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過去の生活困難期を振り返る(2)

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~本稿は、1月25日刊行の『看取り方と看取られ方』(国書刊行会)のあとがきを一部修正、分割したものです。

医師 NPOソシノフ運営会員
小松秀樹

2018年1月26日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

◆第二次生活困難期

第二次生活困難期の始まり、すなわち、昭和恐慌では、米価、繭価が下落し、農村が疲弊しました。農家が収入を増やそうとして増産したため、価格はさらに下落しました。借金せざるをえない農家が増えましたが、高金利だったため、借金は没落に直結しました。東畑精一は、日本農業を窮迫的商品生産と呼びました(有馬学『帝国の昭和』講談社学術文庫)。「可能ならば自家で消費したい生産物を窮迫やむを得ず手放すという『商品化』であり、生産手段としての土地は単に資本ではなく、財産であり、資本主義的経営が負債をもって始まるのと正反対に、金を借りるのは農村では経済的没落の始まりである」と農村経済の後進性を説明しました。
1931年大蔵大臣に就任した高橋是清は、「円の為替レート低下を放任し、低金利を維持し、政府の財政支出を激増」させました。財源は「日銀の引き受けによる赤字公債」でした(有馬学)。

昭和初期、左右、政治的立場を問わず、「窮乏の農村」に強い感情を伴う特別な視線が向けられました。農業を人類の社会生活上の根本だとする農本主義者は、農村の疲弊をもたらしたのは、都市ブルジョアジーの農村搾取と支配であるとして、農本主義的計画経済による農業再建を主張しました。農村の疲弊に対し、農本主義者は左派勢力と協力して、農村救済の請願運動を展開しました。農本主義者の中には、青年将校と提携して5・15事件に参加する者もいました。政府は救農土木事業で農民に現金収入を得させ、「自力更生」をスローガンに農山漁村経済更生運動を展開して農民の自立を促しました。具体的には、産業組合にてこ入れし、農村経済更生計画を樹立させ、負債整理、生産統制、経営改善を図りました。

当時、中国では国民党の勢力が拡大していました。帝国主義による中国侵略反対が、中国人の間で共有され、中国のナショナル・アイデンティティが形成されつつありました(有馬学)。日本陸軍は、国民党が中国を支配するようになれば、日露戦争で獲得した満州の権益が危うくなるのではないかと危惧していました。満州の領有を目ざして、軍閥支配を弱めるために張作霖を爆殺し、柳条湖事件によって満州事変を引き起こしました。以後、日本は15年戦争と呼ばれる長い戦争に突入しました。
日露戦争で獲得した満州の権益に対し、日本国民も強い執着感情を持っていました。これが「生命線」という表現を得て、政治に大きな影響を与えるイデオロギーになりました。

満州国の樹立後、内務省、農林省、農業教育者は、満蒙移民を推進しました。農家の二男、三男は、農業を継ごうにも、土地がありませんでした。地主制が農業生産の大きな阻害要因でした。農民は土地飢餓状態にあり、移民に向かいやすい状況にありました。
「生命線」というイデオロギーは、国民の「生活権」確立と結合されることによって、誰にも反対できない正義になりました(有馬学)。無産政党を含む多くの政治家が、統制経済による、「搾取なき正義社会」建設を唱えました。当時の知識人は、賛否は別にして、マルクス主義の影響を強く受けていました(丸山真男『日本の思想』岩波新書)。満州国や日本政府では、統制経済を推し進める革新官僚が力を持つようになり、マルクス主義の影響を受けた経済テクノクラートが、調査と数字で統制経済の基礎を固め、重工業化をおしすすめました。

日中戦争について、近衛文麿は、日本側の真意は領土や賠償を求めるものではなく、中国の独立を支援するものであるとしました。こうした「聖戦」イデオロギーを最も積極的に鼓吹したのが、無産政党の社会大衆党でした。侵略戦争ではなく解放戦争であるとする立場が、国内の「革新」、すなわち資本主義を打倒して労働者・農民の生活を改善する変革であるとする立場とセットになっていました(有馬学)。しかし、相手から頼まれてもいないのに、相手の独立を確かなものにするために、その相手と戦争するという論理には無理がありました。勝者は正当性を容易に確保できますが、敗者の無理な論理が受け入れられることはありません。
斎藤隆夫の有名な「反軍」演説は、「聖戦」イデオロギーに疑問を投げかけるものでした。国際社会の現実は道理の競争でなく徹頭徹尾力の競争であり、そのような現実に対して、道義に基づく国際正義に立って東洋永遠の平和のために戦うという戦争が成り立ちうるのかというきわめて常識的な疑問でした(有馬学)。この演説によって、斎藤は議員辞職に追い込まれました。空虚な理想的言辞が、現実的議論を排除しました。

対米戦争の開始後、国民の生活は急速に悪化しました。敗戦後、政情は混乱し、大きな労働争議が頻発しました。日本国憲法によって、人びとの考えは、天皇制イデオロギーから民主主義、個人主義に大転換されました。GHQの指示によって農地改革が断行され、地主制度が完全に終焉しました。敗戦のどん底の中で貧富の差が解消されたのち、右肩上がりの経済成長の中で日本全体が豊かになりました。格差の解消が総中流意識を高め、国民の統合と安定に寄与しました。
敗戦時の国の債務残高は、現在(2017年)と同様、GDPの約2倍にまで膨らんでいました。経済学者の伊藤正直によると、卸売物価は、1945年に比べて、1949年に約70倍になりました(「戦後ハイパー・インフレと中央銀行」)。このインフレにより、1950年には国の債務残高はGDPの15%にまで縮小しました。
第二次生活困難期は、農村の疲弊で始まり、大規模な戦争、敗戦という激動を経過した後、奇跡的な復興で終了しました。マルクス主義者が問題にしていた日本経済の後進性も激動の中で解消されました。高度経済成長期には、国家主導の統制経済的な手法が、大きな成果を生みました。生産活動の微細な部分まで、国家が関与するのが当たり前になり、結果として個人の自由で大胆な活動が阻害され、不足することになりました。
◆移民

日本の生活困窮者の一部は、19世紀末より、新天地を求めてアメリカに移民しました。1905年、サンフランシスコに日本人排斥の組織が作られ、以後、各地に広がりました。アメリカが閉ざされると、日本の生活困窮者はブラジルに向かいました。1930年代に入り満州事変や日中戦争などに対する反感から、ブラジルでも日本人移民が排斥されました。次の移民先は満州でした。
満州国では五族協和・王道楽土がうたわれました。満日蒙漢朝の五族が協力して、覇道ではなく王道による統治で、理想社会を建設しようとするものでした。しかし、実態は五族協和からほど遠いものでした。送り出し側の長野県のある村長は、満州視察で、日本人が関東軍の武力を背景に傲慢に振る舞っているのを目撃しました。すでに開拓されていた現地人の農地を強制的に安く買い上げていたため、土地を奪われた現地の農民に恨みが蓄積されていました。何人かの村長は、満蒙開拓の継続性に疑問を持ちました。ある村長は、国や県に抵抗して、自分の村から満蒙開拓団を出しませんでした。別の村長は、疑問に思いつつも、国や県、地域の圧力に耐えかねて、開拓団を送り出しました。
1945年8月9日、ソ連軍が満州に侵攻すると、日本軍は開拓民を残したまま逃亡しました。満州の地を逃げまどう中、多くの開拓民が亡くなり、多くの孤児や女性が満州に残されました。疑問を感じつつ開拓団を送り出した長野県河野村の胡桃澤盛村長は戦後、自分が送り出した開拓団の集団自決を知って自死しました。
日本人に刷り込まれた閉鎖系倫理は内向きであり、その適用範囲は慣れ親しんだ世界とその中の人びとに限定されていました。しかも、異なる文化圏の人たちを納得させられる一般的原理を持っていませんでした。満蒙開拓では、閉鎖系倫理の枠外の情勢が生存確率を決めました。
◆ナショナル・アイデンティティ

日本は、明治維新以後、弱肉強食の国際環境の中で独立を確保するために、西洋文明にまなび、列強たらんと努力しました。人びとは国家主義に向かい、日露戦争の戦勝に熱狂しました。これは知識人も同じでした。15年戦争では、「生命線」「五族協和・王道楽土」「聖戦」などという実体を伴わない政治的言辞が独り歩きして、現実的な議論を排除しました。丸山真男によれば、日本には合理精神、近代科学精神が前提として存在していなかったため、事実を絶対化し、自分の肌感覚をそのまま承認する国学的思考に流されました(『日本の思想』)。自分の欲望や好き嫌いが、規範や正しさと混同されがちになりました。ひとたび戦争のような圧倒的な事件が起きると、論理的に粘り強く検討することを放棄し、事件を自然現象のように受け入れてしまいました。実体を伴わない言葉の圧力に流されるままになりました。

「通俗道徳」は、その閉鎖性ゆえの問題がありましたが、19世紀末から21世紀初めまでの大きな変化の中で、一貫して、日本人の心の奥底にあって、日本の経済発展の原動力になってきました。幕藩制、大日本帝国憲法、日本国憲法へと、日本の政治的正統性に大きな変更があったにもかかわらず、通俗道徳は、明治維新から現在まで、日本人の心に生き続けました。通俗道徳が定着していなければ、過去の二回の生活困難期を乗り越えるのは難しかったかもしれません。

日本人は、日本とは何か、日本人とは何かという問いを好みます。閉ざされた日本を想定して世界との差異を見出そうとするあまり、日本の特殊性を過度に強調しました。一部の人たちは、日本人が、日本固有の伝統的価値を共有し、これが日本国民の一体性を保っているという言説に固執しました。実際には、日本人は、外界の影響を受けて、あるいは、時間経過の中で、大きく変遷し続けてきました。安丸良夫が描く江戸後期の農民は、現代のヨーロッパ人よりはるかに、現代の日本人からかけ離れています。
問題は、しばしば、伝統的価値が、明確に定義されないまま、価値あるものという前提で提示されることです。有馬学は、天皇機関説が政治問題になったことについて、以下のような指摘をしました。

「国体」問題がやっかいなのは、それを叫ぶ人間が「国体」に関して厳密な定義を持っているかどうかとは関係なしに、正統思想として扱われることである。政治問題化するのに説明は不要であり、誰かの「国体明徴」という叫びが反響し増幅する環境が、その時代に存在しているか否かだけが問題なのである(『帝国の昭和』)。

伝統的価値なるものも、できるだけ具体的に定義して、それぞれの時代背景の中で、その機能を評価しなければ、実在するものかどうか、価値あるものかどうか分かりません。
福沢諭吉は、明治八年、『文明論之概略』で、文明を「人の智徳の進歩」であるとして、「智力発生の道に於いて第一着の急須は、古習の惑溺を一掃して西洋に行わるる文明の精神を取るにあり」と述べました。惑溺とは、福沢特有のけなし言葉です。福沢は古い日本の因習を嫌いぬきました。丸山真男は惑溺を「あるものが、その働き如何にかかわらず、それ自身価値があると思い込む考え方」であると解説しました(『文明論之概略を読む』岩波新書)。日本は維新後、西洋文明を急速に取り入れましたが、残念ながら「古習の惑溺」は今も残っています。

私自身、現在の日本にいかに問題が山積していようとも、過去のいかなる時代より、現在の日本に住むことを選びます。運慶の彫刻や、天竜寺の庭を美しいとは思いますが、鎌倉や室町時代の社会のあり方や、当時の社会を支える考え方を好みません。
江戸時代、独自の文明が形成されましたが、帝国主義の国際環境に耐えるものではありませんでした。歴史の中の一局面であり、残滓を残しつつ徐々に消えていきました。実際、私が重要だと思っているさまざまな価値の大半は、日本固有のものではありません。私は、福沢同様、他の民族に支配されないことを望みますが、この願望は、民族という集団に共通のもので、日本固有の考えではありません。民族という人間のグループの概念そのものに内在するもののように感じます。

日本の状況は外からどう見えているのでしょうか。アメリカの歴史学者、キャロル・グラックは、20世紀末の日本について「凍り付き、経済的危機に直面しても変化を拒むほど凝り固まったものとなった(『日本はどこへ行くのか』講談社学術文庫)」と表現しました。彼女は、「閉ざされた国の差異ではなく、むしろ国境を越えた共通性という観点から20世紀を読み直す」ことを提唱しました。常に世界を視野に入れること、同質性を求めるのではなく、個人の多様な活動や考え方を支援して社会を活性化することでしか活路は見出せないような気がします。

現在進行中の第三次生活困難期が今後どのように推移するのかわかりません。過去の2回の生活困難期は、いずれも、日本の人口が増加しつつある途上のできごとでした。現在、高齢化が進み、人口が減少する中で生活困難期に直面しています。過去の生活困難期と比べて、未来に向かってがむしゃらに進むという国民のエネルギーが希薄です。恐慌、暴動、あるいは、戦争という古典的な危機ではなく、将来に対する希望の欠乏とでもいうべき、新たな危機に直面しています。第三次生活困難期を乗り越えるのに、過去のように、通俗道徳が大きな役割を果たせるとは思いません。構造的に生み出される貧困層を救う新たな思想が人びとに定着する必要がありますが、その兆しは見えていません。

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