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戦後70年、‘戦後レジームからの脱却’を問う 

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2015/8/24
目 次
はじめに:映画「日本のいちばん長い日」
・安倍晋三首相の‘戦後70年談話’
・そして、いま国会では
1. 日本の‘戦後レジーム’と‘それからの脱却’
(1)日本の戦後レジーム
・‘戦後’を検証する
・米国の占領政策と日本の‘戦後レジーム’
(2)戦後レジームからの脱却
・‘戦後レジームからの脱却’の実像
・‘脱却’が目指すべき方向
2.‘ポスト戦後70年’の 日本経済の進路
(1)日本経済、次への飛躍
(2)世界経済の安定と繁栄に貢献
おわりに:安倍晋三首相 VS 松井一實広島市長

[ 資料 ]‘敗戦から独立’までの日本の履歴

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はじめに: 映画「日本のいちばん長い日」

8月1日、周知の通り、宮内庁は戦後70年に当り、1945年8月15日の終戦を告げる昭和天皇のいわゆる「玉音放送」の録音原盤と音声をはじめて公開しました。「堪ヘ難キヲ堪ヘ・・」が有名ですが、国民、とくに軍人に終戦を納得させるため非常に気を使った文になっている事を改めて認識させられたというものです。

その3日後、筆者は記者クラブでの試写会で、映画「日本のいちばん長い日」(原田真人監督)を観る機会をえました。それは半藤一利の同名のノンフィクション小説の映画化です。その内容は、周知のポツダム宣言を受諾し、その翌日の1945年8月15日、昭和天皇が降伏宣言をするまでの長い一日を描くものですが、そのハイライトは言うまでもなく前日の14日に行われたポツダム宣言の受諾を巡る御前会議で、昭和天皇がポツダム宣言受諾という「聖断」を下し、併せて、自らマイクの前に立って国民に語りかけると約束した場面でした。翌15日には、無事、玉音放送が流れ、無謀な戦争の終結が伝えられたのですが、それは同時に、‘戦争’を反省させる大きなきっかけを与えたものと、その思いを深くした次第です。

原作者の半藤一利は、今回の映画化にあたって次のようなコメントを寄せています。「戦争をはじめることはある意味で簡単であるが、終えることは本当に難しい。国際情勢が複雑にからむからである。昭和20年8月、310万人もの人が死んだあとで、大日本帝国はその困難を何とか克服して戦いを終えることが出来た。この‘事実’の重みがわかったがゆえ、多くの日本人にその事を知ってもらいたいばかりに、私はこの本を書いた。そしていまの‘戦争をしない国’の原点がその事実の上にある事を改めて痛感している」と。実に示唆的と言うものです。

・安倍晋三首相の‘戦後70年談話’

さて、8月14日夕、安倍晋三首相は15日の終戦日を迎えるにあったて、直前の閣議決定を経て、‘戦後70年’の「首相談話」を発表しました。これまでも節目、節目に首相談話が出され、戦後50年に当る1995年には村山富市首相が、また戦後60年に当る2005年には小泉純一郎首相の談話が出され、いずれも「戦後の歩み」、‘痛切な反省とお詫び’を含めた「過去の反省」、そして「未来への貢献」を内容とするものでした。今回の談話も、事前の雑音はともかく、「侵略」、「植民地支配」、「反省」、「おわび」のキーワードを入れたものとなっていました。

今回の談話に対する評価については、既に多くのメデイアが色々伝える処ですが、ただ個人的には、当夜のTVに登場した彼のスピーチ、その表情を窺うに、「反省・おわび」については、これまでの‘持論’を抑え、ただただ前例の言葉を引用することに終始、従って安倍晋三個人としての言葉は見えず、何か言わされている、足が地についていない、そういった印象を強く抱かせるものでした。とりわけ、未来指向を語る中で「・・価値を共有する国々と手を携え、‘積極的平和主義’の旗を高く上げて世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献していく」とするのですが、軍事力の強化、日米軍事同盟の強化に集中する安倍晋三首相の姿に照らすとき、そのギャップに強い疑念を禁じ得なかったと言うものでした。

・そして、いま国会では

さて、「戦後70年」という節目の年を迎えた今、国会では‘談話’にもあった「積極的平和主義」を標榜する安倍晋三首相は、これまで憲法上、禁じられてきた自衛隊の海外派遣を可能とする集団的自衛権行使を容認する法案を含め、11の防衛関連法案を提出。もって「戦後レジームからの脱却」を図らんと、7月16日(木)の衆院では強行採決し、参院に回付、その成立を期さんとしています。

すわ平和国家日本は軍事国家日本へ邁進か、と日毎、その安保法案反対の運動が広がっており、1960年の安保改定時の国民的な反対運動を窺わせる様相にある処です。これら安保法案反対の運動は、周知の通り6月4日の国会での参考証人として呼ばれた3人の憲法学者がそろって当該法案は違憲と証言したことに端を発するものですが、今や違憲論争を超え、ノーベル賞受賞学者をも含む国民的な反安倍政権の動きへと広がりを見せるまでになってきています。元より海外メデイアもその懸念を露にする処です。

因みに、7月20日付の米Wall Street Journalでは‘Japan wrestles with its pacifism’(平和主義と闘う日本)と題して、痛烈な安倍政治の姿勢を批判する一方、7月23日付、英紙Financial Timesでは‘Tokyo inches away from pacifism ’(平和主義から一歩遠ざかる日本)と題して、安倍政治がいま平和主義から後退を始め出したと指摘するのです。1960年当時、首相だった安倍晋三の祖父、岸信介は日米軍事同盟を強化する法案を強行採決し、成立させたのです。多くの有権者が強く反対し、法案に抗議して何十万人もの人が街頭に繰り出したにも拘らず。そして彼は辞任に追い込まれた。それから半世紀以上経った今、孫の安倍晋三がまた同じような事をやっていると、懸念を伝えるのでした。

戦後70年を迎えた今、2015年が日本の歩む方向を大きく変える「大転換の年」とも映る様相にあるだけに「戦後70年」への問題意識が従来以上に高まると言うものです。

・世論調査が示唆すること

防衛関連法案が衆院で強行採決された一週間後の7月24~26日に行われた世論調査(日経とTV東京)では、内閣支持率は6月前回の調査から9ポイント低下の38%、一方、不支持は10ポイント上昇し、50%となっています。殊、安保関連法案の今国会成立については「賛成」が26%で「反対」の57%を大きく下回り、2012年12月発足した現在の安倍政権では初めて不支持率が逆転しています。安倍晋三首相の政治行動に対する国民の評価は厳しさを増す一方にある処です。

知日派のK.カルダー、ジョンズ・ホプキンス大学教授はかかる結果について「安保法案の衆院での採決が非民主的に映ったため」(日経8月3日)と指摘するのですが、要は、国民の理解を超えてやろうとすること自体に無理があると言うことでしょう。そして、日本を守るなら他の選択肢はいくらでもあるわけで、安倍首相自身の思想的なこだわりが、そうさせているものと思料するばかりです。

いま安倍晋三首相の国会での答弁を見、聞きするに、彼の云う「戦後レジームからの脱却」とは、上述の通り、積極的平和主義の名の下、憲法で禁じてきた対外的戦闘行為を許す、言い換えれば日本を‘戦争する国’に造り変えようとするものと言え、それは戦前の日本への回帰すら思わせる処です。勿論、国民の多くは、そうした政治姿勢に極めて厳しい視線を向ける処です。安倍政治の今後については、談話の内容をどのように具体化していくか、国民は、その推移に極めて強い関心を抱くところにあるのです。

そこで、この際は、後出資料「‘敗戦から独立まで’の日本の履歴」を前に、日本の戦後という特異な時間と向き合い、戦争への反省を強く心に刻みながら、安倍晋三首相の云う‘戦後レジームとは何か’、そして、‘その脱却とはどういうことなのか’、その実像を問いつつ、日本の今日的状況、日本を取巻く環境に照らし、暫し日本の今後について考察したいと思います。
1.日本の‘戦後レジーム’と‘それからの脱却’

(1)日本の‘戦後レジーム’

・‘戦後’を検証する

戦後レジームを云々する前に、まず‘戦後’とはいつから始まり、米軍の占領期間がどう評価されるのか、その検証から始めたいと思います。と言うのも戦後の始まりを確認しておくことは、戦後レジームの本質を理解することに繋がると思料するからです。

社会経済学者の佐伯啓思は近著「従属国家論」で、8月15日の終戦を以って戦後の始まりとしてしまうと、戦後の基礎を作ったのがGHQであったという根本的な事実が見えなくなってしまうと云うのです。つまり‘戦後70年’と言った場合、GHQが作った「仮の戦後」とその後の「本当の戦後」が全くひと続きになってしまい、戦後の本質が見失われると言うことになり、その点で戦後70年との表現はいわば通称だと言うのです。

周知の通り、1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、翌15日の天皇の玉音放送を以って日本の降伏(敗戦)が確定しました。そして同宣言に即し、連合国軍(米軍)は日本に進駐、占領統治をはじめます。そこで法的には降伏調印を行った1945年9月2日から、サンフランシスコ講和条約が発効される1952年4月28日まで、日本は占領下に置かれ、この間、日本の主権は占領軍、GHQに移っていたことになります。
従って時間の経過を因数分解し、みていくと論理的には、敗戦(軍事的な敗戦)は1945年8月15日ですが、「戦後」は米軍による占領統治(政策)が終り、日本が主権を回復した1952年から始まることになるのです。

確かに、戦後の基礎が作られていったのは45年から52年までの占領期間であり、勿論その統治者はGHQでした。そしてその期間は、いわば「戦後」の準備期間、或いは一種の猶予期間であり、そこで「戦後」が作りだされたということになります。従って「敗戦の日」と「戦後のはじまり」とは一致することはなく、その間に広がるのが「占領統治」と言う特異な時間であり、この「敗戦」が、この期間を経て52年にはじまる「戦後」に作り変えられていったと言うことになるというものです。

ただ、ここで指摘される戦後の本質とは、日本国の形が占領期間に米国(GHQ)によって創られたと言う点に向けられる処ですが、1952年の講話条約を以って独立を得た日本の体制は基本的には、占領統治下で生まれたレジーム(体制)を自らの枠組みとして継承し、更に、サンフランシスコ講和条約と同時に新たに結ばれた日米安全保障条約が加わることで、今日に至るいわゆる、戦後日本の‘レジーム’が形成されてきた現実を、以上の問題意識を以って理解するとき、米国の意図はともかく、戦後は8月15日の終戦から始まると見ることは合理と思料され、従って、「戦後70年」は成立すると考えるのです。

では、今日のレジームに繋がっている米国の占領統治とは、どういった行動様式にあったのか、以下、簡単にレビューすることとしたいと思います。

・米国の占領政策と日本の‘戦後レジーム’

米国の対日占領政策はどうだったのか。その最大の目的は、戦後日本を民主化し、徹底して日本を武装解除する事、にあったことは周知の処です。加えて、もう一つ、当時、欧州、アジアに台頭してきた共産主義との対峙が米国にとって最重要テーマとなってきたことから、米国の対日政策は日本を米国陣営に取り込む方向で展開されていったこと、それが今日言われる日本の「戦後レジーム」を規定する処となったと言うものです。

まず、日本の民主化政策です。戦前の日本の統治機構とは完全に決別し、日本を民主化した、ニュー・ジャパンとして国際世界に送り出す事でした。それを象徴するのが占領開始から僅か1年後の1946年11月には、国民主権、基本的人権の尊重、そして平和主義を旨とした平和憲法、日本国憲法の導入でした。そして、その下で行政改革、教育改革、等々、民主主義を枠組みに新しい体制(占領レジーム)の整備が進められていったのです。(尚、主権を持たない日本が憲法を作ることが出来るのかと、問題指摘のある処です)

その際、注目されたのがGHQの思考様式であり、行動様式だったと言われています。つまり、8月15日の日本の敗戦は「軍事的敗戦」ではなく間違った戦争であって敗戦は仕方なかったとする、いうなれば「道義的敗戦」とする価値観を徹底させ、現実には‘民政’に力点を置く政策対応を進めたのです。勿論、これが日本国民の対米理解、親米感を促すことにあったとされる処です。
そして、こうしたGHQの取った占領政策の実際は、日本国民にとっては‘軍事国家からの解放’であり、近代化の推進と映るものであり、米側にあっては、占領期間とは日本を非軍事化し、あの戦争についての‘道義的な誤り’を教示し、安全な国家として国際社会に送り込む「更生」期間と位置付けるものだったのです。

序でながら、冒頭の試写会での席上、原田監督が今回の映画製作を通じて感じたこととしてフロアーに向けて漏らした一言が、極めて印象に残るものでした。それは「日本の国民は戦争には負けたと言うものの、米国には何ら恨みを持っていないと言う事だった」と言うコメントでした。この監督の一言は筆者には、アメリカの占領政策の一つの大きな意味を映すものだったやに思えた次第です。勿論、真実のほどはよく分かりません。が、その限りにおいて米国の占領政策は功を奏したと言う事でしょうか。(注)

(注)過日、友人から「日本人を狂わせた洗脳工作」(関野道夫著)と題する冊子が 届きました。これは米軍の洗脳工作を進めたとされるWGIP(War Guilt Information Program)の内実を解析するもので、今なお日本国民は当時の占領軍の心理作戦の中にあると言うのです。そして、その罠から早急に脱出すべしと言うのですが、とすれば上述監督のコメントはどう理解すべきなのかと、瞬時戸惑される処です。
もう一つは、米国の対外政策との関係です。戦後米国にとって最大のテーマは、当時、欧州、アジアに台頭し始めた共産主義と如何に対峙していくか、でした。その点、米国は、アジアについては日本をその防波堤と位置付け、その為にも早く日本を独立させる事、そして米国との連携を確実なものとする事、言い換えれば日本を米国の陣営に取り込んでいくことにあったとされるものですが、上述、日本の民主化政策も実はその線上にあったと言うものです。

つまり、1952年のサンフランシスコ講和条約締結時、別途、日米間では日米安全保障条約が締結されていますが、それこそは日米関係を規定する象徴的な条約というものです。ただその際、日本は米側から再軍備の要請を受けています。然し、当時、吉田茂首相は、まずは経済力を付けて民政の安定を図ることが先決として、その要請に対しては、日本の財政事情は、それには耐えうるものでない事、また日本は有効な自衛権行使ができない(新憲法第9条)として、その要請を拒否、それに代える形で、米軍の日本駐留を受け入れる事を実質提案したのです。
この結果が、「平和憲法(平和主義)と日米安保(日米同盟)」を国の安全にかかる基本構造とし、その下で日本は経済成長に専念する事が可能になったと言うもので、この体制が日本の戦後体制の規範となってきたと言うものです。つまり「戦後レジーム」です。

その本質は片務協定とも言われるほどに米国の為のレジームでもあったと言うもので、この結果、日本にとっては米国との関係を良好に維持していく事が最大の命題となるのですが、それは日本の‘米国の属国化を図るシステム’と批判を受ける処ともなってきた処です。もっとも、こうしたレジームの下にあった事で、日本は経済に専念でき世界有数の経済大国にまでに発展しえたと言うものです。ただ留意すべきは、こうした戦後日本のレジームが有効に機能しえた背景にあったのが、米ソ対立が生んだ冷戦状況だったと言う事です。まさにパラドックスと言う処です。

いずれにせよ、米国としては8月15日を道義的な敗戦とすることで、米軍は占領軍ではなく解放軍であり、GHQは支配者ではなく教導者となって、「国」の在り方が間違いだったとして、それを質す姿勢で統治したことになっており、又、それはポツダム宣言の第10項(言論、宗教、思想の自由、並びに基本的人権の尊重)に適うとするものだったのです。

(2)‘戦後レジームからの脱却’

さて、20世紀末になり、日本の戦後レジームが機能し得た最大の要因としてあった冷戦構造がソ連の崩壊で崩壊、更に21世紀に入ってからは、新たに中国に代表される新興大国の登場がある一方、世界を主導してきた米国経済がリーマンショックを契機に構造不況に陥り、併せて財政事情の悪化を抱え、最早その任にあらずと自ら言うような状況が生まれてきたことで、世界のパワーバランス、統治機構は大きく構造変化をきたし出しています。

こうした状況に対し、これまでの「レジーム」(戦後体制)を以ってしては新しく起きてきた内外環境の変化に効率的に対応していく事は難しく、従って、これまでのシステムの改革が必要だということで、安倍晋三首相は‘戦後レジームからの脱却’をと、声高に叫ぶ処となっています。

尚、‘レジーム’(Regime)ですが、フランス語で元来「政治制度」を意味し、通常は国内体制・政治体制を指すもので、つまりは「レジームチェンジ」がある国の「体制変化」を指す言葉で、フランス革命以前の旧体制を意味した「アンシャン・レジーム」などの例でよく知られる処です。 ですが今言われる戦後レジームからの脱却、は多少異なるようです。

・‘戦後レジームからの脱却’の実像

安倍晋三首相が云う「戦後レジームからの脱却」とは、もともと2006年の自民党総裁選で安倍陣営の公約として「公務員制度改革」の意味で使ったものでした(塩崎恭久現厚労大臣の発案と言われています)。ただ、2007年1月26日の安倍首相の施政方針演説では、それを少し広げ、次のように語っているのです。(日経2015/3/1)

「憲法を頂点とした行政システム、教育、経済、雇用、国と地方の関係、外交、安全保障などの基本的枠組みの多くが、21世紀の時代の大きな変化についていけなくなっていることはもはや明らかです。・・・・ これらの戦後レジームを原点にさかのぼって大胆に見直し、新たな船出をすべき時が来ています。」

このスピーチからは、戦後レジームの見直しとは、国内体制の改革、見直しを指すものと理解されますし、とすれば、「戦後レジームからの脱却」という言葉は、ポジティブに受け止められ、すんなりと胸に落ちる処ですし、安倍晋三首相の標榜する戦後レジームからの脱却の論理が、日本の将来発展に向けた変化を起こす趣旨にあるとすれば大いにエールを送る処です。

然し、現実に進められる彼の「戦後レジームからの脱却」に向けた政策行動は、日本が直面する安保環境の変化に全照準を合わせるが如くで、軍事力の強化、つまりは自衛隊の海外派遣と、米軍との連携強化にあり、その為にも憲法改正を目指さんとするものとなっており、その姿は、まるで戦前回帰を思わせる態をなす処です。因みに彼が首相に就任した2013年以来、防衛予算は増加の一途にあり今や5兆円台に達するまでになっています。

それは、日本の軍事力を強化し、日米軍事同盟の強化を以って、中国と対峙することで日本国を守ると言う図式ですが、力と軍事同盟を以って外敵と対峙せんとする発想などは、すぐれて冷戦時代の陳腐な発想と言うもの、なのです。

・‘脱却’が目指すべき方向

いま改めて日本の戦後レジームの生成を振り返るとき、日本の戦後史とは、まさに日米同盟関係史と言う事と言えます。そして、その歴史的経緯にも照らし、日米同盟を確かなものとしていく事は当然のことと思料するのです。もとよりこれが米国の戦争に付き合うことはないのですが、安保法案が出されてからと言うもの、そうした事態への懸念が急速に高まってきています。

かかる状況にあって、この際、必要なことは、この戦後70年を期して、世界経済における日米関係、そして、そこに於ける日本の役割を洗い直す、つまり日米関係を総括することに他ならないのです。が、その結論を先取りして言えば、日米同盟の強化の名の下に軍事パワーへの道に迷い込むのではなく、経済パワーの道を究める事こそが日本の取るべき道と言う事になる筈です。目下、集団的自衛権行使の必要性を説く安倍晋三首相ですが、日本がそれを行使してこなかったこと、専守防衛に徹してきたことが、戦後70年間、日本が戦争を経験してこなかった大きな要因であることを改めて肝に瞑すべしというものです。

今回の「談話」で触れていたように歴史の教訓を胸に刻み、未来を切り拓く、そうした日本の姿を描き、それに向かわんとする政策展開こそが今、期待されると言うもので、それこそが戦後レジームからの脱却と呼べる処と思料するのです。因みに、8月25日付ニューズウイーク日本版で同誌コラムニスト、河野哲夫は‘「戦後レジームからの脱却」は前向きな自由主義、しかも工業化を成し遂げた豊かな戦後社会に見合ったものでないといけない。世界に日本を見直させるためには、何よりも経済力を再建すること’とすると共に‘政治資源をもっと経済に’と、筆者の予ての主張と軌を一にする指摘をするのでしたが、実に至言とされる処です。
2.‘ポスト戦後70年’の日本経済の進路

(1)日本経済、次への飛躍

戦後の廃墟から日本は、経済の再生復活をめざし今日までの70年間を歩んできました。その大半は、先に見たように終戦、占領下時代を経て独立に至る1945年からの再生への準備時間、そして経済白書が、もはや戦後ではないと言った1956年から始まった高度成長時代への突入、次に1964年に入って東京五輪直後に始まった不況を乗り越え、1971年8月のニクソンショックや73年の石油危機を乗り越え、日本企業の強さが際立つようになり、日本の企業人には、もはや学ぶものはないとまで豪語するに至った成長の時間でした。勿論、この間、日本は対外的には、IMF加盟(1952年)、GATT(現WTO)加盟(1955年)貿易の自由化決定(1960年)、OECD加盟(1964年)と矢継ぎ早に国際社会への参加を果たしてきたのです。

然し90年代に入ってからは、バブル経済が崩壊し、地価や株価が急落。護送船団方式で金融機関への管理を重視してきた官僚の対応も後手に回り、山一証券の破たん(1997 年11月)など、失われた10年が始まったというもので、それが、いつしか20年になり、更に25年に及ぼうとしています。 因みにピークとされた1997年のGDPは523兆円、これが2014年では487兆円に減少、つまり日本経済はこの間、実に36兆円も縮小してしまったのです。何故36兆円もの経済が失われてしまったのか? その原因を考えしっかりとした対策を取っていく事が、次への飛躍に繋がる筈です。

・‘革新経済’を目指す

この‘次への飛躍’を期す‘場’とは、言うまでもなく急速に進む少子高齢化社会であり、それへの新しい取り組みが求められる処です。少子高齢化と言った場合、労働力人口の減少、消費人口の減少で、日本経済は縮小トレンドに入ることになる、言うなればネガティブ材料として云々されがちです。然し、そういった状況を克服していくためには、まずは‘機会’を創り、‘場’を広げていくことが必定ですし、それは同時に、現下の経済を力づけるものでもある処です。そうした文脈からは、政府には既得権益を打破し、岩盤を打ち抜き、機会を広げる事が一層求められる処であり、企業もグローバル化、デジタル化に対応した体質に自らを鍛え直すこと、そしてグローバル経済との連携強化を通じて成長の機会とその可能性を拓いていく事を目指すべきとされる処です。

そして、それ以上に大きなモーメントとしてあるのが労働力人口の減少と競争力の関係です。つまり労働力人口の減少は生産活動の鈍化、更には競争力の劣化が懸念される処です。然し、これを機会にイノベーションを促進し、生産性の向上、併せて対外競争力の確保を目指すとの考え方に切り替えていくべきと思料するのです。つまり、少子高齢化をイノベーション促進の機会と捉えることで、日本経済は持続可能な経済へと進化させることが可能と言うものです。それは、企業はもとより社会全体として‘革新経済’の創造を目指すと言うものです。勿論、それは、従来型の行動様式にとらわれていては 叶うものではありませんし、その点では発想の転換が求められると言うものです。実は、これは、前述した90年代のバブル崩壊以降の日本経済の失敗を教訓とするものなのです。

日本の売りは‘経済’です。であれば、安保問題も重要ですが、何よりも今取り組むべきは経済の可能性をより持続的なものとしていく事です。漸く回復が緒についたと思われた矢先、8月17日発表の4~6月期のGDP(実質)は年率1.6%減と3期ぶりのマイナスでした。その要因は分かっているわけですから安倍晋三首相は、自らの政治資源をもっと経済に集中させ、持続可能な経済とするよう努めるべきという云うものです。

(2)世界経済の安定と繁栄に貢献

戦後日本経済は、開放的な世界秩序の恩恵を受けて発展してきました。然し、その世界の環境は、今、大きく構造変化のなかにあります。先進国の指導力が低下する一方、中国等、新興国の比重が高まってきたにもかかわらず、その声を適切に反映する仕組みができていません。先の中国が主導するAIIBプロジェクト等はそうした状況を映すもので、今後、そうした既存の世界運営システムに挑戦する動きは増々強まることが想定される処です。

今後、こうした世界経済の構造変化に繋がる新しい動きに、日本としてどう対応していくべきか、新たな秩序作りにどう貢献していくか、が問われていく事になる筈です。その際、求められる基本軸は解放的な体制の強化と考えますし、その文脈においては、貿易の自由化や投資などのルール作りを前進させることが不可避となる処です。そして、自由化の推進と言う点では、日本は先進国と新興国が共に責任を果たす新たな秩序作りに積極的に貢献していくべきであり、具体的には、今なお迷走するTPP交渉を成し遂げる事こそ、日本の使命と思料するのです。そしてこの際は、経済の相互依存こそが最大の抑止力であることを自覚し、対応していくべき事と思料するのです。
おわりに:安倍晋三首相 VS 松井一實広島市長

この夏、実に多様な問題が噴出しました。The Economist, Aug. 15, は日本の政治の現状を分析する中、The Abe shine comes off (輝き褪せる安倍首相)と指摘するほどです。

先に触れた安保法案反対の流れは、広く国民の間に広がり、今では学生が動きだし、「安保法制反対ママの会」とママ達も立ちあがる状況にあります。また川内原発が8月11日、再稼動をはじめました。技術的に安全がクリアーされたからと、安倍首相はコメントするのですが、使用済み核燃料の再処理問題、核のゴミの最終処分問題など多くの問題を残したままの再稼動です。さて福島同様の事故が起きた際の責任の所在はと、問う声に、それは当事者の企業にあると言うのですが、事はそれで済むのでしょうか。いまや原発反対の流れが安保法案反対の流れに合流しそうな状況です。
加えて、2020年東京オリンピックの競技場建設の予算問題をきっかけにその運営等、その責任の所在が全く不明のままにある事が浮き彫りされてきています。沖縄米軍基地移転問題もしかり、財政赤字も6月末には1千兆円を超す状況に至っており、これに対する政策対応など、お構いなしの様相です。防衛力強化で財政は更に悪化が予想される処ですが、これらに共通することは、現状に対する‘無責任さ’です。これも先にも触れた戦後の総括をいい加減にしてきた結果と思料するのです。こうした事情は、安倍内閣支持率を一挙に下げ、盤石と思われていた安倍晋三政権の基盤を揺るがす処となっています。

それでも、安倍晋三首相は安保法案の成立に向け、自らの政治資源の全てを振り向けんとしています。少なくとも国会議員の数だけを考えれば、目下の安保法案の成立は確実と言うものです。然し、そのプロセスと結果は政治不信を深め、与野党共に与えるダメージの大きさは言うまでもなく、もとよりこれが国民を不幸に追いやる事にもなる処です。
そこで、サプライズです。この際は、結果論ですが、憲法改正の原則論から始めてはどうか、と思うのです。勿論、今からやり直すことはそう簡単な事ではないことは重々承知の処です。然し、例えば最小限の改正、つまり現在の膨大な安保法案でなく、憲法9条第2項に絞った憲法改正への事務的な議論をはじめていくこととしてはどうかと思うのです。
勿論、現在審議中の安保関連法案は一旦、取り下げるべきは云うべくもありません。もとより、筆者は改憲論者でも、なんでもありません。然し今のような状況に政治が置かれたままとすれば、安保のみならず、他の多くの政策をも歪めかねないと危惧されるからで、敢えて提言すると言うものです。

さて、8月6日午前8:15、広島平和記念式典で、松井一實市長は安倍晋三首相をはじめ世界の要人を前に「平和宣言」を行い、その中で各国の為政者に求められる事として、以下アッピールを行っています。その語り口は淡々として、その揺るぎない姿勢を感じさせ、それは極めて説得的であり、新鮮に映るものでした。

「・・・武力に依存しない幅広い安全保障の仕組みを創り出して行かなければなりません。その実現に忍耐強く取り組むことが重要であり、日本国憲法の平和主義が示す真の平和への道筋を世界に広めることが求められます。・・・日本政府には、核保有国と非核保有国の橋わたし役として、議論の開始を主導するよう期待する・・・」

戦後70年間、戦争をしなかった国は、国連加盟国193か国の内8カ国しかなく、アジアでは日本以外ではブータンだけだとされています。世界に誇るべきことです。 安倍晋三首相には、これが意味することの重さが理解できるのでしょうか。

以上

[ 資料 ]      ‘敗戦から独立’までの日本の履歴

・1945年7月26日:ポツダム宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender:日本への降伏要求の最終宣言)発表

(注)ポツダム宣言とは、大日本帝国に対して発せられた「全日本軍の無条件降伏」等を求めた13項目から成る宣言。米トルーマン大統領、英チャーチル首相、中国(国民党)蒋介石代表の3名連署。別名「米英支三国共同宣言」。然し、実際は、チャーチルは途中帰国、また蒋介石とは無線で了解を取って出来たもので、実質トルーマンが作成、署名した自作自演。尚ソ連は後から加わり追認されている。

・1945年8月14日:日本のポツダム宣言受諾、太平洋戦争終結

(注)日本のポツダム宣言受諾で戦争は終結、これが「戦後」の起点となる。ポツダム宣言に基き連合軍(米軍)が日本を占領。

・1945年8月15日:天皇による降伏宣言玉音放送、「終戦」、つまり15日は「敗戦の日」(軍隊の解散命令が出されたのは8月16日)

(注)1945年8月15日が閣議決定で正式に終戦の日となるのは1963年、池田内閣時の「全国戦没者追悼式実施要項」による。また終戦記念日の正式名称、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」が正式決定されたのは1982年の鈴木善幸内閣。

・1945年9月2日:東京湾米戦艦ミズーリ号で降伏調印(日本は正式に降伏)

(注)この時点で日本は連合軍(米軍)の占領下に置かれる。従って1945年から52年(サンフランシスコ条約発効)まで、日本には事実上、主権はない事になる。

・1946年11月3日:日本国憲法公布(国民主権、基本的人権の尊重、平和主義)

(注)問題は主権のない日本が憲法を作ることが出来るのか。現実はマッカーサーの指示で、民生局のホイットニーが3名の幕僚に起草を依頼、結局は25名のグループで、6日間の突貫作業で現行憲法を策定。その後ホイットニーから吉田茂外務大臣、松本蒸冶国務大臣、白洲次郎終戦連絡事務局参与に手交されている。その点では主権者はGHQとなるが、GHQの主権は見えない。

・1947年5月3日:同憲法施行

( 1950年6月25日、朝鮮戦争勃発 )

・1951年9月8日:サンフランシスコ講和条約調印(参加国52か国、ソ連は調印
せず.台湾(国民党政府)は調印、中国(共産党政府)は参加認められず)
同日、講話条約調印後、日米安全保障条約締結

(注)1950年6月、朝鮮戦争勃発、アジアの共産化を恐れる米側は日本を「反共の砦」
となるよう再軍備を迫るが、吉田主席全権委員は、日本はその負担に耐えないと拒否、
一方、米軍の日本駐留を容認、つまりは日本の安全保障は米軍依存とする形で、日米
安保条約が締結され、以降、日本は米の傘の下、経済成長に専念する事になる。

日米安保条約締結には、米側からはアチソン国務長官、ダレス顧問、ほか2名が、一方
日本側は主席全権委員の吉田茂ひとりが署名。「日本は防衛の為、暫定措置として米国の
軍隊を国内に維持する事を希望する」となっていた。(尚、60年の安保改定時、当時
の岸信介首相主導により日米共同防衛を義務付けたより対等な条約に改正された。)

・1952年4月28日:サンフランシスコ講和条約の発効。
正式に第二次世界大戦が終結、同時に日本は独立、主権を回復する

(注)防衛はアメリカに委ね、日本は専ら経済発展に力を注ぐ、戦後レジームが出来た。

以上

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