「我が国の歴史を振り返る」(20) “アジアを変えた”「日清戦争」
▼はじめに
年初めから“きな臭い”中東情勢について、本歴史シリーズでも機会を見つけてトピックスとして取り上げようと考えておりますが、今回は、イラン軍によるウクライナ旅客機の撃墜に触れてみましょう。
現役時代の私は、「高射特科」と言いまして、対空ミサイルや対空機関砲によって敵の航空攻撃から地上の重要な施設や我が部隊を防護することを主任務とする職種に属しておりました。
そのような経験もあって、1月8日、イランによる米軍基地へのミサイル攻撃の直後、あのニュースが流れた瞬間、「やったな」との思いが脳裏に浮かびました。そしてしばらく後に、破片がバラバラになっている墜落現場の映像をテレビで観て、(原因はさておき)空中で爆破したに違いないと確信しました。エンジン不調などによる一般的な墜落の場合、通常、機体の一部は壊れてももっと大きな残骸が残るからです。
当時、ミサイル攻撃への米軍の報復に対処するため、イラン全軍に最高レベルの警戒態勢が引かれ、中でも防空(高射)部隊には“至上命令”として米軍の巡航ミサイル攻撃対処が発令されていたと考えます。
防空部隊には、味方の航空機や民間旅客機を誤射、いわゆる“友軍相撃”を避けるためにいくつかの手順が定められています。
事柄の性格上細部は省略しますが、一般的な手順は、①民間航空機の飛行経路は射撃禁止、②味方識別装置(IFFと言われます)による敵味方の判定、③目視による機体の大きさ、飛行方向、飛行要領などの確認です。
この手順に基づき、悲劇が起こった原因を探ってみましょう。①については、ウクライナ旅客機の出発が1時間ほど遅れたらしく、その事実がイランの防空部隊に伝わっていなかった可能性があります。しかし、ウクライナ旅客機は通常のフライトコースを飛んでいたことから、これを誤射の原因とすることには無理があります。
②について、どこの国の対空ミサイルシステムも味方識別装置を標準装備していると考えます。しかし、スイッチをONにしていなければ作動しないことは言うまでもありません。
当時、不意急襲的に現れる可能性が高い巡航ミサイルに対するリアクションタイムを最小限化するため、射撃モードを「自動射撃」(人間が介在せずシステムのコンピュータが判定して最も短い時間で発射するモード)にしていた可能性があります(イランのミサイルシステムにそのモードがあるかどうかは不明です)。
ただ、このモードは、味方機や旅客機が全く飛行していないことが判明している、いわゆる“戦場”に限られ、空港が近くにあるような今回の場合、まさに友軍相撃防止を優先し、使用されることはないと考えますが、イラン軍がどう設定していたかはわかりません。
次に③ですが、システムの操作員は、レーダーに映る映像から目標の大きさ、飛行方向、機数などがわかります。当然ながら、巡航ミサイルと旅客機の映像の差異は明白です。しかも、今回のように遠行目標(遠ざかっていく目標)は、我の脅威にはならないので、射撃しないのが一般的です。
その他、射手がパニックをおこして発射ボタンを押してしまったことも考えられますが、日頃からしっかり訓練してシステムや射撃要領などに熟練しておれば、そのような間違いはしないものですし、2発発射されたことから意図的な射撃だったと考えるのが適切でしょう。
結論から言えば、上級部隊の命令付与や現場指揮官の判断を含め、イランの防空部隊があまりにレベルに低かったため、今回の悲劇が起きたものと考えざるを得ないのです。
東西を問わず、軍の軽率・稚拙な行動が国の命運を狂わせたことは、人類の歴史上枚挙に暇がありませんが、現場指揮官をはじめ関係者は今頃、厳罰に処されていると推測します。
イラン政府は、当初から上記のような誤射の事実を分かった上で、本事件を隠ぺいしようとしましたが、誤射の証拠があまりに明々白々であったため、すぐに観念しました。この不誠実極まりない対応に、国際社会はもとより国民が反感を持つのは当然と考えます。改めて犠牲者のご冥福をお祈り申し上げたいと思います。
さて、お陰様にて本歴史シリーズも今回で20回を数えます。やっと「明治」の半ばですから、まだまだ“旅”は続きます。これまで何度も話していますが、歴史を“点”(時代時代のトピックス)や縦の“線”(日本史としての繋がり)だけでなく、“面”(日本史と世界史の“横串”)で振り返ると、また「違った歴史」が見えてくることを実証できているのではないかと自負しております。
実は、“横串”を入れて歴史を振り返ることが益々重要になるのは、今回取り上げる「三国干渉」以降でないかと考えています。我が国が「日清戦争」に勝利することによって、ようやく欧米諸国の“抵抗勢力”として認知されてきたからです。
我が国からすれば、この頃から“欧米列国や周辺国との関わり合い”が「国の舵取り」の主要テーマになり、明治後期、大正、昭和と欧米列国や周辺国との葛藤の中で、我が国の為政者たちの“手腕”が試されることになったのです。
本メルマガのように、“後出しジャンケン”、つまり後々の歴史がわかる立場で振り返るのは簡単なのですが、時代時代の為政者達が、突き付けられた情勢や環境を如何に分析し、判断し、舵取りしたかについて特段の関心を持ちつつ、引き続き「我が国の歴史」を振り返ってみようと考えております。
▼「三国干渉」の背景と影響
さて前回に続く「日清戦争」の“戦後”です。開戦当初、日本か清か、どちらに加担するか様子見していたイギリス同様、ロシア、フランス、ドイツなどの列国も、日本に戦争させて自分達は“高みの見物”を決め込んでいました。
そして、日本が勝ち、1895(明治28)年4月17日、「下関条約」が成立すると、列国は我先とばかり清国の“利権”に群がったのです。清国内にも「以夷制夷」(外国を使って外国を制す)との伝統的思想によって、「日本との講和条約を無効にするためなら欧州列国にいかなる報酬を払ってもいい」との意見が広まりました。
このような背景から、「下関条約」調印からわずか6日後の4月23日、ロシア、ドイツ、フランス3カ国の駐日公使が外務省を訪れ、「遼東半島の日本の領有は、北京に対する脅威となるばかりでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東平和の障害となる」と遼東半島の放棄を迫りました。有名な「三国干渉」です。
これを主導したロシアは、日本の遼東半島放棄勧告をイギリス、ドイツ、フランスに提案しました。ドイツとフランスは即、同意しましたが、戦争開始当初は列国と協力して開戦回避の調停や早期講和をめざしていたイギリスは、日本の対立を好まず、かつ講和条約による自国の通商関係特権の拡大を知ってこれを拒否します。
背景に、イギリスとロシアの間でユーラシア大陸の勢力圏をめぐる抗争(「グレート・ゲーム」と呼ばれます)があったのですが、イギリスの離脱はロシアに大きなショックを与えました。ロシアの中にも「日本に対する敵対行動が日本という強力な敵を作り出し、日本をイギリス側に追いやる」と干渉反対の意見もあったようですが、「武力行使も想定した干渉を行い、日本の南満州進出を阻止すべき」との意見が多数を占めます。反対派が懸念したように、この「三国干渉」はのちの「日露戦争」の一要因となります。
日本は、「三国干渉」撤回に向けて様々な対応を試みますが、いずれも効果がなく、清と再交渉の結果、遼東半島還付報奨金3000万両(約4500万円)を得て半島から撤兵します。「三国干渉」要求を拒否すれば、この3カ国と一戦を交えることになり、勝ち目のなかった日本は、「臥薪嘗胆」を“合い言葉”に耐えるしかなかったのです。
ちなみに、この「臥薪嘗胆」は、当初、哲学者・国粋主義者として有名な三宅雪嶺(せつれい)が「嘗胆臥薪」と題して「三国干渉を受け入れた伊藤内閣の外交政策を批判する」ために使用した言葉でした。三宅にはロシアに対する敵愾心を煽る意図はなかったと言われますが、やがて「臥薪嘗胆」となって対露敵愾心と軍備拡大を煽る流行語に転じていくことになります。
▼「台湾平定」と「日清戦争」総括
「三国干渉」の結果、我が国が「下関条約」で獲得した領土は台湾と澎湖(ぼうこ)諸島だけになりました。当時、台湾は約5万人の軍隊を有して日本への帰属を反対、1895年5月25日には共和政府を建て独立を宣言しました。
これに対して、初代の台湾総督に任命された樺山資紀(かばやますけのり)海軍大将は、5月29日、近衛師団とともに台湾を上陸して北部を平定し、6月22日には、台北に台湾総督府を開庁します。しかし、依然として台湾南部は帰服しませんでしたので、第2師団を台湾南部に上陸させて征伐し、10月末頃、全島をほぼ平定、翌年3月には掃討を完全に終了します。
こうして、「豊島沖海戦」に始まった「日清戦争」は、約1年8ヶ月間、断続的に戦闘が続き、台湾平定をもって終了しました。戦争の人的損失は、戦死・戦病死1417人、病死11894人、変死177人の計13488人を数え、戦死の8倍強に及んだ病死の大半は、当時、原因が不明だった脚気や不衛生な水と食料による赤痢、マラリアなどによるもので、その過半は台湾での病死でした。
「日清戦争」の臨時軍事費は、陸軍が1億6452万円、海軍が3596万円の合計2億48万円(当時の一般会計歳出の約2倍に相当)で、政府は「内国公債」を発行して充当しました。日本は、清から軍事賠償金3億1100万円と遼東半島変換報奨金4500万円の合計3億5600万円を受け取りました。
つまり、かかった戦費より1億5552万円ほど儲かった戦争となったのです。この巨額な賠償金は、ロシアを仮想敵として、陸軍は7コ師団から13コ師団へ、海軍は甲鉄戦艦6隻、一等巡洋艦6隻を中心とする世界水準の艦隊建設の軍備拡張のため、その約8割が費やされました。
「日清戦争はアジアを変えた戦争」だったと言われますが、日本の隆盛とは逆に、清国は敗北を契機に衰退し、欧州列強は「三国干渉」の代償として先を争って中国を侵略します。
ロシアは、1896年、東清鉄道敷設権を獲得し、「三国干渉」からわずか3年後の98年、遼東半島の旅順・大連を租借し、南満州鉄道敷設権を獲得します。同年、ドイツは膠州湾を、翌年、フランスは広州湾を租借します。また、漁夫の利を得たように、イギリスは香港を根拠として華南・華中に勢力を拡大し、98年、九龍半島と威海衛を租借したのです。
国内的にも、1899年、山東州で発生した「義和団の乱」を契機に清国滅亡に向けたカウントダウンが始まります。次回、取り上げましょう。
(以下次号)