Home»オピニオン»「花を見る会」騒ぎ-再論

「花を見る会」騒ぎ-再論

0
Shares
Pinterest Google+

1.季節外れの「花見」狂想曲

 先週(11月16日)掲載の「花を見る会」についての拙稿を執筆後もこの問題を巡って野党の追及、これを囃し立てるマスコミの騒ぎは拡大こそすれ、鎮静化の兆しは見られず、他方世界に目を向ければ、我が国にとっても、日本国民にとっても、いや地球に住む人類にとっても、遥かに重要と考えられるような香港における人権侵害、Brexitを巡るイギリス議会の迷走、中露両国国内における人権侵害等々の問題が次々と台頭して止まない状況が続いている。このような認識に基づいて、以下「花を見る会」再論として筆者の思うところを記述することとする。

  但し、その前に掲載済みの拙稿はその後読み直したところ、やや性急に書き殴った為に事実関係に関し幾つかの誤りが認識されたので、指摘しておきたい。 

  1.「花を見る会」と「園遊会」の混同 「花を見る会」は新宿御苑で「園遊会」は赤坂御苑で開催されるもので、前者は内閣総理大臣が主催、後者は天皇・皇后両陛下の招待によるもので、招待される出席者の選定などの実務は、事実上内閣府と各省庁が担当して行われるのに対し、後者は宮内庁と関係各省庁が連携して行っているようである。筆者は1980年代の前半以降、主として旧労働省,後の厚生労働省を中心として、各種の政府関係の研究会、審議会に参加する機会が増え、これらの省庁の推薦で、「花を見る会」、「園遊会」の双方に招聘されるようになり、何れの場合にもこれらの官庁から迎えの車が自宅又は勤め先の大学に派遣されるようになり、行先は運転手任せであったことから、この二つのイベントについての記憶がごちゃ混ぜになっているまま、先の拙稿では2種類の会合についての記憶がごちゃ混ぜになっており、今回自宅の書斎に埋もれていた当時の日記帳の幾つかに目を通した結果、この2種類の会合に出席した年もあれば、片方のみに出席、両方とも欠席の年と、まちまちであることが確認できた次第である。

 さてこの結果本稿で訂正すべきことは、以下野党とマスコミが政争の種として騒ぎ立てている点の内1.出席者(被招待者)の顔ぶれ、2.両者における飲食の実態の2点に絞って、筆者の認識を再確認しておくことにする。

  • 出席者については、前稿では山下8段以外はすべて学会、法曹会の諸先輩や尊敬する同年代のご夫妻について記述したにとどまり、もともと芸能人については興味も知識も皆無に近い筆者としては、記述する気もないし、あっても記述すべきことは皆無である。ヤクザについては、興味大ありだが、知り合いはないし、残念ながら特定不能・記述不可能である。
  • 飲食の実態については、前稿では花を見る会と園遊会の両者をごっちゃにしてしまい、御猟場の鴨の焼き鳥が出たと書いたのは明らかに園遊会の話だったに違いない。さらに、使用済みの三方を土産に持ち帰ったと書いたのも間違いで、これは三方ではなく桝であることが、前稿に目を通した我が家の賢夫人(!)によって実証された。前稿投稿の上帰宅したところ彼女が何処からか持ち出してきた上に、パソコンで撮影してくれたのがここに掲載した、「桜を見る会」で頂いて帰った桝であり、これによって平成15年の「桜を見る会」は、4月19日に開かれ、事務当局は内閣府であることが明らかにされている。

 さて、この間2週間足らずの間に、マスコミと野党が、安倍首相、安倍内閣の選挙民の旅費、宿泊費の支給又は立て替え払い等々の為の「国費流用」疑惑の追及騒ぎに批判的な数少ない論調の中で筆者の目に留まった中で、最も的を得た指摘と思えるものに、「国の安全を忘れた季節外れの『花見』論争でいいのか」(JBpress11/28(木)6:00)がある。以下、この記事で指摘されている論点の中で、筆者が我が意を得た点を(多すぎて困りつつ)挙げておく。

  • 国民向け「歌舞伎の大見得」

立憲民主党の安住国対委員長は、首相の後援会が前夜祭で1人1万1000円のところを5000円で開いたことが問題だと追及しているが、安住氏の講演会「淳風会」は2万円会費で行った2回の朝食会で、同じホテルで飲食代込みで支払った使用料が一人当たり1739円と2058円となっている(産経新聞令和元年11月21日付)。また、「1人2万円の会費で、ホテル側に支払う食事代は精々一人2000~3000円です」という証言もあり(週刊新潮2019.11.28)、5000円は払い過ぎ位であり、精々3000円という支払額よりも安住氏講演会の支払いは少額なのに、テレビ放映の国会では「最低1万1000円とされる費用なのに5000円の参加費は安すぎる」と声を荒げて問い質した。このような偽善で言い募る時間の浪費の結果、本質的な国会論議の機会を失わせ、逆に自分達の質問時間さえ短くしていることさえ解ろうとしないと指摘、「議員1人当たり年間約1億円の税金がつぎ込まれているというのに、ひどい話だ。

  • 大臣の身体検査でなく、政策で詰問せよ

安保法制などの強行採決を野党は批判したが、産経新聞の阿比留氏が「野党が政権党だった3年間の方が強硬採決が多かった」というデータを示した途端に、野党の攻勢は勢いを失ってしまった。大臣となると追及されるが、その大臣はつい先日迄は並みの議員であったのだ。しかも追及されている事案は選挙運動や盆暮の付け届け、冠婚葬祭などの平議員も関わる事案である。

 解りやすく大まかな数字にすれば大臣20人中の2、3人、すなわち約1割が決まって俎上に上がる。ホテルの支払いでも解るように、この「1割」は与党ばかりでなく、野党にも等分に存在し、全議員700余人中70人に嫌疑がかけられても不思議でないということであろう。

 公職選挙法に抵触する可能性がある事案ともなれば。質問されても仕方がないが本来警察事案であり、大臣になったばかりに国会で身体検査絡みの質問を受けるというのは国会の本義から外れている。

 さて、以上の指摘にみられるようにこの問題が、本来国の政治の基本的重要案件を審議すべき場である国会の場で、貴重な時間とコストを浪費して不毛の議論を行うのではなく、安倍首相側に政治規制法違反に該当する刑事責任の存否如何という法律問題として刑事事件として処理すべきであるとすると、どのような手続きにより、どのような決着が予想されるかは、軽々に予測しうる程度に明々白々とは言い難いと言わざるを得ない。テレビのニュース番組などにおける一部法曹人の軽々しい指摘に見られるように、「首相の発言がコロコロ変った」から有罪といった単純な問題ではなく、例えば刑事司法の第一人者たる郷原信郎弁護士の分析(郷原事務所のブログ郷原信郎が斬る2019年12月2日)に見られるように、詳細・緻密な分析が必要であり、それだけに検察当局が現首相の起訴に軽々しく動くとは予想し難いものと言わざるを得ない。

 とは言え、現時点では我が国の憲政史上最長となった安倍内閣の帰趨は予断を許さない状況に立ち至っていると言っても過言ではないと考えられ、旧暦では極月とも師走とも呼ばれる時期に相応しく、週刊誌が「極道も当惑する野党の『ヤクザ利用』」と呼ぶスキャンダルが野党とマスコミの連係プレーによって、我が国の政界に更なる混迷を惹起するに至ったと言えよう。

2.  「ヤクザ」=「反社会勢力」は、自明の理か?

読者諸氏は、「ヤクザ」と言えば、「切った、張った」の怖い、怖い「お兄いさん」しか浮かばない知能程度が低く教養もない最近の言論人と、同様に無知蒙昧のマスコミのご宣託を連日のように読み、聞かされているため、「ヤクザ=悪」の単純方程式しか頭に浮かばないかも知れず、例えば「近代ヤクザ肯定論-山口組の年」と題する宮崎岳氏の名著などを読んだこともないし、聞いたこともないに違いないが、これは1990年に、比較的良心的な筑摩書房から発売された462頁にも及ぶ浩瀚な学問的労作である。先日、我が家の書斎に山と積まれた本棚の片隅に埋もれていたこの本を取り出してみたところ、そこに挟んでおいたこの書物の発刊当時のNY TimesとJapan Timesの切り抜きで見る限り、長文の書評で海外にも紹介された名著であることが窺える。

 この労作では、「ヤクザ」は反社会のレッテルとは裏腹に、特に部落民、朝鮮人など蔑まれてきた少数民族出身で、近頃はやりの言葉で言えば『グレタ』若者達の職場であった炭鉱、港湾など、危険極まりない過酷な職場の労働条件の改善の為に悪辣な使用者と闘って、その改善に貢献した事実が綿密な調査の結果として克明に記述されている。こうした下層社会の出身者達がおかれた、劣悪な社会的地位、劣悪な職場環境の改善に貢献した社会的貢献の実態からみると、いわゆる「ヤクザ」とされる集団=「反社会的」勢力として蔑み、これらの集団との政治家の接触を単純に「悪」として糾弾する一部野党、これと同調する一部のマスコミの単純極まりない、言行に対し全く反論のかけらも見られない昨今の風潮は、筆者からすれば理解不能以外の何ものでもないと言わざるを得ない。

 本稿執筆時点で、中曽根康弘氏の逝去が報じられたが、戦後の自民党の政治家の中で中曽根首相に次ぐ偉大な政治家として後藤田正晴、野中広務の両氏が挙げられるが、後者はその出自から当然ながら、共に強固な反差別、反戦の闘志の強固さが、自民党政治家の中でも抜きんでた政治家として高く評価されていることは否定し難い。このような事実を直視すれば、只々「反社会的勢力」= untouchable(不可触賎民)というレッテルを貼って、政治家の「ヤクザ」との接触を一律、ひとからげに否定する政権野党とマスコミの大合唱は、無知蒙昧な輩の遠吠えと言っても過言ではないように思えてならない。 

Previous post

「我が国の歴史を振り返る」(16) 「大日本帝国憲法」の制定

Next post

「我が国の歴史を振り返る」(17) 明治時代以降の「国民精神」を育てたもの