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「我が国の歴史を振り返る」(4) 信長・秀吉時代の外交・防衛

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▼はじめに

信長・秀吉そして家康の3人は、天下統一を成し遂げた偉業のみが歴史上の話題になっていますが、外交・防衛上も歴史的偉業を残したと考えております。まさに「人の利」です。まず、欧州人と最初に接した戦国時代末期、信長・秀吉時代の外交・防衛を振り返ってみましょう。

戦国時代は、「応仁の乱」(1467年~1477年)をきっかけに始まりました。守護大名たちが戦乱に明け暮れている間に、戦国大名など地方の実力者が力をつけ、身分の低い者が実力で上の者を倒す“下克上”という風潮が現れたのです。その結果、室町幕府の権威が衰え、各戦国大名や宗教勢力などは、競って領土の拡大を企図して武力(軍事力)の増強に努め、争いを繰り返しました。そして、なんと約100年もの長きにわたり、“戦乱の世”が続いたのでした。我が国の歴史上、極めて異常な時代でした。

前回も紹介しましたように、欧州人が初来日したのは、その戦国時代の末期、信長が国土の約半分を統一しようとしていた頃でした。全国至る所に刀や槍や弓矢などの“兵器”が溢れていました。

そこに鉄砲が伝わりました。刀鍛冶がすぐにその複製を製造し、鉄砲鍛冶が火縄銃を改良発展させました。こうして、鉄砲は、当時の戦場を支配する主力兵器として活用され、戦術や築城術に大きな変化をもたらすなど、いわゆる“軍事革命”を引き起こしました。

▼信長――存在そのものが“防波堤”に!

中でも、鉄砲伝来からわずか30年余りの1575年、「長篠(ながしの)の戦い」において信長が採用した鉄砲の“三段撃ち”は画期的かつ近代的なものでした。最近、この信憑性について異論がありますが、大量の鉄砲の一斉射撃によって武田の騎馬軍団を撃破したことは間違いなく、欧州で同様の戦術を採用したのは、それから1世紀以上も後の1691年、ハプスブルク家がオスマントルコ軍を破った時の戦いが最初だったといわれますので、信長はまさに先見の明がある“軍事的天才”だったのです。

その信長は、仏教など既存の宗教勢力をけん制するため、キリスト教の布教を認めたといわれます。そして、イエズス会宣教師ルイス・フロイス(当時の日本を書き記した『日本史』の著者)をはじめ多くの宣教師たちと快く謁見しました。来日当初の宣教師たちは布教のみに専念し、植民地支配の意図などみじんにも出さなかったことから、信長自身、彼らを“脅威”とは認識しなかったものと推測されます。

逆に、宣教師たちにとって、当時の我が国はどのように映ったのでしょうか。日本は遠い国(FAR EAST)、相当の武力量、その上、すでに天皇や幕府を超えた権力を保持し、イエズス会のヴァリニャーノ宣教師をして「最大の君主」と言わしめた信長の存在がありました。

「ペルーやフィリピンなどと違い、力づくで植民地化するのは難しい」と感じたのではないでしょうか。「信長そのものが、宣教師たちの横暴を阻止する“防波堤”になっていた」と言って過言でないと思うのです。

当然ながら信長は、宣教師たちから欧州やアジアに関する様々な知識を得たものと考えられますが、国外に目を向け、行動を起こす前に、「本能寺の変」(1582年)で自刃してしまい、信長の外交・防衛政策は少し形を変えて秀吉に受け継がれます。

▼秀吉――キリスト教保護から追放へ政策転換

信長の後を継いだ秀吉の時代になると、国外との貿易が盛んになってきました。秀吉は、朱印状を与えた商人だけに対外貿易を許可した「朱印船貿易」を行います。

秀吉は、当初は信長の“キリスト教保護方針”を受け継いでおりましたので、急速な勢いでキリスト教が広まり、高山右近、小西行長、黒田官兵衛などのキリスタン大名も現れました。

しかしこの頃から、権力のお墨付きを得たイエズス会やキリスタン大名などは、我が国の天皇制や自然信仰まで否定し、独善的な布教や破壊活動を開始するなど、“一神教”の本性を暴露し始めました。そして日本人を奴隷として国外に連れ出していることも判明したのです。

この“日本人奴隷”については、なぜか教科書などでほとんど触れられていません。調べてみますと、あの時代のキリスト教徒たる欧州人が全世界で奴隷交易として人身売買を行っていたのは事実だったようです。

日本人に対する扱いもけっして例外ではなく、奇遇にも“欧州に最初に辿り着いた日本人”は奴隷たちだったのです。その証拠として、ポルトガルの教会の記録に「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として本国に連れ帰った」との記述(1555年)や、国王セバスティアン1世が「カトリック教会への改宗に悪影響が出ることを懸念して、日本人の奴隷交易の中止を命令した」との記録(1571年)があります。また「天正遣欧少年使節」(1582年)の少年たちが各地で日本人奴隷を見かけたとの記録も残っています。

しかし、その数は定かではありません。最大50万人だったとの記述がある一方で、実際は1万人前後だったとする説もあります。それでも、北朝鮮による拉致被害者数などと比較にならないほど途方もない数の日本人が奴隷として国外に連れ去られたのでした。

宣教師の処刑や信者に対する弾圧などは語り伝えられていますが、このような歴史的事実も知っておかねばならないと思うのです。

さて、このような事実を知り、秀吉は突然方針を転換、キリスト教の布教を禁じて宣教師らの国外退去を命じました。有名な「伴天連(バテレン)追放令」(1587年)です。ただし、「朱印船貿易」については引き続き許可したこともあって、追放令は不徹底なものになりました。また秀吉は庶民の信仰までは禁じませんでしたので、キリスタン信徒はその後も増え続けたのでした。

▼秀吉の積極的外交と軍事行動

秀吉は、九州平定するや、対馬の宗氏に朝鮮服属の交渉役を命じ(1587年)、島津氏には琉球の入貢を命じました(翌88年)。

外交的には、前述の「バテレン追放令」(87年)を発布した後、ポルトガル領のインド副王に対して「近く明国を制服する。貴国と近づくので交誼を深めたい。我が国は神国なのでバテレンの布教は禁止するが、商人の往来は許す」旨の親書を送る一方で、スペイン領のフィリピン総督には「高麗人と琉球はすでに予に帰服した。明国も制服しようとしている。フィリピンとは未だ親好がないが、この地を制服したい。予に服従すべき時だ」と服従要求の書簡を出しています(91年)。これにより、フィリピン提督は真剣に怯え、マニラに戒厳令を布き、スペイン国王に援軍を要請するなど非常事態を宣言したようです。

このような中、「朝鮮出兵」が始まりました。「文禄の役」(1592年5月~93年7月、総勢15万9千人)です。日本軍は、釜山に上陸し、朝鮮半島を縦走、現在の北朝鮮と中国・ロシアの国境付近まで兵を進めました。戦いには李王朝の朝鮮軍に加え、明軍も参戦しましたが、日本軍は兵糧が尽きたこともあって1年あまりで撤退しました。

その後、日本と明は講和交渉に入りますが、秀吉は、再び、フィリピン提督に「予が言を軽視すべからず」と更に激しい書簡を送るとともに、高山(こうざん)国(台湾)にも書簡を送り、日本への服属を求めました。

1596年10月、スペイン船サン=フェリペ号が土佐に漂着したのをきっかけに、「布教は侵略の手段」との“手口”を見破った秀吉は、国内の宣教師や信徒を長崎で処刑しました(「二十六聖人殉教」といわれます)。

そして、「慶長の役」(1597年1月~98年12月、総勢14万2千人)と言われる2度目の「朝鮮出兵」が始まります。今回は、当初から明の反撃を受けて朝鮮南部から先に進むことができないまま、秀吉が死去(98年)してしまい、撤兵して終結しました。計画していた台湾出兵もなされませんでした。

「なぜ秀吉は朝鮮出兵したか」については諸説あり、今もって“歴史の謎”として論戦が続いているようですが、すべては、スペインやポルトガルの日本制服計画を牽制し、抑止するための手段だったことは間違いないと考えます。失敗したとは言え、「朝鮮出兵」は、当時、“世界最強”を自負するスペインの“心胆を寒からしめる効果”があったと考えるのが妥当ではないでしょうか。

これを裏付けるかのように、前述のフロイスは、『日本史』の中で、最初は持ち上げた秀吉を途中から罵詈雑言でこき下ろし、本音をむき出しにしております。

晩年の秀吉は、その不可解な行動から“暗愚”だったことが“歴史の常識”になっているようですが、少なくとも外交・防衛の“嗅覚”は正常だったと考えられ、結果として、我が国の植民地化を実力で阻止しました。改めて“歴史の常識”を見直す必要があるような気がしてなりません。

江戸時代に入り、家康は秀吉の政策を発展するような形でついには「鎖国」に至ります。それについては次回以降取り上げましょう。

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