Home»連 載»歴史シリーズ»「我が国の歴史を振り返る」(42) 「支那事変」の内陸拡大とソ連の対日工作

「我が国の歴史を振り返る」(42) 「支那事変」の内陸拡大とソ連の対日工作

0
Shares
Pinterest Google+

▼はじめに(日中交渉打ち切りの内幕)

 前回、近衛首相の「蒋介石を対手にせず」(昭和13年1月)と交渉打ち切りに至った日本側の議論についてもう少し補足しておきましょう。

中国側の応答拒否に対して、「交渉即打ち切り」を主張する近衛首相以下政府閣僚と、「打ち切り尚早」としてさらなる交渉を望む多田駿陸軍参謀次長らが激しく対立します。海軍軍令部長も参謀次長に同調して交渉継続を求め、会議は怒号と涙声を交える激しいものとなり、一歩も引かない多田次長に対して、追い詰められた近衛首相は総辞職をもって恫喝したようです。

こうして当日の朝9時から午後7時まで及んだ会議は、近衛の主張を認めることで打ち切られ、「対手にせず」との声明発表となります。

後年の手記で、近衛は「この声明は非常な失敗であった」と反省しますが、“時すでに遅し”です。近代日本交史上、屈指の大失敗であり、自殺行為だったことは間違いないでしょう。

なお、多田駿参謀次長は、閑院宮参謀総長のもと、実質上の陸軍トップであり、石原莞爾同様、蒋介石政権よりもソ連の脅威を重視し、戦線不拡大を唱えていました。その危惧が的中し、この後、「ノモンハン事件」が起こります(細部は後述しましょう)。

では、なぜ近衛首相とその側近が間違った判断をしたのでしょうか。「重慶国民政府が国民の信頼を失い、やがて地方の一政府に転落するので長期戦に引きずり込まれる心配はない。(汪兆銘)新政府の成立を誘導し、これを盛り立てて日本の要求を貫徹していけばいいとの認識に立ってあのような声明となった」(近衛秘書の風見章)の言い訳が残っています。

振り返れば、政府サイドの情勢判断が明らかに間違っていたのでしたが、この言い訳を含め、判断に至る経緯には何とも不可思議な部分が含まれています。その背景に何があって、何が“決め手”となってこのような判断に至ったのだろうか、と考えてしまいます。

いずれにしましても、このような“政軍不一致”の国の舵取りが後戻りできないところまで進展し、やがて致命的な結果に追い込まれるのですが、これをすべて“軍人、特に陸軍のせい”と断定するのは、(海軍が主導して)「支那事変」の拡大に至った経緯を含む“史実”をみれば、明らかに“間違った歴史の見方”であることがわかります。

▼「支那事変」内陸への拡大

 その後、「支那事変」の内陸への拡大の概要を振り返ってみましょう。武漢に撤退した頃から、蒋介石は、日中戦争が長期化することを意識し、「持久戦」に戦略転換します。そして1938(昭和13)3月、武漢で臨時全国大会を開催し、新たに国民党総裁職が設けられ、蒋介石が総裁に就任します。

中国軍は、山東州南部の台児荘(徐州の東北に位置)で日本軍を撃退するなど一定の成果を上げますが、同年5月、日本軍は徐州作戦を実施し、同地を占領します。「徐州、徐州と人馬は進む…」と歌われたあの徐州です。

余談ですが、数年前に話題になりました『一等兵戦戦死』(松村益二著)それによると、「支那事変」は、日本軍にとってけっして楽な作戦ではなかったことがわかります。日本軍に比し中国軍の弾薬など物量の異常な多さと日本軍に好意的な地域住民には特に驚かされます。脚色したようには見えない本書が記す“戦場の実相”が意味することを改めて認識しなければならないと考えます。

一方、徐州を離れた中国軍を追うように、日本軍は華南に展開を目指しますが、中国軍は黄河の堤防を破壊するなどして日本軍の南下を防ぎます。蒋介石の持久戦論に基づく“焦土戦”を展開したのでした。

日本軍は計画より約1か月遅れて武漢攻略に向かい、同年8月、武漢作戦を発動し、10月下旬には武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)を陥落します。相前後して、重慶への支援ルートを抑えようとして広州などの沿岸部も占領します。

蒋介石は、武漢陥落後、湖南へ撤退、11月、蒋介石は「抗戦の第1段階は終わった。事後は、民衆を取り込んだ遊撃戦を主とする持久戦を実施し、守勢から攻勢に転じる第2段階に入る」と宣言します。一般に、遊撃戦といえば共産党の作戦のように思われますが、国民党も遊撃戦を採用していたのでした。

そして12月、重慶に移動し、本格的な重慶国民政府を始動させます。蒋介石は、この後、再び南京に戻る1946年5月5日までの6年半の間、重慶にとどまります。

さて、トラウトマン工作は失敗に終わりましたが、その後も一連の日中間の和平工作が行われます。しかし、蒋介石は、日本との長期戦を想定する一方で、将来的には日本とアメリカ、イギリス、ソ連と戦争を始めるであろうと期待を込めていました。つまり、単独で日本に勝利するというよりも、日本が欧米列国と対立することにより大局的に勝利することを想定していたのです。

よって、日本との和平交渉は世界情勢の進展を睨みながら交渉していましたので、なかなか妥協までには至りません。

そのような中、1938(昭和13)年11月、日本は「第2次近衛声明」を発し、「東亜新秩序」を提唱して汪兆銘と連携を模索します。それに呼応するように、汪兆銘は重慶を脱出します。12月、近衛首相は「第3次近衛声明」を発し、中国に再び講和を求めますが、蒋は、「この抗戦は、我が国にとっては民主革命の目的を達成し、中国の独立と自由平等を求めるもの、国際的には正義を守り、条約の尊厳を回復し、平和と秩序を再建するもの」と抗戦の正義を訴えました。

1940年3月、汪兆銘は南京に新国民政府を樹立し、同年11月、正式に主席になります。

▼「援蒋ルート」の設定

 重慶政府は、抗戦のための物資の調達が困難を極めました。中国経済の中心は上海など沿岸部であり、「大後方」といわれた四川省など内陸部は抗戦のための産業基盤がないからです。にわかに重化学工業などの建設を行いますが、簡単に基盤形成はできず、列強の援助に頼ることになります。

この結果、周辺地域との間に「援蒋ルート」といわれる輸送ルートを開発が進められます。特に、雲南からビルマへの道路開通、ベトナムから雲南、ソ連から新疆への輸送ルートの確保が急がれ、このために、米英から巨額の借款が給与されました。

日本軍が沿岸部の要点を占領したことはまた、中国の経済に大打撃を与えます。さらに日本軍は、重慶政府に圧力を与えるために、湖南省の長沙作戦を実施する一方で重慶爆撃を継続します。のちに事実上、無差別爆撃となるなど激しさを増します。

▼再び、国民政府・共産党の対立へ

「支那事件」拡大の足跡を総括しますと、日本軍は、当初は短期決戦で中国側の戦意を喪失させ、勝利を得るつもりでしたが、中国側は持久戦をもってそれに応じました。

日本軍は100万人前後の兵力を中国大陸に注ぎ込みますが、それでも中国の降伏を得ることは出来ませんでした。その結果、戦線は膠着し、中国大陸は、①重慶国民政府の統治空間、②中国共産党の統治空間、そして③日本軍および日本占領下の現地政権統治空間など大きく3つに分かれることになります。

問題は中国共産党の統治空間です。中国共産党は、あくまで重慶政府の下で抗日戦争を展開しており、コミンテルンも重慶政府の指示に従うよう厳命していたのですが、毛沢東は、重慶に対する共産党の独立自主を目指し、遊撃戦によって一定の面積を得るとそれを「辺区」としてその拡大を企図していきます。

日本を中国大陸に引きずり込み、蒋介石軍と戦わせ、双方が疲弊した頃を見計らって“漁夫の利を得る”戦略が中国共産党側からみれば功を奏し始めたのでした。実に巧妙なやり方でしたが、コミンテルンとは少し“温度差”が出始めたのも事実でした。詳細はのちに触れましょう。

この「辺区」拡大は、やがて重慶政府と間に軋轢を生むことになります。蒋介石の共産党不信が拡大し、共産党も重慶の国民党と敵対する姿勢を明確にしきます。

▼ソ連の対日工作

 最後に、ソ連(コミンテルン)の対日工作について総括しておきましょう。ソ連の陰謀は、この中国のみならず、欧州、アメリカなど全世界に及んでしました。冷戦終焉後の1995年、アメリカ国家安全保安局は、「ヴェノナ文書」の公開に踏み切り、それまでの近現代史の歴史観を根底から揺るがす事態となりました。

「ヴェノナ文書」とは、第2次世界大戦前後に、アメリカ国内のソ連の工作員達がモスクワとやり取りした通信を、米陸軍情報部が英国情報部と連携して秘密裏に傍受して解読した記録です。

日本においても、共産主義者達が活発に活動していたことは昭和初期から知られていました。また、戦時中も「ゾルゲ事件」のような大事件が発生します。

我が国においては、「ヴェノナ文書」の公開よりかなり早い1950(昭和25)年に、三田村武夫氏が“昭和政治秘録”として『戦争と共産主義』を出版します。三田村氏は、戦前、警察行政全般を管轄する内務省警保局や特高警察でも勤務し、共産主義者の謀略活動の実態を追及した経験がある人物です(現在、その復刻版をKindle(キンドル)で読むことができます)。

三田村氏は、「満州事変から敗戦まで、日本はまるで熱病にでもつかれたごとく、軍国調一色に塗りつぶされてきた。この熱病の根源は果たして何であったろうか。一般常識では軍閥ということになっており、この軍部・軍閥の戦争責任については異論がないが、軍閥が演じた“戦争劇”は、真実彼らの自作自演であったろうか。作詞・作曲は誰か、脚本を書いたのは誰か、という問題になると、いまだ何人も権威ある結論を出していない。これは極めて重大な問題だ」と本書を出版するに至った経緯を披露し、自身が共産主義運動と向き合った経験からその実態を赤裸々に告発しています。

このような共産主義の陰謀の歴史や実態を解明する書籍が戦後ほどなくして出版されたにもかかわらず、長い間、日本の戦前の歴史研究は、これらの“事象”を軽視あるいは無視して語られてきたことに個人的には少なからず疑問、いやある種の意図さえ感じてきました。

しかし、戦前の歴史を研究しているうちに、どうしても「共産主義者の活動が歴史を動かした要因として無視できない」と考えるに至りました。よって、「支那事変」から「日米戦争」への発展を振り返る前に、我が国や米国における共産主義者達の活動の概要をまとめて振り返っておきたいと思います。

▼日本を追い詰めた共産主義者達

 三田村氏の指摘によると、日本を追い詰めた共産主義者達の陰謀の基本的考えは、要約すれば次のとおりです。

まず「コミンテルンの目的は、全世界共産主義の完成であり、そのための資本主義の支柱たる米、英、日本などを倒さなければならない。その手段としては、①革命勢力を強化して革命を内部崩壊させる、②資本主義国家を外部から攻め武力で叩き潰す、の2つだが、どちらも実行の可能性は低い。その結果、考えた戦略が、資本主義国家と資本主義国家を戦わせ、どちらも疲弊させ、〝漁夫の利〟を得る。この戦略に基づき、欧州表面ではドイツと英仏を戦わせ、米国を巻き込む」ことを企てます。

また極東地域においては、「極東革命にどうしても叩き潰さなければならないのは、日本と(米英がバックにいる)蒋介石政権だ。日本と蒋介石軍を嚙合わせると米・英が必ず出てくる。その方向に誘導する。そうするとシナ大陸と南方米英植民地で日、蒋介石、米、英が血みどろの死闘を演ずるだろう。へとへとに疲れた時に一挙に兵を進め、襟首を取ってとどめを刺す。あとは中共を中心に極東革命を前進すればいい」と企みます。

その後の歴史はまさに彼らの陰謀通りになりますが、その第1段階として、1935年、「ファシズム反対」「帝国主義反対」のスローガンを掲げ、社会主義勢力も味方につけました。

その次には、後の「ポツダム宣言」において、第2時世界大戦を「デモクラシー対ファシズムの戦い」と位置付けたように、自らをデモクラシー勢力として“隠蔽”し、連合国の仲間入りをします。

他方、日本においては、有識者、マスコミ、官僚、軍部を巧妙に操り、無謀な戦争に駆り立て、我が国を自己崩壊する方向に誘導するよう企てます。この際、できるだけ合法的に食い込み、内部から切り崩すことを考えたといわれます。

特に、陸軍の存在に注目します。陸軍は、大部分が貧農と小市民、将校も中産階級出身で反ブルジョア的、しかも国体問題ではコチコチの天皇主義者なので、この点をうまくごまかせば十分利用価値があると判断したのでした。

その上、“天皇制廃止”の主張を止め、「天皇制と社会主義は両立する」との思い切った戦術転換を敢行、「天皇を戴いた社会主義国家を建設する」という理論を確立しました。「戦争反対」などともけっして言わず、「戦争好きの軍部をおだてて全面戦争に追い込み、国力を徹底的に消耗させる。このあとに敗戦革命を展開する」という大胆な戦略だったのです。

前述の近衛声明と共産主義者たちの活動とはどのような関係にあったのか、などについては次回以降に振り返ってみましょう。

Previous post

「我が国の歴史を振り返る」(41) 「支那事変」の拡大

Next post

「我が国の歴史を振り返る」(43) 世界に拡散した「東亜新秩序」声明