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「我が国の歴史を振り返る」(37)  昭和陸軍の台頭と「満州事変」の拡大

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▼はじめに(新型コロナ対応について)

5月14日、「緊急事態宣言」が39県で解除になり、新型コロナウイルス対応は、いよいよ「出口」に向けたステージに入ったように見えます。

私は、新型コロナウイルスに対する政府や地方自治体の対応、そして国民の自粛など、“これまでの結果を見る限りは合格点”だったと思います。ここに至るまでの我が国の対応については、本「戦略検討フォーラム」上においても、様々な物議も醸しておりますが、欧米諸国などと比べ、感染者も死者も2桁も違うことは「対処が成功した」ことを物語っています。これに文句を言う人はあまりに了見が狭すぎます。

かくいう私もかつて自衛官として国の危機管理の一翼を担った経験から、了見の狭い視点でひとつだけ物申せば、この度の危機管理上の最大の問題点は、ボールの周りに全員が密集する“小学生のサッカー”をやってしまったことではないかと考えます。未知の分野とは言いつつも、感染専門家のその時その時の発言、それに輪をかけてマスコミの扇動があまりに強すぎるものだから、政府も地方自治体も感染防止に“1点集中”となり、他の政策を後手後手か、軽視あるいは無視してしまったことです。

政府がようやく経済の専門家を招集したのは、5月14日になってからでした。緊急事態宣言を出す段階で、「出口」戦略をどのように描いていたか(考えていたか)も不明です。地方自治体の要望、そして“ここぞとばかり”国民の側に寄った(ふりをする)政党、さらにはマスコミや国民の世論(声)に惑わされたように政策の変更も余儀なくされました。

根拠となった特措法の欠陥は論じるまでもないですが、国と地上自治体の立場に違いがあるのは当たり前で、それをことさらに(素人丸出しで)取り立てる論客も目につきました。

それもこれも、その基を辿れば、危機管理の“1点集中の欠陥”が露呈した結果と考えます。

国際社会は、すでに“ポストコロナ”に関心が行っています。人類の歴史は、この度のような全人類を巻き込んだ“パニック”の後には、必ずやそれまでの世界観や価値観が180度変わることを繰り返しています。最悪の場合、外交が破綻し、戦争に至ることもありました。現時点で、だれかがそれらを予期しつつ、我が国のとるべき対応について幅広くかつ長期的視点で真剣に考えているか、不明です。

今回は、昭和陸軍の台頭と「満州事変」の拡大を取り上げますが、その背景に国民世論の絶大なる後押し(いわゆるポピュリズム)があったことは史実として否定できません。扇動するマスコミの存在も今と変わりなく、結果いかんにかかわらず、その責任を決して語らないし、問われない体質も同じです。

まさに「歴史は繰り返す」とかんがえざるを得ないのですが、マスコミや“にわか専門家”達の意見に冷静に立ち向かう“賢人(達)”の存在こそが国の舵取り、中でも危機管理の基本と考えます。再び同じ失敗を繰り返さないためにも、「安倍総理の周辺に“賢人(達)”はいるのだろうか」と考えつつ、独り言をつぶやいている日々です。先を急ぎましょう。

▼昭和陸軍台頭の背景

我が国の戦前の歴史を語る時、どうしても軍人たちの〝暴走〟を抜きにしては語れないと誰もが考えます。「ポツダム宣言」においても「本戦争は、無分別な打算をもったわがままな軍国主義者たちが日本国民を騙して世界征服の意図をもって行ったもの」と定義され、「その勢力を永久に除去する」旨の宣言を我が国は受け入れたのでした。

必ずしも軍国主義者イコール軍人ではないですが、昭和時代の軍人の台頭の実態はどうだったのでしょうか。軍人、特に陸軍が歴史の表舞台に登場するのは「満州事変」の頃からです。「満州事変」勃発後の展開を振り返る前に昭和陸軍について少し触れておこうと思います。

軍人の台頭は、大日本帝国憲法の「統帥権の独立」にその根源があることは明白ですが、本来、「統帥権の独立」は、“軍の政治的独立を確保し、政治関与を防ぐためにつくられた制度”でありました。しかし、時を経るごとに軍の政治関与・介入を容認する制度へと変貌していったのはなぜだったのでしょうか。

ここに至る“道行き”は長くかつ複雑で様々な要因があります。詳細は『逆説の軍隊』(戸部良一著)や『昭和陸軍の軌跡』(川田稔著)などに任せることにしますが、概要は次のとおりと考えます。

すでに触れましたように、明治時代後期から大正時代においては、政治の主導権を巡って政党政治と藩閥政治が激しく対立し、藩閥政治は長州出身の山県有朋が強い影響力を保持してきました。

やがてその山県も死去し、「大正デモクラシー」による政党政治が興隆しますが、党利党略の抗争や相次ぐ不祥事などから国民の信頼を失います。一方、第1次世界大戦後の陸海軍の軍縮の結果、軍人達は不安のドン底に陥り、軍人に対する国民の目も憎悪から侮辱に大きく変わっていきました。同時に、「世界恐慌」の影響で、国民生活も益々疲弊していきます。

▼陸軍の派閥結成

こうした状況に対する危機意識から血気にはやる中堅将校らが主導権の確保をめざして派閥を作り始めます。まず、山県有朋が贔屓した長州派閥の打破と人事刷新、総動員態勢の確立を目指し、大正12年、陸士16期を中心に「二葉会」が結成されます。「二葉会」は徹底して長州系を排除します。事実、大正11年から13年まで山口県出身の陸軍大学入校者は1人もおりませんでした。

昭和2年には、陸士22期の若手を中心に「木曜会」が組織されます。会の議論の中で、「統帥権の独立だけでは消極的だ」として「国家的に活動する公正なる新閥を作り、それを通じて政治に影響力を行使すべき」との結論を得ます。永田鉄山、岡村泰次、東條英機らもこの議論に加わっており、この時点で、軍の政治関与・介入を容認する方向に歩みはじめたものと考えられます。

やがて、「二葉会」と「木曜会」が合流して「一夕会」が結成されます(昭和4年)。主要メンバーは、永田、岡村、東條に加え、小畑敏四郎、河本大作、板垣征四郎、山下奉文、石原莞爾、牟田口廉也、武藤章など早々たる顔ぶれで、「満州事変」前には、陸軍中央の主要ポストは一夕会員がほぼ掌握、中国に対して「軍事行動やむなし」として関東軍の計画を支持したのです。

▼朝鮮軍越境問題

「満州事変」勃発後の展開を追ってみますと、事変の翌日の昭和6年9月19日午前、陸軍中央部に報が届き、陸軍省・参謀本部合同の省部首脳会議では「一同異議なし」で承諾し、その後の閣議では“事態不拡大”の方針が議決されます。

やがて、朝鮮軍越境に対する軍と政府の対応が問題になります。参謀本部は、朝鮮軍に対して、当初は「奉勅命令」下達まで見合わせるよう指示します。天皇の勅裁を受けていない軍隊の国外派兵は「統帥権干犯」とみなされていたのです(当時は、朝鮮半島までは国内でした)。しかし、張学良軍の総兵力に比して関東軍があまりに劣勢であったため、「情勢が変化し、状況暇なき場合には閣議に諮らずして適宜善処する」ことを議決します。この時点で、参謀本部は「統帥権干犯」を容認した格好になります。

その後、林銑十郎朝鮮軍司令官は天皇の大命を待たず、独断で混成旅団を越境させ、関東軍の指揮下に入れました。これにより、「柳条湖事件」は“国際的な事変”へ拡大したのです。林鉄十郎は後に首相にもなる人ですが、“下克上”といわれた昭和初期に部下の参謀達から好まれた司令官の典型のような人でした。

越境後の閣議では、「すでに出動した以上はしかたがない」と出兵に異論を唱える閣僚はなく、朝鮮軍の満洲出兵に関する経費の支出を決定、その後、天皇にも奏上され、朝鮮軍の独断出兵は「事後承認」によって正式の派兵となりました。後戻りできない“悪弊”が出来上がった瞬間でした。

▼事変の拡大―錦州入城

さて、「満州事変」3日後の9月21日、中華民国は国際連盟に提訴しますが、我が国は「自衛のため」と主張して国際連盟の介入を批判、「日中両国の直接交渉で解決すべき」と主張します。この時点では、国際連盟理事会は日本に宥和的で中華民国に冷淡だったのでした。

しかし、10月以降の事態拡大によってその態度が変化していきます。そのきっかけは、アメリカのスティムソン国務長官が幣原外務大臣に“戦線不拡大”を要求したことに端を発します。これを受けた幣原は、金谷陸軍参謀総長に「戦線を奉天で止めるべき」と伝え、参謀総長もそれを承認しました。

幣原は「錦州(現在の遼寧省西部)までは進出しない」旨の意志決定をスティムソン国務長官に伝え、その内容が、即、国務長官談話として世間に発表されました。

しかし実際には、参謀総長の抑制命令が届く前日に、関東軍は錦州攻撃を開始してしまいます。スティムソンはこれに激怒します。この結果、幣原の「協調外交」はその決定を踏みにじられ、国内外に指導力欠如を露呈して大きなダメージを受けることになります。 

こうして、10月8日、奉天を放棄した張学良の拠点・錦州を関東軍の爆撃機12機が空襲し(錦州爆撃)、関東軍は「張学良は錦州に多数の兵力を集結させており、放置すれば日本の権益が侵害される恐れが強い」と公式発表します。

▼清朝最後の皇帝・溥儀擁立

また関東軍は、国際世論の批判を避け、陸軍中央からの支持を得るために、満洲全土の領土化ではなく、清朝最後の皇帝・溥儀を立てて満州国の樹立へと早々に方針を転換します。

陸軍の特務機関は溥儀に日本軍に協力するよう説得にかかります。溥儀は、辛亥革命後に退位を余儀なくされましたが、紫禁城で暮らすことは認められていました。しかし、国民政府内部のクーデターが発生した折に自発的に日本公使館に保護を求めたのです。

溥儀は、満洲民族の国家である清朝の復興を条件に新国家の皇帝となることに同意して、自分の意志で旅順に向かいます(この付近のいきさつは、溥儀の英国人家庭教師・ジョンストン著の『紫禁城の黄昏(たそがれ)』に克明に記されています)。

国内では、民政党の若槻内閣は、関東軍の北満進出と錦州攻略、さらに満洲国建国工作にも反対しますが、財閥とつるんだ内相の反乱のような格好で総辞職し、“最後の政党内閣”となる政友会総裁の犬養毅内閣が誕生します。 

11月中旬以降、日本軍はチチハルを占領して錦州に迫ります。犬養毅首相が張学良に錦州からの撤兵を要請し、張学良が了承したこともあって、翌年1月3日、日本軍は錦州に入城します。

▼「満州事変」への国民の支持

「満州事変」前夜までは“軍批判の急先鋒”に立っていた各新聞は大旋回します。「朝日」は事変後4か月あまりの間に号外を131回発行し、「満州に独立国が生まれ出ることについて歓迎こそすれ、反対すべき理由はない」と支持します。「毎日」も「関東軍の行為に満腔の謝意」「強硬あるのみ」「守れ満蒙、帝国の生命線」などとはやし立てました。

背景に、幣原外相が目指した「協調外交」が当時の国際社会の政治的・軍事的・経済的文脈から非現実的だったことに加え、国内の経済的疲弊や米国の排日移民政策もあって、マスメディアによる大々的報道という「劇場型政治」が展開され、世論は急速に関東軍の支持に傾いたのです。

戦後、“立つ位置”を大転換し、戦争に加担した責任や反省の“そぶり”すら見せないマスメディアですが、これが現実でした。

本メルマガの最後に総括しようと考えていますが、明治時代、福沢諭吉や新渡戸稲造がさかんに「武士道」のような日本精神の涵養をめざすことを説きましたが、実際には、夏目漱石が明治人の浮ついた精神を“上滑り”“虚偽”“軽薄”と批判したように、欧米思想にかなり毒されていました。そのような精神が連綿と続き、大正時代を経て昭和時代に至って更に倍加されたのは事実だったと考えます。

狂気を逸した旧軍の行動を肯定するつもりは毛頭ないですが、さりとて、戦争という「国の大事」に至った我が国の歴史を「軍人の暴走のせい」と決めつけるのは、少なからず違和感を持ちます。

なぜならば、今の自衛隊も旧軍も彼らを行動させる最大のエネルギー(栄養源)は「国民の支持」だからです。これは軍人の本質ともいうべきものと考えます。

だからこそ、国益につながるとの「大義」(自己評価)に国民の支持という「正義感」が加われば、軍人達は更なる「使命感」を自ら培養するのです。それこそが「満州事変」から「支那事変」そして「大東亜戦争」へと突き進んでいった最大の要因ではないかと私は思います。

「歴史にif」ですが、「満州事変反対!」とマスメディアが連呼し、国民が軍(特に関東軍)にそっぽを向いていたら日本の歴史は変わっていたのではないか、とまたしても後付けながら考えています。そして、漱石が指摘した“上滑り”“虚偽”“軽薄”な精神は、今でも日本人の「伝統的な精神」として続いていると考えざるを得ないのです。(つづく)

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