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「我が国の歴史を振り返る」(57) 「日米戦争」攻勢から防勢、そして終焉へ

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はじめに

今回、本文で取り上げます東條英機は、「日米戦争」を決意して以来、3年9カ月間の首相として、19年2月から5カ月間は陸軍大臣と参謀総長を兼務して国家の舵取りと戦争を指導しました。

よって、その戦争責任を追及する内外の評価は厳しいものがあります。中には、「日本のヒトラー」と冠した書籍もあります。しかし、史実を正確に振り返りますと、首相としての権力・権限の低さは驚くばかりで、ヒトラーと比較するようなレベルではなかったことは明白です。緒戦の「真珠湾攻撃」の計画さえ直前まで知らされず、知った後でもそれを阻止できなかった首相の権限はその事実を物語っています。

自分の意志に反して、その資質から“適任”とは言えない首相という職務に就かざるを得なかった一面もあり、その点では“気の毒な軍人”ではなかったか、とさえ思ってしまいます。

▼「絶対国防圏」強化構想をめぐる陸海軍の対立

さて「日米戦争」の第3期です。昭和18年7月頃から約1年間で、我が陸海軍が防戦一方の作戦を強いられた時を取り上げます。

昭和17年末頃から連合軍の反攻が強烈になり、陸海軍統帥部は戦局の打開に苦心します。海軍側にも「戦線の縮小が必要」とする意見がありましたが、またしても連合艦隊側は「ラバウルなど太平洋の要点の保持が必要」と主張し、現戦線の縮小に強力に反対します。

そして18年3月、山本長官が遭難するという事故もあって、8月、ようやく海軍の「第3段作戦計画」が示達されます。その概要は、「広大な太平洋地域で航空作戦を主として陸軍と協同して防勢作戦を遂行し、戦力の充実を待って攻勢に転ずる」というものです。

9月には、大本営政府連絡会議において、「今後採るべき戦争指導の大綱」として「絶対国防圏強化構想への転換」が決定されます。その範囲は千島―内南洋(中西部)―西部ニューギニアースンダ列島(スマトラ島付近)―ビルマを含む圏域を「絶対確保すべき要域」とし、現戦線で持久しつつ「絶対国防圏」の防備強化に努めるというものでした。

しかし、1か月半前に出された海軍の「第3段作戦命令」は変更されないままでしたので、連合艦隊はブーゲンビル島やマーシャル諸島など、つまり「絶対国防圏」の外側で作戦を続行し、多大な航空戦力を消耗してしまいます。

この頃になりようやく、窮迫する戦況を打開する決め手として陸海軍合一論が中央統帥部などで議論され、①中央統帥部を合一する案、②陸海軍統帥部を同一場所で勤務させ、逐次合一する案、③陸海軍省まで合一する案などが提案されますが、またしても海軍首脳の反対でつぶされます。

▼カイロ会談・テヘラン会談

さて、第2次世界大戦は、1943(昭和18)年夏頃から、戦争の終末に向けた動きが活発になってきます。そして、独ソ戦の勝敗が明確になり、日本の後退期に入ったこの段階で、米国では、日本との戦争にソ連の参加を求める声が高まってきます。

ルーズベルトが、ソ連参戦の条件に関する極秘情報としてスターリンが千島列島の領有を希望していることを知り、「千島列島はソ連に引き渡されるべき」との見解を示したのはこの頃でした。

10月19日、米英ソ3国外相会談(モスクワ会談)の席上、ハル長官は、ソ連のモロトフ外相に“千島列島・南樺太をソ連領とする”条件を提示して参戦を求めます。モロトフ外相は即答を保留しますが、会談の最終日の30日、スターリンは「ドイツに勝利した後に日本との戦争に参加する」と伝えます。

11月22日から26日、ルーズベルト、チャーチル、蒋介石がエジプトのカイロに集まって会談し、連合国の対日本方針と戦後のアジアに関する決定を行います。なお、スターリンは、「日ソ中立条約」で5年間の相互不可侵が定められており、当時は日本と戦争状態ではなかったため、この会談には参加しませんでした。

会談の結果、12月1日、「連合国は日本国の侵略を制止し、日本国を罰するために、今次の戦争を遂行している」「日本が無条件降伏するまで軍事行動を継続する」「連合国は自国の利益を求めているとか、領土を拡張しようとの思いがあるわけではない」との「カイロ宣言」が発表されます。

そして具体的には、①第1次世界大戦以降に日本が奪った太平洋諸島を剥奪、②満州、台湾、澎湖島のように、日本が中国から奪った領土を中国へ返還、④日本が暴力・貪欲により略取した一切の地域から日本を駆逐、③朝鮮半島の独立、なども盛り込まれていました(千島や南樺太については明示されていません)。

「カイロ宣言」の対日方針は、その後、連合国の基本方針となって「ポツダム宣言」に継承されますが、「カイロ宣言」はあくまで「宣言」であり、それ自体は国際法上効力を有しているわけではありません。

日本の北方領土返還要求の根拠に「カイロ宣言」が挙げられますが、今にして「宣言」を読めば、いかなる解釈も成り立つような極めて巧みな表現で書かれていることがわかります。のちの「ヤルタ会談」とともに戦後処理をめぐる論争の一部として振り返ることにしましょう。

「カイロ会談」から2日後の11月28日から12月1日まで、ルーズベルト、チャーチルのスターリン、それに3国の外相や軍指導者らが出席し、「テヘラン会談」が行われます。

会談内容は多岐にわたります。ノルマンディー上陸作戦を決行することや、戦後の世界平和維持機構の枠組みなどについても意見交換されます。スターリンは、この会談において、ドイツ降伏後の日本との戦争参戦を正式に約束します。

▼「絶対国防圏」粉砕・東條退陣

昭和19年になると、今度は、航空機の生産割当をめぐり陸海軍が対立します。海軍は「(己の消耗を顧みず)大東亜戦争は海洋戦であり、海を制するものが戦争に勝つ。制海は制空を前提とする」と陸軍の倍を要求します。

これに対して陸軍は「(海軍の作戦を批判した後)陸上基地を枢軸として陸海空の三位一体の戦闘こそが残された唯一の戦闘法である」として「もはや太平洋の主人公は海軍ではない」と譲らず、結局、陸軍が27,120機、海軍が25,750機の生産で妥協します。

海軍はいたずらに損耗を重ねましたが、陸軍も無謀なインパール作戦(3月~7月)を強行して、主力3個師団がいずれも75%以上の死傷者を出すなど、自ら「絶対国防圏」を弱める結果を招きます。

昭和19年6月には、マリアナ沖海戦で日米艦隊が激突し、空母3隻を失う惨敗に終わり、7月には、サイパンが約1万人の在留邦人とともに玉砕します。

このようにして1年も経たずに「絶対国防圏」は破られます。さすがの東條首相も自信を失いつつあり、それでも内閣改造によって打開を図ろうとします。しかし最後は、岸信介国務相の反乱に遭ったような格好で7月、ついに退陣します。後継に小磯国昭首相、そして米内光政海相が復帰し、事実上の連立内閣が成立します。

▼「捷1号作戦」の発動と失敗

 さて、第4期(昭和19年7月から終戦までの約1年1か月)を振り返りましょう。小磯内閣のもとで、和平をたぐりよせる期待を込めた一大決戦が「捷1号作戦」でした。

大本営は、「絶対国防圏」の破綻によって縮小した新国防要域の防備を急速に強化し、要域のいずれかの方面に敵が来攻した場合に、陸海空戦力を結集して決戦すると企図し、この作戦名を「捷号作戦」と名付けます。そして、捷1号がフィリピン、捷2号が台湾・南西諸島、捷3号が本州・四国・九州、捷4号が北海道と区分します。

連合艦隊の中核である第1機動部隊がほとんど使いものにならず、ようやく陸海軍航空部隊の統一指揮も準備されますが、この時期の最大の問題は航空攻撃の主目標の選定でした。

海軍側は空母機動部隊の撃滅を期すことを主張しますが、陸軍側はその可能性が少ないので、広域に分散退避させて極力航空戦力を温存し、より脆弱な敵上陸船団の撃滅を主目標にすべきと主張します。この結果、海軍が空母攻撃、陸軍が攻略部隊攻撃と陸戦の航空支援とその役割を分担します。

そして、昭和19年10月、米軍のフィリピン・レイテ島への進出を受けて、「捷1号作戦」が発動されます。フィリピン在住の陸海空戦力を集中し、大打撃を与えるという決戦構想で、主戦場となるルソン島には30万人の兵士を投入する計画でした。

その作戦経過は省略しますが、海軍航空部隊が当初の計画通り、台湾沖に出現した空母17隻、戦艦6隻を含む大艦隊を攻撃、大本営海軍部は「空母11隻、戦艦2隻など大打撃を与えた」と発表し(10月19日)、久しぶりに国民は熱狂します。

しかし、まもなく撃沈したはずの空母が台湾沖を航行しているのが判明します。海軍は「今更取り消すわけにもいかない」と、またしても陸軍にさえ伝えませんでした。それがのちに未曽有の悲劇を生みます。

大本営発表を信じた南方軍は、マッカーサー率いる米軍を過小評価したまま、レイテ島に戦力を投入します。ここで「捷1号作戦」が発動されますが、栗田艦隊がレイテ湾まであと80㎞まで迫ったところで“謎の反転”(その真相は今もって不明です)を実施し、作戦はまたしても失敗に終わります。

神風特別攻撃隊も組織され、初めて戦果を挙げたのがこの海戦でしたが、連合艦隊の損害は大きく、「大和」を除く主力艦の大半を失い、艦隊として決戦力を喪失します。

▼欧州正面の大勢決着

その頃、欧州正面は独伊の敗戦が濃厚になってきました。すでにイタリアは、昭和18(1943)年の7月にムッソリーニが解任、逮捕されて、9月には降伏、王政が廃止されて共和制に移行しました。

ドイツも敗走を重ね、昭和19年6月、連合国は「ノルマンディー上陸作戦」を敢行し、8月にはパリを解放。東部戦線でもソ連軍が史上最大の反撃戦「バグラチオン」を発動し、ソ連領内からドイツ軍を追い払います。12月、ヒトラーの最後の賭けと言われた「バルジの戦い」で連合国に打撃を与えましたが、反撃されて昭和20年1月撤退します。

▼東京大空襲

 戦争最後の年、昭和20年の新春を迎え、天皇は歴代首相ら7人の重臣を集め、意見聴取をします。軍部を刺激しないように、一人一人参内して内々に話を聞くという形式をとりました。天皇は重臣のだれかが「一日も早く終戦すべき」と進言するのを待っておられたようですが、唯一「即時和平」を口にしたのは近衛文麿でした。

この席上、近衛は、本メルマガでも以前に取り上げました「近衛上奏文」を基に拳上します。近衛は「最も憂慮すべき事態は、敗戦よりも共産主義革命である」として、①ソ連が戦争に乗じて欧州で共産主義を浸透させていること、②統制派が牛耳る軍部内にも共産主義の一味が存在すること、③戦争終結のためには軍部の立て直しが必要であることを進言します。

天皇は近衛の発言が終わるのを待って、「軍部の粛清が必要ということか、近衛はどう考えるか」と問われ、近衛は、皇道派の山下奉文(フィリピンで激戦中)か派閥色のない阿南惟幾(これちか)を推薦したといわれます。近衛は、この時点ではまだ「条件付き講和」を想定していたようですが、ルーズベルトは無条件降伏に固執していました。

そのような中の3月10日、初めての東京大空襲が実施されます。270機のB-29が約1万6千トンの焼夷弾を投下し、東京、特に下町の住宅密集地を狙い撃ち、一夜にして死者約10万人超、被災家屋26万棟超、罹災者百万人超の大被害が発生しました。

無差別爆撃は、明確な国際法違反であったにもかかわらず、ルーズベルトは躊躇しませんでした。終戦まで延べ約3万3千機のB-29が累計約14万7千トンの焼夷弾を本土の主要都市に投下し、幼児を含む非戦闘員約80万人超が犠牲になります。

米軍は、本土への無差別攻撃を本格化するために、サイパンと東京のほぼ中間に位置する硫黄島の確保を企図し、勝者の損害が敗者を上回るという硫黄島の死闘が行われます。

▼最後の戦いになった「沖縄戦」

そして、終戦前の最後の戦いが「沖縄戦」でした。これについても詳しく触れる必要はないと思いますが、4月1日から米軍が上陸開始し、筆舌に尽くしがたい死闘を繰り返して米軍を苦しめます。米軍が1か月で終了すると見積った戦いは、6月19日まで約3カ月弱続きました。

この間、日本軍の戦死約6万5千人、県民の犠牲者約10万人に達します。最後の戦艦「大和」も壮絶な最後を迎えます。これに対して、米軍も戦死7千6百人、戦傷3万1800人超に及び、空母13隻、戦艦10隻など368隻が損傷しました。この死闘のよって、米国は無条件降伏要求の見直しを迫られるようになりました。

米軍が沖縄に上陸した4日後の4月5日、小磯内閣が全閣僚の辞表とともに天皇に拝謁します。後継者選びのために開かれた重臣会議は激しい議論の末、枢密院議長(元侍従長)鈴木貫太郎に大命が下りました。

この場に及んでも、陸軍はなお強気で①あくまで戦争を完遂すること、②陸海軍を一体化すること、③本土決戦のために諸施策を躊躇なく実行すること、など3条件を求めます。これまで陸海軍の統合に対して、海軍側には常に「統合すれば陸軍に飲み込まれる」という警戒感が根底にあったといわれますが、主戦力がすでに消失した海軍はもはや抵抗する力もなかったのでした。(以下次号)

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