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「我が国の歴史を振り返る」(38) 「リットン調査団」報告と国際連盟脱退

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▼はじめに

 2006年の秋、安倍首相と胡錦濤国家主席の間で「日中歴史共同研究」が合意され、以来3年間、日中の歴史家達による共同研究が実施され、09年末に最終会合が開かれました。目的は「歴史の共有」よりも「相互理解の増進」を目指したようですが、やはり昭和期の「不幸な歴史」の解釈に時間を費やしたとのことです。

結果として、個々の歴史事象や事実認定に対して両国が共有できる部分が格段に広がったようですが、日中戦争の歴史的意義、中でも「中国人民が日本の“侵略”に抗して“抵抗”を貫いたことから現在の国家基盤が築かれ、国民統合が進んだ」とする考えや「中国が中国戦線を一手に引き受け、日本を消耗させ、連合国の“反ファシズム戦争”に貢献した」として「ソ連や米国など、中国以外の連合国が抗日戦争の勝利に貢献したという側面が入る余地が少なかった」とのことで、やはり“史実”との違いは否定できませんでした。これがそれぞれの国の「歴史」なのです。

本歴史シリーズは、「満州事変」から「日中戦争」の歴史については、この共同研究に参加した日本側の歴史家達が記した『決定版 日中戦争』も参考にしていますが、今なお、それらの歴史的解釈については両国の間に大きな隔たりがあると読者に理解してもらうために冒頭に紹介しました。

“なんとなく”始まった戦争が、結果的に“ずるずると”日本を泥沼に引き込んでしまったといわれる「日中戦争」ですが、確かにその輪郭がはっきりせず、その全体像を明確にすることの難しさに思いが至ります。そのあいまいさは、「満州事変」終結の頃から始まっていました。続けましょう。

▼「上海事変」と「満州国」建国宣言

第1次5カ年計画達成に余念がないソ連が「中立不干渉」を声明したこともあって、事変翌年の1932(昭和7)年1月、ほぼ満州全域を制圧した関東軍が、「満州事変」から列国の関心をそらす狙いをもって工作したといわれる「上海事変」が発生します(「第1次上海事変」)。

まず、日本人僧侶が中国人に襲撃された事件を機に、海軍の陸戦隊が出動、その後、陸軍部隊を増強し、3月には中国軍を上海から撤退させます。背景に、日頃から生命財産を脅かされていた在留邦人の強硬姿勢があり、またしても国内世論が支持したのでした。

しかし、中国の反日感情はさらに強まって国際連盟に提訴したこともあって、英国や米国など国際世論の日本に対する非難は益々強まります。

こうした中、同年3月1日、満州国は独立を宣言します。新京と改称された長春の街は、零下20度の寒さの中、「五協和音」「王道極楽」などと書かれた花電車やトラックのパレードがあり、群衆は歓喜したといわれます。溥儀の執政への就任式も行われ、関東軍司令官や満鉄総裁に加え、東北3省の軍閥系実力者や溥儀の臣下も参列しました。

満州国は、「五族共和」(五族とは、漢、満、モンゴル、日本、朝鮮)の理念を掲げ、執政・溥儀のもとに、立法院、国務院、法院、監察院の4権分立をとり、国務院は反資本主義(反中国)、反共産(反ソ連)、反帝国主義(反米国)をめざしていました。

満州国が建設されてから、百万人を越す日本人が満州に移民して未墾地を開拓し、終戦時には155万人まで膨れあがっていました。朝鮮人の入植も非常に多く、日韓併合後約80万人が満州に移住したようです。

同年3月、「満州事変」に対する中国の提訴と日本の提案によって、英国のリットン卿を団長とし5名からなる調査団が国際連盟から派遣され、3ヶ月にわたって満州を調査することになります。

日本政府は、直ちに満州国を独立国家として認めたわけではありません。犬養首相は「独立国家を承認すれば、必ず9カ国条約と正面衝突する」と“独立政権”に留めるべきとの考えを持ち、“独立国家”承認にはゴーサインを出しませんでした。

▼「五・一五事件」発生と顛末

そのような中、発生したのが「五・一五事件」です。その背景を振り返りますと、昭和7年2月、総選挙が行われ、政友会が圧勝しますが、「昭和維新」を掲げ、テロリズムによる性急な国家改造を企てる煽動者が軍人らを巻き込み、「血盟団事件」を引き起こし、井上準之助(前蔵相)と団琢磨(三井理事長)を殺害する事件が発生します。

その「昭和維新」の第2段として発生したのが「五・一五事件」でした。ロンドン海軍軍縮条約に不満を持っていた海軍将校らが計画し、犬養毅首相を暗殺、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁などを襲撃したのです(首相暗殺以外の被害は軽微でした)。

犬養首相の後継者選びは難航します。天皇から元老の西園寺公望に推挙の下命がありましたが、西園寺は政党内閣を断念して元海軍大将の斎藤実を次期首相に推挙します。斎藤は挙国一致内閣を組織し、ここに8年間続いた「憲政の常道」が終了し、終戦後まで復活することはありませんでした。

背景に、与党内の権力争いや党利党略に対して、満州事変後、高揚し緊張した民心が愛想をつかしたことがあり、「大正デモクラシー」は短い生命を終えたのでした。

犬養首相暗殺によって事態が大きく動きます。満州国承認については、政府よりも議会やマスメデアの方が積極的で、同年6月、衆議院は満場一致で満州国承認決議案を可決します。それを受け、斎藤内閣の内田外相は「日本の国を焦土としても主張を貫く」と述べ、満州国承認に強い決意を示します。

こうして、リットン報告書が北京で作成され、公表される前の9月15日、日本は満州国を承認します。日本は、“国際連盟でどのような勧告や解決案が提示されようともそれらに左右されない”との強い態度を表明したのでした。

▼国際連盟脱退

実際のリットン報告書は日中両国ともに不満なものでした。「日本の武力行使は自衛のためのものではない。『不戦条約』に違反し中国の主権を犯している。満州は住民の自発的な運動によって建国されたものではない」と中国の主張を支持しながらも、「満州に日本が持つ条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべき」など日本への配慮も見られたのです。

そして、張学良の復帰など原状回復も否定し、①中国の主権下で自治政府を設置する、②治安は特別警察隊が維持する、③日本・中国軍を含むあらゆる軍隊は撤退し、非武装化する、などを提案します。だが日本は、独立国家・満州国の承認をすべてに優先させ、それ以外の事変解決の代案には目を向けなくなっていたのでした。

翌33(昭和8)年2月、国際連盟総会が開かれ、リットン報告書の主旨に基づき、「日本の軍事行動は自衛とは言えず、満州国の分離独立は承認すべきではない」旨の勧告の同意確認の結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(タイ)となって、松岡洋右全権率いる日本はこれを不服としてその場を退場します。日本政府は、3月8日、脱退を決定し、またしても国内世論は代表団を拍手喝采で迎えることになります。

歴史書を紐解くと、今もって「なぜ日本が国際連盟を脱退したのかよくわからない」との見方が残っています。連盟が勧告案を可決しても法的には脱退する必要はなく、事実、「居直り」案も選択肢にあったようですし、松岡自身も脱退論者ではなかったといわれます。

他方、国際連盟の対日批判は、「満州事変」以外に、日中の主張が食い違った「上海事変」、そして同年2月に始まった「熱河作戦」でさらに強まったのでした。よって、「熱河作戦が華北に波及したら、連盟は対日制裁を発動するのではないか」との憂慮が連盟脱退を促したという見方がある一方で、逆説的ですが、連盟の脱退は、「列国と軋轢を回避し、国際協調を貫くことにあった」との見方もあります。

国際連盟脱退後、昭和天皇は「平和の進展はわれわれが永久に望むものである。平和の大事に対するわれわれの態度は何ら変わることはない。わが帝国は国際連盟を脱退し、独自の道を歩むことになるが、このことは極東においてひとり超然たろうとするものでも、各国との友愛関係から自らを隔絶しようとするものでもない。わが帝国と他のすべての国々との相互信頼を深め、わが国の大義の正しさを世界に知らしめるのが、われわれの願いである」との詔勅を出されました

立憲君主の立場から政治的なご発言は抑制されておられたとは言え、天皇が勅語という形で明確な指針を示されたにもかかわらず、その後の我が国が歩んだ道程は、この詔勅に見られる“友愛の精神”とはおよそかけ離れたものになります。

いずれにしても、背景に、国際連盟が中国の巧みな外交努力が功を奏して中国に同調し、中国の排日行為の厳しさを理解せずに日本に対する不信感と反発を増大させたことにあったのは否めないと考えます(カール・カミカワ氏はそのことを指摘しています)。

念のために繰り返しますが、「日露戦争」時には満州は中国のものでなく、「辛亥革命」後、ソ連の陰謀もあって「中国のもの」と主張し始めたのでした。「中国はすべて現在からの類推で過去に何があろうと問答無用。歴史意識は皆無である。国際条約も守らない」(東洋史専門家・宮脇淳子氏)のであり、その歴史観や考え方は伝統となって今も続いていると考えなければなりません。

▼「塘沽停戦協定」締結

1933(昭和8)年5月、日本は中国と「塘沽(タンケー)停戦協定」を締結し、関東軍が長城以北に引き上げ、長城線南側に非武装地帯が設置することなどを決め、「満州事変」は一応のピリオドを打つことになります。後年、昭和史を振り返って「満州で止まっていたら」と回顧される度に必ず引用されるのが本協定です。

戦後、日本の進歩的文化人は、日本の「中国侵略」を強調したいあまり、日中戦争の起点を「満州事変」までさかのぼらせ、「15年戦争」と呼称し、中国からも歓迎されて頻繁に用いられています。冒頭に紹介した日中の共同研究においても、中国を説得できなかったのか、その考えを容認しているように見えます。

しかし、「満州事変」が本停戦協定で一応の決着をみていることは、国際法上も、歴史的にも事実と考えます。ちなみに、停戦協定(休戦協定)は、講和条約ほど恒久性はありませんが、朝鮮戦争停戦のように、講和条約交渉のないまま戦闘停止状態が続いている事例もあります。

満州国は当時の世界の約60カ国のうち、20カ国が承認しています。1934年にはローマ法王庁が承認し、イタリア、スペイン、ドイツなども続いて承認します。ソ連も事実上承認の関係にありました。満州に住んでいた漢人さえも蒋介石と一緒になることを望んでなかったといわれます。逆に、ソ連の傀儡だったモンゴル人民共和国については、ソ連1国しか承認していませんでした。

これらを総合しますと、終戦後の烙印とは別に、当時の内外情勢を打開するための処置として「満州国建国は一理あった」と考えるべきではないでしょうか。

なお、「塘沽停戦協定」締結後、80万人の国民政府軍は、15万人の共産軍を包囲殲滅する作戦に乗り出し、共産軍はそれまで築いてきた各地のソビエト地区を放棄して延安に逃れます。これを、国府側は「2万5千里の追剿(ついそう)」と呼び、中共側は「長征」と呼びます。(つづく)

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