「我が国の歴史を振り返る」(19) 「日清戦争」の概要と「下関条約」締結
▼はじめに(令和2年の配信スタート)
皆様、遅ればせながらあけましておめでとうございます。令和2年の1回目の発信となります。
新年早々、中東の方では“きな臭い年明け”となりました。「平和の祭典」のはずのオリンピックの年には、「不思議に“世界激震”の歴史の刻むことが多い」と分析している人がいます。
確かに、歴史を振り返れば、オリンピックの年には世界の歴史を揺り動かすような激変が度々発生していますし、今年も中東のみならず、我が国周辺において不確定で予測がつきにくい情勢がたくさんあり、何か“嫌な予感”を感じます。これらが杞憂に終わり、無事、「平和の祭典」が終了することを祈るばかりです。
さて、年末の大掃除の合間、NETFLIXの最新作「WWⅡ最前線 カラーで甦る第二次世界大戦」を観賞する機会がありました。第二次世界大戦の有名な戦い(作戦)をカラー化した映像で紹介し、それに合わせてアメリカや欧州の有名な歴史家達(?)が解説するというシリーズでした。
驚いたのは、「真珠湾攻撃」の背景解説でした。著名な歴史家とおぼしき人が「東條(英機)が満洲事変を起こした」旨の解説を真面目に語っていたのです。それは史実と全く違うことから、すっかり“興ざめ”してしまいましたが、私には、「東京裁判において東條英機を絞首刑にした勝者・連合国の判断は正しかった」と、何としてもその“正当性を主張”しているように見えました。
改めて、世界の歴史学のレベルに呆れるとともに、“後世の人々が勝手に創作する”歴史の怖さに思いが至ることでした。本歴史シリーズにおいても、時代が近づくにつれ、「見方がたくさんある」ことに気がつきますが、引き続き「史実」を重視し、時程を追って振り返るつもりです。皆様、今年もどうぞ宜しくお願い致します、
1月10日、海上自衛隊に中東地域への派遣命令が発出され、再び新たな自衛隊の海外活動が始まります。本派遣を巡っても色々な意見があることは承知していますので、本シリーズでもいずれ取り上げるつもりです。
今回は、文末に『自衛官が語る 国際活動の記録』(桜林美沙「監修」、自衛隊家族会「編」、並木書房「発行」)を紹介させていただきました。この機会に、皆様にはこれまで実際の海外活動に参加した自衛官達の脚色のない“生の声”から、彼らの「心の叫び」を汲み取っていただき、自衛隊が行う海外活動についてご理解を深めていただきたいと願っております。
▼「日清戦争」開戦とイギリスの日本傾斜
今回は、前回の続編で「日清戦争」を取り上げます。本戦争の開戦に至る手続き(プロセス)は、後の大東亜戦争などと違って完璧でした。日本は、清と共同して内乱を鎮圧した後、朝鮮の内政改革を推進しようと申し込んだのですが、清はこれを拒否します。英国・米国・ロシア3国も調停の労をとりましたが、清は「日本の撤兵後でなければ協議に応じない」との態度を固辞したため、いずれも失敗に終わります。
そして1894(明治27)年7月12日、日本は、“戦争も辞さない”決意を表明し、19日には「最後通牒」を清に手交しました。8月1日、両国とも宣戦を布告して戦争状態に入ります。
「最後通牒」手交後の7月25日、朝鮮半島の豊島沖(ソウルの南西海域)で日本の連合艦隊隷下の第1遊撃隊は、輸送艦を含む清国艦隊と遭遇し、これらを撃破し、緒戦を飾りました(「豊島沖の海戦」)。
この海戦において、日本の「浪速」(艦長は東郷平八郎)が約1100人の清国陸兵を輸送していた英国籍の輸送船「高陞号(こうしょうごう)」を撃沈してしまいました。危うく国際紛争に発展する懸念がありましたが、外務大臣陸奥宗光、海軍大臣西郷従道、東郷艦長らの適切な措置と決然たる態度で臨んだ結果、最終的に、撃沈は国際法上正当と判断され“事なき”を得ました。
のちの「日露戦争」の勝利の陰に「日英同盟」があったことはあまりに有名ですが、「豊島沖の海戦」の背後にあったイギリスと日本・清両国との関係もなかなか興味深いものがあります。
1886(明治19)年、「ノルマント号事件」(和歌山県の紀州沖で座礁したイギリス貨物船ノルマント号の船長が白人の乗客や船員だけを脱出させ、日本人乗客25人全員が死亡した事件)が起こり、大問題となりました。当時、「不平等条約」により“治外法権”を認めていた日本は裁判を行う権利がなく、イギリス人やドイツ人の船員25人は全員無罪になりました。
この事件を受けて条約改正の交渉が始まったのは、ちょうど「日清戦争」開戦の1894年4月だったのです。そして宣戦布告の半月前の7月16日に「日英通商航海条約」が調印され、“治外法権”が撤廃され、関税が引き上げられました(関税自主権回復は「日露戦争」後の1911年になります)。
しかし、調印当時のイギリスは、日本か清国か、どちらを支持するか揺れ動いていました。日本に対しては、朝鮮半島における日本の軍事行動を抑制するよう“釘を刺す”一方で、前述のように、清国陸兵の輸送にも加担していたのです
そのイギリスのアジア戦略が日本に傾斜したのは、陸戦の緒戦となった、京城(ソウル)南方の「牙山・成歓(きばやま・せいかん)の戦闘」(7月27日~30日)において日本軍が清軍を圧倒した後でした。
それが、「高陞号」撃沈の最終判決(8月17日)にも影響し、のちの「日英同盟」に発展していくことになります。当たり前ですが、“国家が強いことは信頼の源”なのです。ちなみに、「日露戦争」時、東郷元帥は山本権兵衛海軍大臣によって「東郷は運の強い男だから」と連合艦隊司令官に推薦されますが、このような事例をもって“運の強い”と言わせたものと考えます。
▼「日清戦争」の経過
さて、「日清戦争」のその後の経過を簡単に振り返ってみましょう。「日清戦争」の戦場は、朝鮮半島、清国の遼東半島およびその周辺海域です(「下関条約」締結後の台湾征討まで含めるべきとの考えもあります)。
それぞれの戦闘は、意外にもあっけなく日本の連戦連勝に終わりました。「豊島沖の海戦」(1894(明治27)年7月)に続き、宣戦布告前に火ぶたを切った「牙山・成歓付近の戦闘」は4日間で決着しました。そして宣戦布告後初の決戦となった「平壌付近の戦闘」は約半月、「鴨緑江の戦闘」は3日間で決着し、戦場は朝鮮半島から遼東半島に移ります。
この間、渤海湾の制海権獲得を使命とした海軍は、「豊島沖の海戦」以来、清国艦隊が姿を現わさず決戦の機会をつかみ損なっていましたが、9月17日、ついに「黄海の海戦」となり、これも約半日で勝敗は決します。
日本軍は、山県有朋率いる第1軍(2コ師団)に加え、清陸軍との決戦に備えて、大山巌率いる第2軍(3コ師団)も投入し、旅順港を3日間で攻略した後、「日清戦争」最大のヤマ場となった「海城付近の決戦」(遼東半島西側)を迎えます。大本営と第1軍司令官山県有朋の作戦指導の食い違いから指揮官交代とのハプニングもありましたが、12月13日から翌年2月27日までの間の激烈な戦いの結果、ついに日本が勝利します。
この間、陸海軍が連合して遼東半島の対岸の「威海衛の攻略」も約20日間で終了し、併せて、台湾海峡の要衝「 澎湖島」も約1週間で占領してしまいます。
▼「下関条約」の締結経緯と概要
「下関条約」交渉開始前の3月上旬、日本は、清国軍主力と決戦する(直隷決戦)ための第2期作戦計画の大要を決定しました。それによると、後備部隊の約3分の1に相当する7コ師団を投入して約20万人の清軍と対峙し、雌雄を決するつもりだったのです。当然ながら、朝鮮半島や占領した金州半島(金州、大連、旅順など)にも守備兵力を配置しますので、国内に残る陸軍兵力はほぼ皆無に近い状況でした。
1895(明治28)年3月20日、下関で日本全権大使伊藤博文と清国全権大使李鴻章の間で講和条約の調整を開始します。細部は省略しますが、日清両国双方とも調印に至るまで様々な葛藤や駆け引きがありました。
ようやく清側全権の李鴻章との間で会談を始めた矢先の3月24日、会議を妨害して戦争を継続する目的で、24歳の日本人が李鴻章を拳銃で狙撃するという事件が発生しました。幸い、一命は取りとめた李は交渉に復帰しますが、交渉中断を恐れた日本側は、李鴻章が主張した約3週間の休戦条約に調印します(3月30日)。
その後も駆け引きが続きましたが、日本側は、新たに約3万5千人の兵士や軍馬を大連湾に到着させるなど“直隷決戦”の準備が整いました。これを知った清側がついに折れ、日本の講和条約案を受け入れ、まさに決戦発動直前の4月17日、「『下関条約』を調印した」との電報が大山巌第2軍司令官に届いたのでした。
条約の概要は、①朝鮮半島の独立自主の承認、②遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲、③軍事賠償金として庫平銀2億両(日本円で約3億1100万円)の支払い、④日清通商条約を締結し、欧米列強並みの通商上の特権を日本に付与、新たに沙市・重慶・蘇州・杭州の開港、⑤日本軍の威海衛の保障占領などでした。休戦期間も5月8日まで延長され、この条約によって朝鮮半島に史上初の統一独立国家「朝鮮帝国」が誕生したのです。(以下次号)
(お知らせ)
『自衛官が語る 海外活動の記録』 ◇桜林美沙〔監修〕 ◇自衛隊家族会編〔編〕 ◇並木書房 〔発行〕 http://www.namiki-shobo.co.jp |
私は現在、ボランテイアですが、公益社団法人自衛隊家族会の副会長の職にあります。今回紹介いたします『自衛官が語る 海外活動の記録』は、自衛隊家族会の機関紙「おやばと」に長い間連載してきました「回想 自衛隊の海外活動」を書籍化したものです。
その経緯を少しご説明しましょう。陸海空自衛隊は、創設以降冷戦最中の1990年頃までは、全国各地で災害派遣を実施しつつ、「専守防衛」の防衛政策のもとで国土防衛に専念していました。
憲法の解釈から「海外派兵」が禁止されており、国民の誰しも自衛隊の海外活動は想像すらしないことでした。当然ながら、自衛隊自身もそのための諸準備を全く行っていませんでした。
ところが、冷戦終焉に伴う国際社会の劇的な変化によって、我が国に対しても国際社会の安定化に向けて実質的な貢献が求められるようになりました。
こうして、湾岸戦争後の1991(平成3)年、海上自衛隊掃海部隊のペルシア湾派遣を皮切りに、自衛隊にとって未知の分野の海外活動が始まりました。しかも、中には国を挙げての応援態勢がないままでの海外活動も求められ、派遣隊員や残された家族のやるせない思いやくやしさは募るばかりでした。
それでも隊員達は、不平不満など一切口にせず、「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱きつつ、厳正な規律をもって今日まで一人の犠牲者を出すことなく、与えられた任務を確実にこなしてきました。この間、実際に派遣された隊員達のご苦労は想像するにあまりあるのですが、寡黙な自衛官達は本音を語ろうとしませんでした。
かくいう私も、陸上幕僚監部防衛部長時代、「イラク復興支援活動」の計画・運用担当部長でしたので、決して公にはできない様々な経験をさせていただきました(墓場まで持っていくと決心しております(笑))。
このような海外活動の実態について、隊員家族をはじめ広く国民の皆様に知ってもらうことと自衛隊の海外活動の記録と記憶を後世に伝え残したいとの狙いから、「おやばと」紙上でシリーズ化し、各活動に参加した指揮官や幕僚などに当時の苦労話、経験、エピソードを寄せてもらいました。
連載は、2012年8月から2014年11月まで約2年半続き、その後も行われている「南スーダン共和国ミッション」や「海賊対処行動」などについてはその都度、関係者に投稿をお願いしました。
この度、「おやばと」のシリーズ書籍化第1弾の前著『自衛官が語る 災害派遣の記録』同様、防衛問題研究家の桜林美沙様に監修をお願いして、第2弾として『自衛官が語る 海外活動の記録』が出来上がりました。
本書には、世界各地で指揮官や幕僚などとして実際の海外活動に従事した25名の自衛官達の脚色も誇張もない「生の声」が満載されております。
遠く母国を離れ、過酷な環境下で、ある時は身を挺して、限られた人数で励まし合って厳しい任務を達成した隊員達、実際にはどんなにか辛く、心細く、不安だったことでしょうか。
しかし、これらの手記を読む限り、そのようなことは微塵も感じられないばかりか、逆に派遣先の住民への愛情や部下への思いやりなどの言葉で溢れており、それぞれ厳しい環境で活動したことを知っている私でさえ、改めて自衛隊の精強さや隊員達の素晴らしさを垣間見る思いにかられます。
また、桜林様には、海外活動の進化した部分とか依然として制約のある法的権限などについて、わかりやすく解説し、かつ問題提起していただきました。
皆様にはぜひご一読いただき、まずはこれら手記の行間にある、隊員達の「心の叫び」を汲み取っていただくとともに、自衛隊の海外活動の問題点・課題などについても広くご理解いただきたいと願っております。また、前著『自衛官が語る災害派遣の記録』を未読の方は、この機会にこちらもぜひご一読いただきますようお願い申し上げ、紹介と致します。