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「我が国の歴史を振り返る」(23) 日露の「戦力」と「作戦計画」比較

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▼はじめに(「優勝劣敗」について)
 さて、「戦争(争い)の勝敗」は、一般的には「優勝劣敗」つまり「力(戦力)」が勝っている側が勝利します。この「力」には「有形」と「無形」の要素があります。「有形」の要素には兵員数、兵器や艦船などの質・量、そして、現代戦では国の経済力や生産能力なども含みます。
「無形」の要素の代表が戦略や戦術、それらを具体化した「作戦計画」、そして指揮官の指揮能力や兵士の士気(強さ、戦う意欲)、さらに為政者の資質や国民精神などもこれに入るでしょう。
しかし、この「優勝劣敗」の原則は、「核兵器」の出現によって様変わりしてしまいました。核兵器の破壊力があまりに強大でかつ後世まで影響を及ぼすことから、「争い」とか「勝敗」の持つ意味そのものまで全く変わってしまったのです。
ここ数年の米朝首脳会議の焦点はまさにこの核兵器です。アメリカ対北朝鮮のGDP比はおよそ1000対1、核戦力を含む戦力比にも“雲泥の差”があります。北朝鮮にはミサイル防衛のような防御手段も全くないので、米朝はけっして“対等”ではありません。
これまでの常識なら「優勝劣敗」どころか「争い」そのものが生起しません。それが(対等のように)首脳会談まで行われるのは、「国家のために国民(人民)がある」として国民の犠牲を厭わない独裁国家・北朝鮮と、「国民のために国家がある」として国民の生命財産を守ることを最優先する民主主義国家・米国の差違が背景にあります。
つまり、一発の核兵器の持つ意味が全く違います。北朝鮮には国土の荒廃を顧みず、さも“対等”であるかのように傍若無人に振る舞う“異常さ”があることを認識しなければなりません。
歴史を振り返れば、キューバ危機(1962年)時のソ連は、北朝鮮のような、自国の損害無視という非情な戦略を採用できず、戦わずして“降参”しました。
最近緩和しているとはいえ、「米中経済戦争」も経済戦争の範囲で留まるか、最悪の場合に武力戦争にまで発展するか、現時点ではだれも予測できません。その理由は、習近平指揮いる、共産主義・独裁国家の中国が北朝鮮のような非情な戦略を採用するか、ソ連のような戦略にとどまるか、予測できないからです。
冷戦が終わり、ソ連が消滅してまもなく30年になりますが、私達は「我が国と全く違った文化や価値観を持つ“異質な国”が隣国に2カ国も存在している」という事実をしっかり認識する必要があるのです。
話が逸れ、前置きが長くなりました。今回から、上記のような“未来の戦争”に繋がる第一歩となり、「第0次世界大戦」とも言われる「日露戦争」を振り返ります。特に戦力的に劣勢だった日本がなぜ勝利できたのか、が焦点です。

▼両国の「戦力」比較
まず日露両軍の「戦力」の比較ですが、我が国は、「日清戦争」後、特に「三国干渉」に憤怒した国民感情の後押しもあって将来の日露衝突に備えて軍備拡張を強行したことは前にも触れました。その結果、開戦前年の1903(明治36)年には、陸軍は野戦13コ師団、2コ騎兵旅団、2コ砲兵旅団など(総計歩兵156コ大隊、騎兵54コ中隊、野戦砲兵106コ大隊、工兵38コ中隊)が完成しました。
当時の師団は、歩兵2コ旅団(12コ大隊からなる4コ連隊)、騎兵1コ大隊、砲兵1コ連隊、工兵1コ大隊などで編成され、兵員約18,500人、軍馬5000頭からなる立派なものでした。兵役も現役、予備役、後備役に加え、各種の特設部隊も編成されていました。
兵器は、歩兵銃、騎銃、野砲(最大射程6000㍍〔戦争中に7750㍍に改造〕)や山砲(射程4300㍍)などに加え、未知の新兵器と言われた機関銃を導入し、臨時に機関銃隊を編成していました。なお、戦争末期には14コ野戦師団、2コ後備師団、10コ後備歩兵旅団などまで増強され、戦争参加者は、戦地と後方勤務の軍人と軍属を合わせて108万人を超えました。
海軍は、戦艦6隻、巡洋艦6隻を含む軍艦152隻約26万㌧を保有しており、戦争中に購入・建造・捕獲したものなど約13万㌧を加え、総計約40万㌧の艦艇で戦いました。
これに対してロシア軍は、平時31コ軍団を主に総勢力として歩兵1740コ大隊、騎兵1085コ中隊、砲兵700コ大隊、工兵220コ大隊など約208万人からなり、既訓練兵は500万人以上を数えていました。しかし実際に戦争に参加したのは、極東総督管下の4コ軍団の満州軍、2コ師団基幹の沿海州方面守備軍、東部シベリアに所在した関東軍1コ師団基幹の所在部隊に加え、シベリア鉄道で戦場に輸送された者は129万人の規模に達しました。
ロシアは、単線のシベリア鉄道で極東に到着した列車車両を焼却して復行させることなく、一方運行によって輸送力を強化してこの大兵力の輸送を成し遂げたのでした。兵器の質は日本とおおむね同等でしたが、ロシアも採用していた新型の機関銃は日本軍を苦しめました。
ロシア海軍は、バルチック、太平洋、黒海、カスピ海の4艦隊に区分され、総計は80万㌧でしたが、実際に戦争に参加したのは、太平洋艦隊とバルチック艦隊を合わせた約28万㌧でした。
日本側は、「ロシア軍総陸軍兵力は約7倍に上がるが、シベリア鉄道の輸送力から極東で使用できる兵力は約25万人程度」と見積もり、“ほぼ互角”と判断していたようです。
実際には、その約5倍の125万人超が増員され、日本側の投入兵力も増大することになりました。海軍は、極東艦隊だけなら日本の約7割でしたが、バルチック艦隊が合流すれば約1.8倍になり、“著しく不利になる”と判断していました。この判断がのちの「日本海海戦」に繋がります。

▼両軍の「作戦計画」比較
両軍の「作戦計画」の概要も比較しておきましょう。日本側の陸軍作戦の概要は次の通りです。
① 3コ師団をもって敵に先立って朝鮮半島を占領する。
② 満州を主作戦地として陸軍主力を使用し、敵の野戦軍を撃滅するため、まず遼陽に向かって作戦する。
③ ウスリーを支作戦地とし、1コ師団をもって敵を牽制する。
これに基づき、第1期を「鴨緑江以南の作戦」、第2期を「満州作戦」としました。とは言え、第2期については開戦までほとんど具体的計画はありませんでした。これをもってしても、当時の日本が朝鮮半島を確保するため、追い詰められたまま開戦に踏み切った事実を覗い知ることが出来ると考えます。
海軍の作戦は、「敵の艦隊が旅順、ウラジオステックに2分され、その戦備の未完に乗じて急襲撃破し、極東の制海権を獲得する」としていました。バルチック艦隊の出航は、開戦から8ヶ月後の1904年10月15日でしたので、当初の作戦計画には、「日本海海戦」はありませんでした。
これに対して、当時のロシアの関心はあくまで欧州方面が主であり、極東正面には具体的な計画が何もなかったようですが、ようやく1901年、「対日作戦」の概要が作られました。これによると、日本の上陸兵力は約10コ師団であり、ロシア艦隊が存在する限り、上陸地は韓国沿岸と判断していたようです。
ロシア陸軍の作戦は、「欧州、シベリア等から増援し、主兵力を遼陽・海城等に集中、鴨緑江から分水嶺付近を利用して日本軍を遅滞し、旅順に向かう側背から脅威を与えつつこれを北方に誘致する。日本軍の圧迫が急な場合は、決戦を避けて退却して、この間、増援しつつハルピン付近で決戦を行う」というものでした。
「日露戦争」における陸戦は、事実上「奉天会戦」(1905(明治38)年3月1~10日)で終結しましたが、ロシアはさらに500㌔以上も北に位置するハルピン決戦までも視野に入れていました。のちの「ポーツマス講和条約」締結交渉において、ロシアが強気な姿勢をくずさなかったのは、まだ戦い続ける「計画」と「意志」があったからでした。

▼なぜ日露両国のみの戦争に留まったか 
さて、「日露戦争は第0次世界大戦だった」と分析する歴史家がいることを紹介しましたが、戦争の特色が①総力戦、②機関銃の本格的な使用、などから戦史的に重大な節目になったのがその理由になっています。
「日露戦争」には、欧州などから70人以上の「観戦武官」が派遣され、両国の戦いを間近に観戦していました。この「観戦武官」制度の起源は明らかではないのですが、19世紀半ば頃に確立したと言われます。我が国からも「普仏戦争」時の大山巌、「米西戦争」時の秋山真之などが有名ですが、「日露戦争」時には、イギリス、アメリカ、ドイツを含む13カ国から派遣の申し入れがありました。
特に「日英同盟」のイギリスからはハミルトン中将以下33人の大所帯、アメリカからはマッカーサー中将(ダグラス・マッカーサーの父)らが観戦し、戦場の実相や戦法などが「観戦武官」を通じて世界中に拡散し、この後の戦争に多大な影響を及ぼすことになります。
ちなみに、この「観戦武官」制度は、第1次世界大戦以降は自動車や航空機などの輸送手段の発達によって「戦域」が広がり、1人の武官が戦闘を観ることが不可能になったため、自然消滅します。
他方、「日露戦争」は、戦争そのものは日本とロシアの2国に留まりました。それにも訳があります。1904(明治37)年2月8日に戦争が始まり、9日にロシア、10日に日本が宣戦布告すると、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアなど西欧諸国のほとんどが「局外中立」の声明を出します。
まさに「1カ国と交戦状態になった場合は中立を守り、2カ国以上と交戦状態になった場合は参戦の義務がある」と定めた「日英同盟」がフランスをはじめ他国を牽制したのでした。
清国も満州除く各省及び内外蒙古の「局外中立」の声明を発しました。韓国(大韓帝国)は当初、日露のいずれに付くか迷っていましたが、日本の第1軍が仁川に上陸して京城を経て平壌に前進し、かつ旅順沖の緒戦で日本が勝利するやようやく態度を決し、2月23日、日本の軍事行動に対する便宜供与を含む「日韓議定書」に調印します。
また、日露戦争勃発後の4月8日、イギリスとフランスは、ドイツのアフリカ進出に対する警戒から「英仏協商」を締結します。これによって、「百年戦争」(14~15世紀)以来、数百年にもわたる英仏間の対立関係は終止符を打ちました。
この条約は、やがてロシアを含む「三国協商」に発展しますが、この時点では、ロシアに痛手を与えることになります。ロシア外交の基軸だった「露仏同盟」が「日英同盟」に対抗する力を持たないことが明らかになったのでした。
今回は、地味な内容となりましたが、孫氏の兵法に「彼を知り己を知れば百戦殆(あや)うからず」とあるように、彼我の「戦力」や「作戦計画」の静的な比較は、戦争の歴史を振り返る上でとても重要ですので、あえて詳しく触れてみました。(以下次号)

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