Home»連 載»歴史シリーズ»「我が国の歴史を振り返る」(28) 揺れ動く内外情勢の中、「明治時代」から「大正時代」へ

「我が国の歴史を振り返る」(28) 揺れ動く内外情勢の中、「明治時代」から「大正時代」へ

1
Shares
Pinterest Google+

▼はじめに
本シリーズの読者であれば、『戦争にチャンスをあたえよ』を知っている方も多いと思いますが、本書は、独特の戦略論を展開している、アメリカの有名な戦略家エドワード・ルトワックの近著で、2年ほど前に日本語にも翻訳されました。
ルトワックは、「戦争は巨悪であるが、政治的な紛争を解決し、平和をもたらす大きな役割を果たしている」として、「このような事態は、すべての参戦者が戦いに疲れたり、誰かが決定的に勝利した時に発生する」と(だから、紛争に介入するな!とも)解説しています。たしかに大東亜戦争後の我が国の“平和”や日米同盟は、ルトワックの言う“戦争がもたらした結果”であることは疑いようがありません。
ルトワックはまた「平和は戦争につながる」とも唱えています。つまり、「平和は、脅威に対して不注意で緩んだ態度を人々にもたらし、脅威が増大してもそれを無視する方向に関心を向けさせる」として、「『まだ大丈夫だろう』が戦争を招く」と警鐘しています。この言葉は、我が国の現在の“平和”の「あやうさ」を暗示しているようにも受け取れます。
今回はまず、ルトワックがいうところの“戦争が平和をもたらした”歴史上の事例として、日露戦争後の日本とロシア帝国の関係を取り上げまましょう。

▼“蜜月関係”にあった日本とロシア帝国
現下の情勢からは信じられないような話ですが、「日露戦争」後のわずか10年余りでしたが、日露関係は、まさに大東亜戦争後の日米同盟のような“蜜月関係”にありました。歴史教育ではなぜかこの事実を詳しく教えないので、この事実を知っている方はかなりの“歴史通”と言えるでしょう。
元を辿れば、伊藤博文が日露戦争前に「日露協商」実現に動いたものの、ロシアを仮想敵国とする「日英同盟」の成立により挫折し、開戦に向かったという経緯があります。その伊藤は、1909(明治42)年、ロシアの蔵相ココツェフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うためにハルピンを訪れた際に暗殺されたのでした。
伊藤が望んだように、「ポーツマス条約」締結後の1907(明治40)年から1916(大正5)年まで、日露両国は、4次にわたり「日露協約」を結び、朝鮮、満州、内蒙古、極東などにおける両国の権益を相互に確認することになります。
「第1次協約」(07年)では、公開協定として、日露両国が清国との間に結んだ条約を尊重するとともに、清国の独立、門戸開放、機会均等を掲げます。一方、秘密協定(清国には内緒)で「満州については、長春から南を日本、北はロシアの勢力圏」と決めます。
「ポーツマス条約」では、関東州の租借権と東清鉄道南満州支線・付帯地の権益だけだったものが、この「日露協約」の秘密協定により我が国は南満州の大陸経営まで行うことになります。しかし、前回触れましたように、「満州問題に関する協議会」において、陸軍の満州統治の願望に伊藤博文が「待った」をかけたことに加え、我が国は戦争で予算が底をつき、借金も膨らんでいたこともあって、しばらくの間、大陸経営は、半官半民の「満鉄」(南満州鉄道株式会社)が担当することになります。
やがて、ロシア帝国が革命によって倒れ、ソビエト政権が成立すると、中国の共産化を画策する手段として反日を宣伝するため、この「秘密協定」を暴くという手段に出ます。他方、満州統治の陸軍の願望は脈々と受け継がれ、昭和に入り、ロシア革命後の共産主義の脅威に対処するとの目的で関東軍が独立し、「満州事変」によりその願望を実現して行きます。細部については昭和時代に触れることにしましょう。
話を元に戻します。日露による分割支配の動きに対して、1909(明治42)年、今度は米国国務長官のノックスが「全満州鉄道の中立化」を提案してきました。表向きは「日露が支配する鉄道を清朝に譲渡し、列強の権益争いから中立化させる」ことでしたが、その狙いは「国際管理の体制を敷き、米国資本の参入」を狙ったものでした。
日露両国は、1910(明治43)年、「第2次協約」を結び、米国の中立化提案を拒否して満州権益の確保のための防衛協定を結びます。“日露両国が協力して米国の進出に待ったをかけた”のでした。
その頃、欧州では、第1次世界大戦の対立軸となった独・墺・伊の「三国同盟」に対して、英・仏・露の「三国協商」の体制が出来上がっていました。英・仏両国は、「日英同盟」に加えて「日仏協商」(1907(明治40)年)を結び、日本にロシアへの接近を促したこともあって、米国のノックス案には否定的で、結局は葬り去られます。この決定には、新参者・米国に対する欧州列国の“意地”があったのかも知れません。

▼清の滅亡のその影響
明治時代末期の頃、我が国の周辺でもう一つ大きな事件が起きます。1911(明治44)年、中国で「辛亥革命」が発生し、清が300年の歴史を閉じて滅亡します。清朝時代、満州は清王朝発祥の地ということで“特別の地位”が与えられていました。その清王朝が滅亡したことによって、日露両国は思わぬ余波を受けることになります。
この「辛亥革命」に対応するため、1912(明治45)年、日露は「第3次協約」を結び、内蒙古の西部をロシア、東部を日本とそれぞれ利益を分割します。こうした一連の「動き」が、やがてその後の日中両国が不可逆的な対立に陥るきっかけともなる「対華二十一箇条の要求」(1915(大正4)年)に繋がっていきます。これについても詳しくは後述しましょう。
明治時代の末期以降、我が国はこれまで述べてきたような“全方位外交”の舵取りを求められます。ロシア帝国とは“昨日の敵は今日の友”となって、実質的に「三国協商」の枠組に参加することになりますが、米国との摩擦や中国との対立が益々増大化します。
ロシア革命が起きた後は、ロシアとの“蜜月関係”も終焉しますが、その後の歴史の中でも、“全方位外交”の成否が我が国の命運を握ることになります。事実、予期せぬ事態が数多く発生するという“不運”もあるのですが、「激動の昭和」に至る“道筋”は、この頃が出発点だったような気がします。

▼“理想の立憲君主”明治天皇の崩御
1912(明治45年)年7月30日、国民の祈りも届かず、明治天皇が59才の若さで崩御されます。持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発したのでした。明治天皇は、欧州列国が我が国に迫り来る中で“世界史の奇跡”といわれた「明治維新」を成し遂げられて以来、約45年間、臣下に「天皇親政」の動きもあった中で「立憲君主」を貫き通しました。
そして、西南戦争や日清・日露戦争と数多くの人が命懸けで戦って困難を乗り越え、時の政権担当者も移り変わった中で、明治天皇だけは“不動の存在”として、まさに“自らの意志で権力の行使を抑制する”「立憲君主制」の基礎を確立されたのでした。皇子昭宮が薨去(こうきょ)されたとの報を受けたその時でさえ、「憲法会議」の中止を指示されず、自らの務めとして最後まで出席しておられた旨の逸話も残っております。
ちなみに、19世紀当時、世界には6人の“皇帝”がおりましたが、第1次世界大戦終了までに日・英2国以外は滅びてしまいます。その主要因は、皇帝達が「親政」を行ったことです。我が国の終戦時においても、天皇は「立憲君主」だったか「親政」だったかが議論になりますが、「立憲君主」だった(と認められた)が故に廃帝を免れます。
そう考えますと、明治天皇のご聖断は「万世一系」を継続させ、我が国の未来を救ったと言えるのではないでしょうか。その“理想の立憲君主”明治天皇が崩御され、明治時代は終焉します。

▼「大正時代」の歴史書がない!
このように揺れ動く内外情勢の中、時代は、「明治」から「大正」へ変わります。私的なことで申し訳ないですが、私の父は、明治の最後の年45年4月8日の生まれです(偶然にも誕生日は私と同じです)。そして平成14年に92才で亡くなりました。ちょうど、私が「歴史」に興味を持ち始めた頃でした。本歴史シリーズを執筆しながら、明治の終わりから大正時代は、まさに父や母が生まれ育った時代ということに思いが至り、にわかに身近に感じています。
「大正時代」は、「大正デモクラシー」に代表されるように、“国民の政治参加も可能となり、意欲に溢れるリーダー達がさわやかに我が国の舵取りを行った時代”とのイメージがありますが、不思議なことに「大正時代」と冠した書籍は本当に数えるほどしかありません。
確かに15年という短い期間であり、歴史家の研究の対象にならなかったのかも知れませんが、「大正時代」が「明治」から「激動の昭和」に至る“道筋”を決めたことは間違いなく、個人的には注目してこの時代を振り返る必要があると認識しています。

▼「明治時代」と「大正時代」の違い 
長い間、「明治時代と大正時代は何が違うのだろうか」と考えていた時、『地ひらく』(福田和也著)という石原莞爾の伝記を読み直す機会がありました。
その中で、「石原莞爾自身も明治と大正の時代の違いを真剣に考え、やがてそれが石原の高邁な戦略論に発展する」旨のくだりを読み、何か“胸の痞え(つかえ)”がおりたような気分になりました。
その概要は次の通りです。「明治維新から日露戦争までは、西欧列国に伍して対等な独立国を建国するために、国民からすれば、国それ自体が至高な価値だった。だからこそ、国は、それだけで人々の生命を要請でき、国民(兵士たち)は進んで自らの命を国のために投げ出した(この献身の象徴こそが乃木希典であった)。しかし、日露戦争が終わり建国のドラマが幕を閉じた後は、国が至高な価値ではあり得なくなり、時代全体が国よりも大きな価値を求め始めた」というのです。
石原自身は建国の時代が終わった自失と虚脱から田中智学の日蓮主義に走るのですが、「大正時代」に入り、多くの国民が“国よりも大きな価値”を求めた結果が「大正デモクラシー」の興隆と政党政治の実現に繋がったと考えます。
そして大正末期、「大正デモクラシー」の総決算として(国民の政治参加を拡大した)「普通選挙法」と(共産主義者などを取り締まるための)「治安維持法」が制定されます。
やがて昭和に入ると、「大正時代」の反動のように国家社会主義的な思想が跋扈(ばっこ)し、複雑さを増す周辺情勢の変化もあって国の舵取りが混乱する中、「激動の昭和」に直面することになります。
そのように、時代とともに“国民精神の変遷”の走りとなったのがまさに「大正デモクラシー」だったのです。次回から数回に分けてもう少し詳しく「大正時代」を振り返ります。世界に目を転じれば、第1次世界大戦やロシア革命のように、その後の国際社会に大きな影響を及ぼす事象も「大正時代」に起きています。(以下次号)

Previous post

「我が国の歴史を振り返る」(27) 20世紀を迎え、様変わりした国際社会

Next post

令和大恐慌回避のために、財務省の増税&緊縮路線を打破する論理