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「我が国の歴史を振り返る」(24) 「日露戦争」の経過と結果(前段)

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▼はじめに(「日露戦争」について)

 今回から2回に分けて「日露戦争」の経過と結果を振り返えろうと思います。「日露戦争」は、私にとりましては、自衛官時代に「戦史」として学んだこともあって、とても“なじみ”があります。何と言っても“勝ちいくさ”ですからつい筆が走ります。

ただ、戦争や軍事については、よほど興味のある人以外は少し難解かと思います。だからこそ、物語にしてしまう小説家は別にして、これらの細部については高名な歴史家の先生方などもあまり立ち入らない分野なのですが、「徴兵制」を発布してわずか30年あまり、こんなにも強かった明治時代の先人達に敬意と感謝を込めて“戦場の実相”をなるべく正確に振り返りたいと考えます。

なんせ、地の利はあっても、相手は当時、世界最強ともいわれた軍事大国・ロシアです。先人達が“しびれた”ことは容易に推測できます。

翻って、現在の日本人にはこのような「強さ」があるのだろうか、ないのならその原因は何だろうか。周辺情勢などから再び強くなる必要はないのだろうか、強くなるためにはどうすればいいのだろうか・・。

アメリカや中国やロシア、そして何かと腹立たしい某半島などの狭間に位置し、地政学的にも「ひよわな花:日本」が未来永劫に安寧を維持するためにいかにあるべきなのだろうか、これらのヒントを得るために歴史から何を学べばいいだろうか・・・などを考えつつ、いつも原稿に向かっていますが、皆様にも本歴史シリーズを通じて一緒に考えていただければ望外の喜びです。

▼朝鮮半島の確保

さて、「日露戦争」においては、「旅順要塞の攻略」「奉天会戦」、「日本海海戦」などが有名ですが、それらの前後の経過も簡単に振り返ってみましょう。まず、日露戦争の原因ともなった朝鮮半島の戦闘です。戦争の目的はこの朝鮮半島を確保することでした。

両国の激突は、第22話で取り上げましたように、1904(明治37)年2月8日、海軍の戦闘から始まります。連合艦隊(東郷平八郎司令官)の駆逐艦が旅順港外にあった露国艦隊を攻撃し、露艦を旅順港内に追い込みました(うち2艦は自沈)。その後、日本側は、軍神・広瀬中佐が戦死することになった旅順港の閉塞作戦を敢行します。この作戦が功を奏して、以来、同年8月頃まで旅順艦隊は港内に引きこもったままになり、黄海の制海権は完全に我が国が掌握することになります。

朝鮮半島の確保のため、日本軍の第1軍(司令官黒木為楨(ためもと)大将)は、先鋒を仁川に上陸させ、京城(ソウル)から平壌(ピョンヤン)に前進する一方、主力を鎮南浦(平壌西側)に上陸させ、鴨緑江に向かいます。こうして、朝鮮半島の確保を巡る日露陸軍の最初の衝突が「鴨緑江の会戦」となります。

日本軍の3コ師団に対してこの正面の露軍は約8コ師団、しかも鴨緑江という河川障害を活用できたのでした。しかし、5月1日払暁、日本軍は一斉に攻撃し、わずか1日で渡河を敢行した上、国境の既設陣地を突破し、満州の橋頭堡を確立してしまいます。

▼遼東半島南部の攻防から「遼陽会戦」まで

それ以降、陸戦のステージは、遼東半島南部の攻防に移りますが、このため、我が国は第2軍(司令官奥保鞏(やすたか)大将)を投入し、遼東半島に“無血上陸”します。

開戦以来、日本海軍は黄海の制海権を保持していましたが、露国の旅順艦隊は強力な陸上砲台に守られて港内に健在していました。大本営は、旅順要塞を攻略することを決定し、新たに2コ師団基幹の第3軍(司令官乃木希典(まれすけ)大将)を編成します。その一方で、露軍が遼東半島に南下しつつあることを知って、6月以降、遼陽をめざして第1軍に朝鮮半島から西進、第2軍に遼東半島西側を北上させます。

作戦の進展に伴い、6月23日、「満州総司令部」(総司令官大山巌(いわお)元帥、総参謀長児玉源太郎大将)を編成し、満州軍を指揮下に入れました。そして、戦争終結のきっかけをつかもうと考えていた日本は、次の「遼陽会戦」を重視し、新たに第4軍(司令官野津道貫(みちつら)大将)を編成して第1軍と第2軍の中間にあたる遼東半島東側を北上させます。

8月上旬、遼陽付近に所在した露軍は13コ師団基幹の20万人以上、8月中旬以降、更に増援が到着すると判断されたのに対して、日本軍は9コ師団基幹の約13万人で挑みます。しかも堅固に陣地を占領し、迎撃準備を整えていた露軍に対して「包囲」(敵の側面や背後に対する攻撃)の態勢をとって決戦を求めたのでした。

こうして、8月24日~9月4日、東方から第1軍、第4軍、第2軍をもって遼陽に向かって攻撃し、ロシア軍と死闘を繰り返しましたが、相互に兵力や弾薬不足に陥り、露軍司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させます。日本軍は遼陽を占領したものの、追撃せずに遼陽付近で停止します。のちに軍神として称賛された橘中佐が戦死したのが本会戦だったことも付記しておきます。

この後の10月9日から20日、逆に露軍が攻勢に出て、日本軍の防御の前に失敗した「沙河の会戦」などを経て、決戦は翌春の「奉天会戦」に持ち越されることになりました。

▼「旅順要塞の攻略」の真実

少し前後しますが、司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」で有名になった「旅順攻略」についても振り返ってみましょう。

「旅順攻略」については、陸軍は「遼東半島を北上する背後に露軍戦力を残置するのを危険」と判断して攻略しようとしますが、海軍は、当初、陸軍の援助なしに独力で旅順艦隊を無力化しようと固執し続けます。しかし、それが失敗し、バルチック艦隊の極東回航がほぼ確定するや、拒み続けてきた陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなったというのが真相のようです。この辺にも陸軍と海軍の確執があったものと推測します。

7月12日、ようやく海軍から陸軍に対して旅順艦隊を追い出すか壊滅させるよう正式に要請が入ります。しかも、「バルチック艦隊が10月頃に極東に到着する」と見積りを誤った海軍が陸軍を急かします。

結果として、乃木大将を司令官とする第3軍は、旅順要塞に対して第1次から第3次と3回にわたり総攻撃を実施します。まず第1次攻撃は、8月19日、海軍が急かしたこともあって、兵力不足、準備不足、敵の状況不明のまま、旅順の東北に位置する永久堡塁群を強襲した所、大きな損害を出して失敗に終わります。日清戦争時、「東洋一の要塞」と言われた旅順をわずか1日で落とした経験が逆に仇となったものと考えます。

第1次攻撃の失敗にかんがみ、第3軍は、正攻法で攻撃することを決し、内地から28センチ砲を運搬し、攻撃準備に着手、10月26日、再度、総攻撃を実施しますが、再び失敗します。「いかなる大敵が来ても3年は持ちこたえる」とロシア軍が豪語した旅順要塞はベトンで塗り固められ、それらを塹壕(ざんごう)で結ぶ最新式の大要塞だったのですが、この情報を察知していなかったのです。

ロシア軍は、50年前のクリミア戦争で要塞戦の経験があったのですが、そのようなロシアの戦史についてだれも研究していませんでした。その上、“肉弾”に頼ったのは、砲弾の補給が追いつかなかったという事情もあったようです。

10月半ば、「バルチック艦隊がバルト沿岸を出港した」との報が届くや、海軍はマスコミを使って国民の恐怖心をあおり、乃木批判を巻き起こします。こうして、11月26日から再び旅順東北部を目標に第3次攻撃が敢行しましたがまたもや頓挫、ここに来てようやく海軍が要求した203高地に攻撃目標を変換、12月5日、ついに203高地の奪取に成功します。それでも露軍は抵抗し続けますが、翌年の1月1日に降伏し、旅順要塞の攻防に決着がつきます。

▼乃木大将は愚将だったのか

乃木大将の名誉のために付け加えれば、「乃木愚将論」を指摘する司馬遼太郎の小説にはいくつか史実と違う箇所があります。それを解明するのが本メルマガの目的ではないのですが、海軍が要求した203高地攻撃を拒否し、旅順東北部の永久土塁群に拘ったのは乃木大将ではなく満州軍総司令部だったこと、そして総参謀長児玉大将が28センチ砲の投入を決断したことや作戦の途中で乃木大将に代わって指揮を取ったというくだりにも疑問を持ちます。児玉大将が視察のために旅順入りしたのは第3次攻撃半ばの12月1日だったとの記録がありますし、乃木大将名義の「203高地西南部への突撃命令」(陥落前日の12月4日付)も現存しています。

また小説では、203高地に観測所を設けて28センチ砲で湾内の艦隊を壊滅させたようになっていますが、実際には8月以来の海軍重砲隊による攻撃などで艦船の上部構造部は破壊され、戦闘能力の大半をすでに喪失していたようです。  

“歴史小説とはそのようなもの”かも知れませんが、後世とは言え、烙印を押された方はたまったものでありません。陸軍と海軍の確執を背負い、膨大な犠牲が出しながらも、第3軍の士気が少しも衰えなかったのは、ひとえに乃木大将の“統率力”の賜物であります。さもなければ、明治天皇からあれほどの信頼を得ることは出来なかったはずです。

失礼を承知で申し上げれば、司馬氏は“プロの歴史小説家”ではありましたが、実戦経験がない陸軍少尉で終戦を迎えたことから、大部隊の作戦、さらに指揮官の指揮や統率の“本質”を見抜く知見があったかどうか、個人的には今でも疑問に思っています。

▼「奉天会戦」、そして終戦へ

1905(明治38)年に入り、旅順が陥落するなど劣勢にあった露軍は、奉天付近に32万人の兵力を集結させます。これに対して、日本軍の総勢は、どうにか旅順攻略を終えて参戦できた第3軍を合わせても当時の動員力の限界と言われた約25万人でした。「今度こそ、日露戦の関ヶ原」と決戦を決め、作戦を練ります。

攻撃の火蓋は、最右翼(最東側)、つまり露軍左翼後方に新たに編成された鴨緑江軍(司令官川村純義(すみよし)大将)に切って落とさせ、それに連携して第1軍、第4軍、第2軍、最後に第3軍を左翼から機動させて大胆な包囲網を構成して、ロシア軍を包囲殲滅しようというものでした。

陸上自衛隊の幹部自衛官は、戦術教育で「攻撃は少なくとも防御の3倍の戦力が必要」と学びます。防御側は地形や時間を利用できる分、戦力的に優位になるからです。その常識からすると、(「鴨緑江の会戦」や「遼陽会戦」もそうでしたが)我より優る兵力(約1.3倍)で防御する敵に対してこのような大胆な包囲攻撃を敢行することは何とも不思議でなりません。

しかし、実際には、2月21日に鴨緑江軍が行動開始して以来、日本軍はほぼ計画どおりに攻撃します。同日、敵将クロパトキンは、解氷期前に日本軍に痛打を与えようと攻撃前進を命じ、「退却する者は、日本軍の弾丸に倒れず、退却を罰する剣の錆(さび)となろう」と将兵を叱咤しますが、日本軍の先制攻撃によって初動でくだけ、3日後の24日、早くも攻勢を断念して奉天市を背にするような態勢で防勢一方に陥ってしまいます。

その後、ロシア軍は至る所で陣地が破綻、3月8日に総退陣し、ついに3月10日、両軍合計57万人に及ぶ史上最大の大会戦となった「奉天会戦」は日本側の圧勝で決着します。このニュースに各国は驚愕し、国内は歓喜しました。 

すでに紹介しましたように、遠くハルピン付近まで後退して日本軍を撃破しよう計画していたクロパトキンの退却決心は計画どおりだったのかも知れません。しかし、本会戦後に解職されてしまい、実質的に陸戦は「奉天会戦」をもって終了しました。

なお、日露戦争直後、「奉天会戦」に勝利した3月10日は「陸軍記念日」として、「日本海海戦」に勝利した5月27日の「海軍記念日」と並び、国民の休日となりましたが、終戦をもって廃止されました。「日本海海戦」などについては次回取り上げましょう。

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