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「我が国の歴史を振り返る」(22) 「日露戦争」開戦までの情勢

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▼はじめに(新コロナウイルスについて)
 ここまでくると、新型コロナウイルス問題に触れないわけにはまいりません。日々新たなニュースが世の中にあふれ出し、あたかも中国発の新型ウイルスが急激に蔓延し、明日にも人類社会が大パニックになるような雰囲気すら感じます。
SARSが大流行した時、北京で勤務していた元外務官僚の宮家邦彦氏はその経験から「中国の実態は発表の10倍」と指摘しています。2月1日現在、中国の患者は約1万人、死者259人との発表ですから、実態はその10倍と推測すれば、患者約10万人、死者約3千人弱ということになるでしょう。しかも日々これらの数字が増え続けていまして、映像などをみるに、発症地の武漢などが悲惨な状況下にあるのは間違いないでしょう。
しかし、冷静に考えてみましょう。毎年発生するインフルエンザは、予防注射などの医療体制が完備しているのにも関わらず、世界中で毎年の死亡者は約25~50万人を数え、日本でも約1000万人が感染し、約1万人が死亡していると推定されています。しかし、その状況が日々報道され、社会現象になることはほとんどありません。
ネットを覗くと、「怖いのはインフルエンザ」と声をあげる専門家の投稿も散見されます。確かに、現時点では新型ウイルスに対するワクチンなどもなく、不安でないと言えば嘘になりますが、やがて人類の英知によってワクチンも開発されることはまず間違いないでしょう。
専門家は、「大したことはないと言い切るのはいけないが、さりとて、過度に騒ぎ立て不安をあおるような報道とそれに過敏に反応するのは問題」と指摘しています。今、大方の国民に求められているのは、「侮らず、冷静に対処する」ことであろうと思います。
私は、これまでの人生に一度もインフルエンザにり患した経験がなく、最近は予防注射も打たなくなりました。しかし今年は、地下鉄など人ごみの中ではマスクをすることや手洗いを普段より多くすることなどを心がけてだいぶ前から実践しています。自分自身の免疫力を信じつつしばらくはそれで充分と思っています。
さはさりながら、このような国民の最大関心事や英国のEU離脱、自衛隊の中東派遣などを目の前にして、相変わらず些末な問題に明け暮れる先生方を処方するワクチンはないものかと呆れますが、皆様、「侮らず、しかし冷静に」対処しましょう。

▼ロシアの「南下政策」
戦後、「日露戦争は日本の侵略戦争だった」との説が―特に最近のネットではそれが史実であったかのように―流布されているようです。「侵略戦争」の定義は難しいですが、仮に日本侵略説が正しいのであれば、逆に、「ロシアにとって、日露戦争は自衛戦争だったのか」とか「ロシアがなぜ我が国との戦争に踏み切ったのか」などと“ロシア側の事情”に興味を持ちました。
幕末、日本に進出し始めた頃のロシアは、他国に比して我が国を対等に扱っていました。1855年に結ばれた「日露通好条約」は、領事裁判権(本国の領事による裁判を受ける権利)が“双方”に認められ、関税自主権も3年後には改定されました。
それが豹変したのは「三国干渉」からでした。その原因はどこにあったでしょうか。本シリーズ第20話でも、ロシア国内にも「三国干渉」反対の意見もあったと紹介しましたが、当時のロシアの国内事情を振り返ってみましょう。
9世紀以降、領土拡大を続けたロシアは、すでに広大な領土を保有していましたが、外洋への進出は、その出口が他国に支配されているか、冬には凍って使用できない港のみで、どちらも大きな障壁となっていました。よって、外洋への出口や不凍港を求めての「南下政策」は、ロシアにとって“至上命題”となりました。
16世紀以降、ロシアはバルカン半島にその活路を求め、オスマントルコ帝国と、時には西欧諸国を巻き込みながら幾度となく戦争を繰り返してきました。
19世紀になってからは、クリミア戦争(1853~56年)では英仏の支援を得たオスマントルコに敗北しましたが、露土戦争(1877~78年)ではロシアが勝利し、バルカン諸国の独立を回復しました。しかし、ロシアの影響力増大を警戒するドイツ帝国宰相ビスマルクの策略によって、ロシアのバルカン駐留短縮などを定めた「ベルリン条約」を締結させられ、ロシアはバルカン半島の「南下政策」を断念しました。
その結果、ロシアは、中央アジアの覇権をめぐってイギリスと争いつつ(すでに述べましたが、「グレート・ゲーム」といわれるものです)、進出の矛先を極東地域に向けることになったのです。ロシアの満州から遼東半島、そして朝鮮半島への進出にはこのようなロシアの地政学的な背景があります。
ついでながら、ロシアは「日露戦争」敗北後、再び因縁の地・バルカン半島に目を向けて汎スラヴ主義を唱え、汎ゲルマン主義を唱えるドイツなどと対立して第1次世界大戦の引き金となります。そして第2次世界大戦では、米英や中国と連合して日本を撃破し、ついに南樺太や北方領土まで占領して極東地域の“南の出口”を獲得するのです。
いずれにしても、国力比で日本の10倍と言われた当時の超大国・ロシアが、力に物を言わせて極東地域を支配しようとしたことに対して、「そうはさせじ」と抵抗したのが「日露戦争」であったことは間違いなく、このような史実を無視し、「侵略戦争」などと唱える人には歴史を語る資格がないと考えます。

▼「日露戦争」に至る道程
すでに取り上げましたように、「義和団の乱」に乗じて満州を勢力下に置いたロシアは、朝鮮半島に持っていた“利権”を手がかりにその拡大を企図していました。朝鮮王国は、旧体制では独自改革が難しいと判断した改革派(進歩会)は日本への協力を惜しみませんでしたが、朝鮮王・高宗や両班などは親露路線を維持したのです。日本は外交努力で衝突を避けようとしますが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本に対しても圧力を増大させて来ました。
開戦前年の1903(明治36)年6月、ロシア満州軍総司令官を務めるクロパトキンが来日しました。来日目的は不明でしたが、自分の目で極東や日本を査察しておこうと考えたようです。クロパトキンは、驚くほど日本を過小評価する一方で、交渉による解決にも期待していたようです。
事実、帰国後直ちに旅順で会議を開き、日露和解を目指して動き出したのです。軍人である彼は「当時のロシアの兵力では、満州と遼東半島双方のロシアの権益を守ることは困難」と考えていたといわれます。
同年8月からの日露交渉において、日本は、「朝鮮半島は日本、満州はロシアの支配に置く」との妥協案を提案しましたが、ロシアは、「朝鮮半島に増えつつある“利権”を妨害される」との主戦論者が多数を占め、これを拒否します。
その後も交渉が続けられますが、同年10月、ロシアは、「朝鮮半島の北緯39度(現在の平壌あたりを横切る緯度)以北を中立地帯として軍事目的での利用を禁ずる」と日本へ逆提案します。日本は、この提案では「日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となって、日本の独立が危機的状態になりかねない」と判断し、「シベリア鉄道全面開通前に対露開戦やむなし」との国論へ傾いていきます。
こうして、1904(明治37)年2月6日、日本はロシアに対して国交断絶を言い渡し、同2月8日、旅順港に停泊していたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃によって戦闘の火ぶたが切って落とされたのです。

▼歳入2年分の外貨を調達
後先が逆になりますが、「戦費」について先に触れておこうと思います。「日露戦争」に費やした総戦費は、当時の一般会計歳入2億6千万円の約7倍に相当する18億2千6百万円に及び、2億円余りの「日清戦争」と比べてまさに桁違いでした。
そのため、戦争開始前から外貨を獲得する必要がありましたが、外貨調達の厳しい任務は当時の日本銀行副総裁・高橋是清に付与され、高橋は東奔西走することになったのです。
開戦と同時に日本の外貨国債は暴落します。当時の投資家たちが、日本が敗北して資金を回収できないと判断したためといわれています。事実、露仏同盟にあるフランスの投資家は当初から冷淡、ドイツも慎重だったようです。高橋は、ようやくイギリスで500万ポンド(約5千万円)の外債引き受けに成功しました。そして、ロンドン滞在中にドイツ系のアメリカユダヤ人ジェイコブ・シフの知遇を得て、ニューヨーク金融街から残高500万ポンドの外債引き受けと追加融資を獲得します。
このようにして、日本は3年の間に合計6次にわたり外債を発行し、戦費調達資金として歳入2年分を超える約8千2百ポンド(約8億円)を調達して「日露戦争」を支えることができました。
さて、なぜシフが融資を引き受けたのでしょうか。当時ロシアで起きていたポブロム(ユダヤ人迫害)に怒り、日本に味方したという説やユダヤ人のネットワークで日本が勝利するという情報をつかんで大博打を打ったとの説があります。
後日談ですが、「ポーツマス条約」の結果、日本はロシアから賠償金を取れなかったため、シフに金利を支払い続けることになります。「日露戦争」で最も儲けたシフは、レーニンやトロッキーに資金援助し、「ロシア革命」を陰で支えます。やがて、こうして出来上がった共産主義国家・ソ連は、我が国を含む20世紀の国際社会の命運を大幅に狂わすことになります。
後から振り返ると、歴史は本当に“思わぬところで繋がっている”ことがわかります。次回、「日露戦争」の経過を振り返ってみましょう。

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