マハンの「海上権力史論」の概要
- マハンがこの本に込めた思い
マハンが、この本を書いた目的や意図は何だったのだろうか。マハンは、「海上権力史論」の刊行に当たって、次のように書いている。
「海軍大学で海軍史の講義の依頼を受けた時、最近の技術的発展の著しい海軍で役に立つにはどうすればよいかを直ちに考えました。第一に、歴史の流れの中にある、数多くの海軍力の影響を提示すること、第二に、海上、陸上を問わず、戦争を指導する原理を示すこと――でありました」
マハンの言う海軍とは、米国海軍を指すのは当然だろう。筆者がマハンの心を推察するに、「①国家の行く末を思う海軍軍人として、当時世界の超大国になり得る基盤を確立した米国の発展をどのように方向付けるか、②自ら奉職する米海軍の発展をどのようにして意義・論理付けるか、そして③この二つの課題をどのように並立させるか」の3点を、潜在的かつ当然のモチーフとして考えていたものと思う。
- マハンの戦略・戦術研究の前提・手法
マハンの戦略・戦術研究の前提は、「歴史上の基本原理は、不変なものであって、これを基礎として戦略は策定されるべきものだ」と、言う考えであった。マハンは、このような考えをもとに、シー・パワーとは何であるのか、海軍は何のためにあるのか、シー・パワーはどのように行使・運用されるべきか、を歴史から帰納しようとした。
マハンは「パクリ」の名人でもあった。「海上権力史論」の中味は、マハン独自のオリジナルなものだけではなく、多くの人々の思想を巧みに総合したものだった。一例を挙げれば、マハンが挙げた「シー・パワーに及ぼす主要な条件」は、当時、米海軍協会誌の懸賞論文に入賞したデービッド少尉(1877年海兵卒)の論旨そのものである。
実は、音楽の神童モーツアルトの作品も「パクリ」によるものだと言われる。モーツァルト自身「模倣は創造の唯一の母」と言っている。モーツアルトは幼少期に父から特訓を受け、あらゆる音楽の様式を模倣、咀嚼し、自分のものとする“天才”を見に付けた。モーツアルトは、バッハやハイドンの1小節を借用して、見事に創造的な音楽を組み立てる超能力を持っていた。
同様にマハンも、様々なシー・パワーに関する論説を、組み立て、総合して「海上権力史論」を書き上げたわけだ。
- マハンの海洋戦略理論のエッセンス
マハンが、過去の歴史(イギリス・オランダ・フランス・スペイン間の闘争)を分析
した海洋戦略理論のエッセンスは、最も簡潔に要約すれば――「海軍は商船によって生じ、商船の消滅によって消えるものである」というもの。これを少し補足すれば、「『生産』『海運』『植民地』という循環する三要素が、海洋国の政策のカギであり、それを支えるために必要な商船隊と海軍力と根拠地をシー・パワーと総称する。即ち、シー・パワーとは、海軍力の優越によって制海権を確立し、その下で海上貿易を行い、海外市場を獲得して国家に富と偉大さをもたらす力である。」――と表現できる。
マハンの戦略思想の核心について更に別の表現をすれば、「国力、国の繁栄、国の安全にとって、シー・パワーは不可欠のものであり、制海権が戦局にとって決定的な要素である。それゆえ、制海権を握り、戦略的に重要な地点を確保した国が歴史をコントロールした。歴史の示すところでは、国力、富、国家の威信、安全は、巨大なシー・パワーの所持と、その巧みな運用の副産物である」――とも言える。マハンは、この証左として、「ローマの海上支配がハンニバルをして長途の危険な陸路の進軍を余儀なくさせ、英海軍の英仏海峡支配がナポレオンに英国上陸を断念させたこと」などの史実を挙げている。因みに、シー・パワーとは、国家が海洋を支配して活用する能力の総称であり、海軍力のみならず商船隊や港湾・基地なども含まれる。
また、「海上戦略の本質は、基本的には、『通商のための制海権の争奪』であり、もっとも迅速かつ効果的な戦略(具体的方策)は、決戦海域での敵海軍の撃滅、敵植民地の孤立化、敵港湾の封鎖、重要海峡の封鎖、である」と述べている。
マハンは、父デニス・マハン(陸軍士官学校教官)の影響で、ナポレオンの参謀の経験を下に書いた「戦争概論」を研究し、これをヒントとして、「海軍の戦略・戦術の根本原則は、『勝敗を決する場所(決勝点)に敵に優越するだけの戦力を集中し、他の戦闘正面では決勝点での勝利が決するまで、敵が兵力を決勝点に移動できないように牽制・持久すること』である」結論付けた。また、陸上戦闘における兵站補給の重要性を念頭に、海軍にとっての基地の重要性を指摘し、カリブ海や太平洋に、貯炭所や弾薬集積所などの基地を設けることを主張した。後に、ハワイがその理論を実現した。
- マハンの米国海軍建設についての主張
このようなマハンの考え方に立てば、当時の米国海軍の現状は憂慮すべき状況であった。当時の米国海軍の伝統的な考え方は、「沿岸防衛と商船護衛」を重視するものであった。マハンは、この考え方を改めて、「米海軍の主目的・目標は、敵の海軍そのものであり、制海権を確保するためには何よりも『戦艦』が必要であり、従来の防衛的な『巡洋艦』中心の海軍の編成や海軍力の造成を改めるべきだ」、と事ある毎に主張して止まなかった。
マハンは、「イギリスの政治家が歴史におけるシー・パワーの役割について正確に理解していたから、世界最大で最良のイギリス海軍を作り上げることができた」とし、暗に米国の政治家にシー・パワーについての理解を求めた。
- 中国の海軍力増強に関するマハンの予言
今日、中国の海軍が急速に台頭しつつあるが、これに関しマハンは興味深い予言(中
国を名指しするものではない)を残している。「歴史を見るに、例え一箇所でも大陸と国
境を有する国(A)は、仮に人口も資源も少ない島国(B)が競争相手国であれば、海
軍の建設競争ではAはBに勝てないという決定的事実を歴史は示しえいる。」と。Aを「中
国」Bを「日本又は米国」と読み代えれば、今後、マハンの予言が的中するのかどうか
見物だ。
- マハンの「海上権力史論」が米国の国家戦略に及ぼした影響
米国は、マハンの「海上権力史論」が出るまでは、欧州列国の脅威を恐れ、育成途上の工業を保護するために高い関税障壁を設けいわば「守勢」乃至は「引きこもり」状態だった。マハンの信奉者のセオドア・ルーズベルト大統領(1901 – 09年)は、就任以降、マハンの理論・政策を積極的の取り入れ、米国の国家戦略を180度転換し「攻め」の方針を採用した。米国は、遅ればせながら帝国主義国家として、アジアに植民地・市場を求めて乗り出すことになる。これについては、「マハンの『海上権力史論』を米国の政策として採用・実現した男」と題し次回改めて稿を起こしたい。