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「我が国の歴史を振り返る」(15)

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「明治維新」による国力増強

▼はじめに(“些細な出来事”について)

歴史を研究しますと、はじめは“些細な出来事”(と思ったこと)がその後の“壮大な歴史のうねり”に発展することがよくあることに気が付きます。「事の始まりとはこのようなものか」といつも考えさせられますが、最近の“些細な出来事”を取り上げてみましょう。

11月24日、香港区議会の選挙があり、民主派が8割超の圧倒的勝利を獲得しました。当事者たちが「これはデモでなく、中国から自由を守るための戦争だ」とする一連のデモ騒動が多大な犠牲を払いつつここまで発展してきたのです。しかし、香港区議会の権限は限定されており、予算の審議権もありません。行政長官の選挙でも職業別団体や立法会枠が大半を占め、数で言うと区議会枠はわずか約1割にしか過ぎないとのことで、香港の統治体制に変化を与えるまでには至らないようです。

それでも、「この先はどうなるのだろう」と思案していた矢先、中国の新疆ウイグルの「職業技能教育訓練センター」(収容所)に関する共産党の内部文書が流出したというニュースが流れました。

100万人以上のウイグル人が強制収容されているといわれる同センターにおける人権無視の思想教育などについては、これまで何度も批判されていましたが、この内部文書によって、ウイグル人監視のためにAIネットワークなどの事実が明らかになりました。

問題の深刻さは、それら事実の暴露に加え、内部文書が流出したことにあるのは明白です。さっそくウイグル自治区政府は「完全な捏造だ」と否定しているとのことですが、当局の慌てぶりが目に浮かぶようです。

「ウイグルの次は香港人改造か」とささやかれていた折、米国においては、上下院両院ともに与野党が一致して通過させた「香港人権民主法」案にトランプ大統領が署名し、同法が成立しました。香港の人権侵害に強い警告を発している同法に対して、当然ながら、中国は「断固として反撃」と猛反発しております。

米中には貿易協議もあり、それへの影響も含め、香港問題は今や米中問題に発展しつつあります。双方が相譲れない「人権」が焦点であり、“人類の未来をかけた戦い”に発展する可能性もあります。よって、引き続き緊張感をもって注目し、可能な対策を今から講じておく必要があるとだれもが考えるのではないか、と私は思います。

しかし、我が国の政治家の先生方やマスコミは違います。前回紹介しました韓国、最近の北朝鮮の挑発、さらにはこれら米中の動きなど、歴史の大きなうねりに発展しそうな事象が起きていることに目を閉じ、耳をふさぎ、日々何を議論しているのか、そして何を煽っているのかと繰り返すだけでも呆れます。このような状況下では、仮に近未来に周辺国に何かが起きた際に最も慌てふためくのは我が国であろうことは明白でしょう。

その際に、「政府は何をしていたのか」などと自分達がやっていたことを棚に上げた無責任な発言は決して許さず、二度と国会に送ることなどないような“賢い国民”でありたいものです。

▼「岩倉使節団」の欧米派遣

 さて「明治維新」です。「廃藩置県」を強行してからわずか約半年後の1871(明治4)年12月、政府は、「不平等条約」の改正と西洋の諸制度の研究のため「岩倉使節団」を欧米に派遣します。メンバーは、岩倉具視以下、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文など時の政府の主要メンバーに加え、中江兆民、津田梅子など総勢107人の大所帯でした。

元々、大隈重信の発案により小規模な使節団を派遣する予定だったようですが、政治的思惑などからこのような大規模な派遣になったといわれています。

なぜこの時期の派遣となったかについては、安政の諸条約の協議改定期限が翌年の1872(明治5)年の5月26日となっており、その予備交渉のために派遣を急いだと考えられますが、それにしても派遣時期、派遣メンバー、そして派遣期間などいずれも“よく思い切ったものだ”と感心させられます。

ここで、明治政府が外交の“最優先課題”とした「不平等条約」ついて少し触れておきましょう。安政の諸条約が治外法権や関税自主権など「不平等条約」だったことは有名ですが、最大の被害は「貨幣を同種同量で交換する」との条文だったといわれます。

細部は省略しますが、外国から銀を持ち込むと高い比率で我が国の金に換金でき、それが大量の金貨(小判)の海外流出に繋がったのです(その総額は約100万両との分析があります)。慌てた幕府は金の含有率を3分の1にする改鋳を実施しました(「万延の改鋳」といわれます)が、今度は世の中に大量の貨幣が出回り、激しいインフレとなって大混乱に陥ります。

“経済的視点”で「歴史」があまり語られないのは不思議なのですが、経済的にはこのような大混乱の真っ最中に、我が国は「明治維新」を迎えたのでした。

明治政府は、幕府から“外交権”を引き継ぎましたが、政府内には「勅許を得ずに締結した条約は即刻改正すべき」との強硬な意見が出ます。この流れで米国に渡った使節団は、早速、米国で交渉を開始しますが、「明治天皇の委任状が必要」との指摘を受け、大久保と伊藤が急遽引き返すという失態もありました。使節団は、米国で8ヶ月も費やしたものの条約改正には至らず、さらに8ヶ月を費やして欧州12カ国を意欲的に訪問しました。

“日本を近代国家と見なさない”欧米諸国から条約改正については相手にされませんでしたが、各国の政治や産業の発展状況を視察し、直に西洋文明や思想に触れるなど、使節団による西洋の諸制度の研究・吸収は成功しました。こうして当初の予定から大幅に遅れ、出発から1年10ヶ月後の1873(明治6)年9月、一行は帰国します。

▼「殖産興業・富国強兵」のスローガン

 岩倉使節団が欧米滞在間、国内においては、西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助、江藤新平らによる「留守政府」と呼ばれる残留組の手によって次々と改革が進みました。この頃から「殖産興業・富国強兵」がスローガンとして掲げられ、積極的に西洋文明を受け入れるために「お雇い外国人」と呼ばれる外国人を雇用、様々な分野で助けを受け、近代国家建設を推進しました。

早くも1872(明治5)年には新橋―横浜間にイギリスの技術提供を受けて鉄道が開通しました。幕府が米国と締結した「鉄道施設免許」(1867年)を却下、英国の資本提供も拒否しての“自力開通”であり、欧州以外の国家で、自前で鉄道を敷いたのは我が国が初めてでした。なお、当時の「新橋駅」は、「旧新橋停車場」として、現在の汐留におおむねそのままの形で保存されています。

この時代、鉄道は“植民地化のひとつの手段”でしたので、安全保障上、そして兵員の動員(機動)の観点から軍事的にも大きな意味がありました。事実、後の「西南戦争」における兵士や武器は、鉄道によって東京から横浜へピストン輸送されます。

「留守政府」が実施した主な改革としては、「学制改革」「徴兵制」「地租改革」「太陽暦の採用」「司法制度の整備」「断髪令」など多々ありますが、中でも、明治5年には義務教育を開始、学費を無償化し、約8年をかけて全国に2万4303校(現在は、約2万6千校)の小学校を作ります。「四民平等」によってすべての国民に教育の門戸が解放されたのです。

▼「徴兵制」の制度化

 「富国強兵」の本丸というべき「徴兵制」は、明治維新以来、幕末から奇兵隊などの進んだ兵制を採用していた長州藩出身者の大村益次郎や山県有朋らによって推進されました。彼らは、それまで政府の軍隊が「御親兵」と廃藩置県のあと一部の藩士を徴した「鎮台」しかなかったことから、「国民皆兵」の必要性を唱えます。

1869(明治2)年、大村が暗殺されて一旦挫折するも、山県がこれを引き継ぎ、1873(明治6)年、「徴兵令」が発令され、6個の「鎮台」が置かれたのです。

全国的な徴兵を可能にした背景には、「戸籍法」(明治4年制定)に基づく「壬申戸籍」が整備されたことが挙げられますが、「徴兵制」は、江戸時代の特権階級だった武士の解体を意味することから、武士の不満や平民の恐怖も大きく、各地で「血税一揆」と言われた徴兵反対運動も起こります。

やがて「征韓論」や「西南戦争」が起こるなど、明治維新による国家の大改造は決して順風満帆ではありませんでした。次号以降、それらについても振り返ってみましょう。

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