「我が国の歴史を振り返る」(16) 「大日本帝国憲法」の制定
▼はじめに(驚くべき「軍艦島」)
「明治維新による国家の大改造」を振り返っていますが、明治時代の近代化のスローガンだった「殖産興業」の細部についてはほとんど触れませんでした。2年ほど前、私は、明治から昭和に至る「殖産興業」の代表例とも言うべき長崎の「軍艦島」(端島)を訪問する機会がありましたので、冒頭に紹介しておきましょう。
五島灘と言われる長崎湾の沖合に位置する「軍艦島」は、かつて“黒いダイヤ”と言われた石炭を1891(明治24)年より出炭開始し、以来、国家のエネルギー源供給基地として発展してきました。
東京の約9倍と言われた人口密度、世界初・世界最長と言われた海底水道管、日本初の高層鉄筋アパートなど世界一や日本一と言われる記録が10個もあり、現地に立つと、日本の近代化のために「軍艦島」がいかに重要だったか、がよく理解できます。
「軍艦島」の名称は、島の外観が軍艦「土佐」に似ていることから、大正時代ごろから通称として使われてきたようです(1945年、米軍が本物の軍艦と間違えて魚雷を撃ち込んだとの噂話もあるぐらいです)。1974(昭和49)年の閉山に伴い、島民は島を離れ、無人島になりましたが、2015年、「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として世界文化遺産に登録されました。
その前後に、韓国が「軍艦島は朝鮮人を強制労働させた施設だった」とアピールし、文化遺産登録反対キャンペーンをぶち上げるための映画を作成し、話題になりました。
他の炭鉱同様、確かに当時の労働は過酷だったと想像できますが、それはけっして朝鮮人や中国人にのみ強いられたものでなく、事実、事故等による犠牲者は日本人が圧倒的に多かったとの記録が残っています。説明してくれたガイドによりますと、当時の労働者達はとても仲良く、和気あいあいと暮らしていたとのことでした。機会があれば、皆様ぜひご訪問下さい。
▼「征韓論」の真実とその影響
本歴史シリーズでも、折に触れて我が国と朝鮮半島の関係を振り返ることになりますが、今回は、明治初期の「征韓論」を取り上げます。
明治初期の朝鮮半島は14世紀末から続いていた李王朝が支配していました。我が国とは、それまで続いていた「通信使」が江戸末期の1811年を最後に途絶え(日韓両国の財政悪化が原因と言われています)、以来、外交関係が中断したままでした。
「明治維新」以降、我が国は新政府の通告と国交を結ぶ交渉を行いますが、「日本の外交文書が江戸時代の形式と異なる」などの(些細な)理由で朝鮮側に拒否されました。その後も再三、使節を派遣し交渉しますがことごとく拒否されるなど外交問題化します。
まさに、昨今の日韓関係とよく似た現象が当時も発生していたのですが、我慢に耐えかねた板垣退助が強行に派兵を主張する中、「派兵反対」の西郷隆盛が「自ら大使として赴く」と主張し、1873(明治6)年8月、太政大臣三条実美の承諾を得ました(この付近は、大河ドラマ「西郷どん」でもリアルに取り上げられていました)。
その1ヶ月後の同年9月、「岩倉使節団」が欧州から帰国します。岩倉、木戸、大久保らの団員は「時期尚早」とこれに反対し、西郷の“遣韓”は中止となります。その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野し、明治政府は分裂の危機にみまわれたのです(「明治6年の政変」)。
一般には、西郷隆盛が「征韓論」の首謀者のようになっていますが、征韓を最も強く主張したのは板垣退助だったことは付記しておきたいと思います。
▼各地でおこった反乱と「西南戦争」
1873(明治6)年は、「徴兵制」の制度化によってようやく政府の軍隊の形が整った年でした。その年に朝鮮半島に軍を派兵するなどは確かに“無謀な試み”だったのかも知れません。しかし、西郷は直感的に「今が絶好の機会」と読み取ったとされます。戦前の日本人には、「あの時、朝鮮へ出兵しておれば、『日清戦争』も『日露戦争』も起こらなかった」との強い想いがあったといわれ、西郷人気に繋がる要因にもなっていたようです。
なお、日朝関係は、1875(明治8)年に発生した「江華島事件」(日本海軍軍艦「雲揚」が江華島沖で朝鮮に砲撃され、応戦し、上陸を敢行した事件)をきっかけとして、翌年の76年2月、「日朝修好条約」を締結、朝鮮の開国と釜山、元山、仁川の開港など、日本は朝鮮に“不平等条約”を押し付けます。
明治政府は、その後も政府財政を大きく圧迫していた華族・氏族制度の扶禄処分に向けた改革などを断行しますが、こうした一連の政策に対する士族の不満が強まり、1874(明治7)年の「佐賀の乱」、76(明治9)年の「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」に続き、77(明治10)年にはついに「西南戦争」となって、明治の三傑と言われた西郷隆盛が自決するに至ります。
これら一連の反乱は、「徴兵制」による近代的な軍隊の優秀性を立証することにもなります。士族達も「武力によって反政府行動を試みるのは無益」と悟り、以後、言論による「自由民権運動」に形を変えることになります。なお、「西南戦争」の翌年の78(明治11)年、大久保利通も不平士族によって暗殺され、明治初期の一連の騒動は幕を閉じました。かように、「国家の大改造」は多くの犠牲を伴いました。
▼「大日本帝国憲法」の制定
「明治維新による国家の大改造」はまだまだ語り尽くせませんが、「大日本帝国憲法」の制定を取り上げて終わりにしたいと思います。短期間で停止されたオスマン帝国憲法を除けば、アジア初の近代憲法といわれた「大日本帝国憲法」を制定することになった要因は大きく2つあったと考えます。
第1には、「自由民権運動」の一環として立法機関の設立要求や様々な憲法私案が執筆されたことなどから、政府もこの動きを無視できなくなったことです。
第2には、「不平等条約」改正に向け、近代国家の仲間入りするため、鹿鳴館を建て舞踏会を開くといった“欧化政策”を試みましたが、効果がなかったことです(教科書では「鹿鳴館時代」と教えられました)。岩倉具視などは、憲法を制定し、欧州並みの法治国家を目指す必要があることに早くから気がついていたようです。
こうした中、1876(明治9年)、明治天皇は「各国憲法を研究し、憲法草案を起草せよ」との勅語を発し、元老院は「憲法取調局」を設置、調査研究を開始しました。
政府は、プロシア風の君主権の強い立憲制度を採用しようとし、1882(明治15)年3月、伊藤博文をヨーロッパに派遣し、主にプロシア憲法を調査させました。「普仏戦争」(1870年)でプロシアが勝利した後、ヨーロッパは「ビスマルクの平和」と言われる小康状態が続いていた頃でした。
翌83(明治16)年8月、1年半の調査を経て帰国した伊藤は、84年、宮中の「制度取調局」の議長となって憲法起草を極秘のうちに開始、85(明治18)年には「内閣制度」を設置し、初代の内閣総理大臣に就任しました。88年には、皇室典範、憲法、議員法などの草案が完成、のべ38日間に及ぶ「憲法会議」が開催されました。明治天皇も一度も欠かすことなく出席されたようです。
同年、憲法草案審議のための「枢密院」が設置され、内閣総理大臣を黒田清隆に譲った伊藤が初代枢密院議長として草案の審議を実施します(のちに「枢密院」は憲法によって天皇の最高諮問機関に位置づけられます)。
こうして、1889(明治22)年2月11日、ついに欽定憲法として「大日本帝国憲法」が公布されます。明治天皇が起草を命じてから13年、伊藤博文が中心となって起草を開始してから5年の歳月を要して完成をみたのです。約1週間で作ったといわれる現在の日本国憲法との違いをご理解いただくため、その経緯を詳しく説明しました。
なお、欽定憲法とは、“君主(天皇)によって制定された憲法”という意味ですが、「大日本帝国憲法」は、天皇の権限が極めて大きく、逆に国民の権利は制限されました。
「軍隊の統帥権」のみが強調されます(実際に大正時代以降問題になります)が、帝国議会の立法、内閣の行政、裁判所の司法の3権も天皇の統治下にありました。また、宣戦、講和、条約締結なども天皇の大権に属しました。
それでも、当時から一部の勢力が画策したと言われる「天皇親政」とは違う、「天皇が自らの意志で国民に権利を与え、保護する」との“立憲主義の要諦”を目指した伊藤博文らの考えが憲法によって実現し、文明国共通の「立憲政体」が確立したのでした。「大日本帝国憲法」については、こののち度々触れる機会があると考えますので、今回はこのぐらいにしておきましょう。(以下次号)