている”のは承知のとおりです。

「卑怯なまねはしない」などの清い精神は、は陸海軍共通の“作戦ベタ”にも表れます。これについては、のちほど繰り返し触れることになるでしょう。

▼「支那事変」の引き金になった「西安事件」

  この時期の日中関係は比較的平穏でした。その訳は、蒋介石が共産軍の包囲殲滅に集中し、「塘沽(タークー)停戦協定」締結後の対日関係は行政院長の汪兆銘に委ねていたからでした。

その後の日中関係で重要な役割を果たす汪兆銘について少し触れておきましょう。汪兆銘は、日露戦争の最中に留学生として来日し、西郷隆盛や勝海舟にも深く私淑して親日派になりました。汪は「優れた人間同士が理解し、信頼し合えば、いかなる困難も克服できる」という“東洋思想”を最後まで捨てなかった人だったといわれます。

1935(昭和10)年、汪兆銘は抗日派に狙撃されます。一命は取り留めましたが、この結果、「支那事変」勃発時、我が国は中国側のキーパーソンの汪を欠くことになります。

その頃、共産軍撃滅作戦を推進中の蒋介石に対して、劣勢な共産軍から「抗日統一作戦」結成の呼びかけがありましたが、共産軍の狙いを見抜いている蒋介石は応じませんでした。そのような情勢下、1936(昭和11)年12月、戦意がない張学良を直接指導するため蒋介石が張の根拠地の西安に乗り込んだところ、逆に逮捕監禁されるという事件が発生します。有名な「西安事件」です。

レーニン没後、後継者として地位を固めつつあったスターリンは、毛沢東の「殺蒋抗日」に反対し、「国民党と日本を戦わせ、お互いが疲弊するのを待つ」との基本戦略のもと、蒋介石は釈放される代償として「共産党討伐の中止」「一致抗日」を約束させられ、「第2次国共合作」が成立します。ソ連の陰謀がみごとに成功したのです。

これによって、国民党内の“知日派”が失脚する一方、親ソ派が台頭し、ここに来て蒋介石ははっきりと「敵は日本」と定めたのでした。まさに、「西安事件が支那事変そして日中戦争の引き金になった」(米国駐支大使N・ジョンソン)のでした。(以下次号)

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