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『我が国の歴史を振り返る』(3) 「大航海時代」―欧州人と初めての関わり―

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▼はじめに

2016年10月、「8世紀末の奈良時代、遣唐使に混じって『破斯(はし)』という名のペルシア人が来日し、天皇に謁見したと記してある出土遺物が確認された」とのニュースが流れました。

これまで、最初に我が国を訪れたと記録に残る欧州人は、種子島へ鉄砲を伝えたポルトガル人(1543年(42年とする説もあります))といわれて来ましたので、欧州人ではないものの、母国ペルシアから陸路(シルクロード)を経由して中国に渡ったと推測される「破斯」の来日が事実であれば、我が国は、8世紀頃から中国や朝鮮以外の国とも交流があったことになり、「国際色豊かな平城京の姿を知る史料となりそうだ」と話題になったのでした。

▼当初の主役はポルトガルとスペイン

さて今回は、我が国の戦国時代、フランシスコ・ザビエルをはじめ多くの宣教師や商人などの欧州人の来日を可能にした「大航海時代」を取り上げます。

「大航海時代」とは15世紀中頃から17世紀中頃まで、欧州人によるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代を指します。その主役はポルトガルとスペインです。

15世紀中頃の欧州は、オスマン朝トルコが全盛を極め、地中海を支配しておりましたが、両国はオスマン帝国から最も離れ、なおかつ大西洋に面しているという地理的利点がありました。

大航海を技術的に可能にしたのは、「キャラック船」とか「キャラベル船」と呼ばれる大型船が建造されるようになったことでした。我が国では「南蛮船」と呼ばれるこれらの船は、日本の「和船」と違って“甲板”があります。“甲板”があれば、樽のようにいくら大きな波に揉まれても元に復元するので、大海原にこぎ出すことができるのです。

また、大型船なので大量輸送に適した広い船倉を持っておりました。そして、「羅針盤」(最初に羅針盤らしきものが使われたのは3世紀の中国といわれます)が中央アジアやオスマン帝国を経て欧州に伝わりました。 

このような航海技術に加え、両国には強大な権力を持つ王や航海を支援する出資者たちが出現し、海外進出の体制が整ったのでした。それでも当時の航海は、「一航海の帰還率は20%」と言われる危険極まりないものでしたが、航海が成功し、新しい領土を獲得したりするものなら莫大な富が飛び込んできます。“一攫千金”を狙い、早い者勝ちのような機運が人々の競争心を煽り立て、航海ブームが吹き荒れたのでした。

話は逸れますが、この帰還率の低さから、出資者たちはリスクを最小限にするため、「分散投資」を採用しました。これが現在の「株」の起源といわれ、17世紀になると、「東インド会社」のような株式会社に発達していきます。

こうして、「地球球体説」と西回りの航海を信じたコロンブス(ジェノバ人)がスペインの援助を得て航海し、1492年、新大陸を発見したことに始まり、バスコ・ダ・ガマ(ポルトガル人)が1498年、アフリカ大陸の最南端・喜望峰、さらにインドへの航路を発見しました。また、スペイン王の信任を得たマゼラン(ポルトガル人)が1519年、西回りに航海し、太平洋と大西洋を結ぶ南アメリカ大陸の最南端・マゼラン海峡やフィリピン諸島を発見、1522年、ついに世界一周に成功しました(マゼランは1519年、フィリピンで死亡)。

▼「トルデシリャス条約」と「サラゴア条約」

この2つの条約名をすでに知っておられる読者は相当の「歴史通」と言えるでしょう。新航路発見後、スペインとポルトガルの間で、発見した土地や島の帰属を巡る紛争がしばしば発生しました。そこで両国は無用な争いを避けるため、1494年、まず「トルデシリャス条約」を結びました。

本条約は大西洋に浮かぶヴェルデ島の西方370レグワ(約1770㎞)、現在の西経45度線付近を「分界線」とし、この「分界線」の西方全域をスペイン、東方全域をポルトガルの進出範囲と定めました。驚くなかれ、両国は地球を南北に真っ二つにしてそれぞれの支配地域を決めるという乱暴な企てを行ったのでした。しかも、当時の教皇・アレクサンデル6世の承認も得たのでした。この条約によって、オランダ、イギリス、フランスなど大航海後発国は、領土獲得の優先権から締め出される形となったのでした。

そして1522年、マゼラン艦隊の生き残りが世界一周の航海を終えてヨーロッパに帰還し、地球が丸いことが実証されました。両国の間に「もう一本、線を引かないと分割の意味がない」との議論が沸き上がり、1529年、再び調整して「サラゴア条約」を結び、地球の反対側の「分界線」を定めました。

その「分界線」は、東経135度付近と言われ、ちょうど日本列島の真上を分断するものでした(資料によっては東経144度30分付近との説もありますが、当時の知識や技術から誤差の範囲内と言えるでしょう)。

▼「ここに地終わり海始まる」

ユーラシア大陸の最西端はポルトガルの「ロカ岬」です。ここに、ポルトガル史上最大の詩人と言われるルイス・デ・カモンイス作の「ここに地終わり海始まる」との石碑が建っています。

私は、どうしても「ロカ岬」に行ってみたくなり、2017年2月、この地を訪れました。写真で紹介できないのは残念ですが、「ロカ岬」に立つと、カモンイスの詩のように、広い海原に大きな夢を抱き、命を賭して立ち向かって行った当時の人々の息吹を感じることができました(ポルトガル語で書かれた写真付きの証明書を発行してくれます)。

また、首都リスボン市の航海の出港地・テージョ川河口には、大航海のシンボル「ベレンの塔」や大航海時代に活躍した偉人達を称える「発見のモニュメント」など、在りし日の栄華を彷彿させる歴史遺産がたくさんありました。

ちなみに、ロカ岬と姉妹岬になっている犬吠埼(千葉県)にはロカ岬の碑文とは逆の「海終わり地始まる」の碑があります。ポルトガル人が種子島に到来した1543年から数えて「日葡(ポ)友好450年」にあたる1993年に建立されたものです。

▼ついに欧州人が我が国に来日

もう少し「大航海時代」を続けましょう。当時の欧州人の日本に対する知識や関心は、15世紀前半に出版されたマルコ・ポーロの『東方見聞録』によってもたらされたものでした。マルコ・ポーロ自身は、13世紀後半、17年間も中国に滞在したとの記録が残っていますが、当然ながら日本に渡航した経験はありません。しかし、中国で見聞したことをもとに、日本を「黄金の国ジパング」として「中国大陸から約2500㎞に王を擁いた白い肌の人々が住む巨大な島がある」と紹介しました。

同時に、「黄金の宮殿や宝石・赤い真珠類も豊富」などとも紹介しましたので、当時の欧州人の好奇心を刺激し、ポルトガル・スペイン両国は、地球の反対側の「分界線」上にある未開(未所属と言うべきでしょうか)の地・日本に我先に行き着くことを目指したのでした。

我が国が本格的に西洋列国と関わりを持つきっかけともなったポルトガル人による「鉄砲の伝来」や「フランシスコ・ザビエル(スペイン北部に住むバスク人)の鹿児島上陸」(1549年)にはこのような背景がありました。

しかし、本歴史シリーズの2回目に紹介しましたように、我が国はまさに「FAR EAST」、その道のりははるか遠く、欧州人が初来日したのは、「大航海時代」が始まってから約1世紀弱の歳月が流れた16世紀半ばでした。ちょうど戦国時代の末期、織田信長が国土の約半分を統一しようとしていた頃で、全国的にみれば相当な武力量を保持し、この武力を駆使する経験も豊富な「武士全盛の時代」だったのです。

その後、相次いで来日した宣教師や商人などの欧州人達は、キリスト教の布教に加え、日本の植民地化を企図したことは明白ですが果たせませんでした。当時のわが国は、「地の利」「時の利」「人の利」を有していたのです。

我が国と対比されるフィリピンは、1565年、300人ばかりのスペインの騎馬軍団に占領され、以来約300年間、スペインの植民地になりました。フィリピンという国名さえも当時のスペイン皇太子フェリペ(後の国王フェリぺ2世)の名に因んでつけられてしまいます。

フィリピンの名誉のために付け加えますが、最初に制圧しようとしたマゼラン一行に対しては、セブ島近くの小島マクタン島のラプラプ酋長は徹底抗戦し、この戦いで一本の毒矢がマゼランの右足を貫きました。これが致命傷になって、マゼランは最期を遂げ、ラプラプに首を切り落とされました(1919年)。フィリピンの教科書には、「マクタンの戦いは、外国の侵略者から島の独立を守ることに最初に成功した重要な記録」と書かれているようです。

当時、なぜ我が国が欧州の植民地にならず独立を維持できたか、などの細部については次回以降に取り上げましょう。

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