中国海軍今日までの歩み(後半)
「中国海軍の父」劉華清(りゅう かせい)の登場
前号で述べたように、鄧小平による改革解放政策の採用(1978年)により、国防上の最重要地域が、従来の内陸部(三線)から貿易に便利な沿岸部(一線)に設置された経済特区に変わり、さらには海洋そのものが貿易の輸送路(シーレーン)や海洋資源などの経済発展の重要な舞台として認識されるようになった。まさに、マハンのシーパワー理論が適用される段階に移行し始め、中国海軍が脚光を浴びる時代が来たのだ。
そのようなタイミングに、鄧によって1982年に海軍司令員に抜擢された劉華清こそは「中国海軍の父」ともいうべき提督だった。劉は「海洋事業は国民経済の重要な構成部分であり、その発展には強大な海軍による支援がなければならない」と主張し、海軍の役割が海洋事業の発展と関連付けられることになった。これは、マハンの理論に合致する。
劉は中国海軍で初といえる生粋の海軍司令員で、そのキャリアのほぼすべてを海軍で過ごした。
劉華清の師はソ連海軍のゴルシコフ提督
劉はソビエトに留学し、ソビエト海軍の戦略家ゴルシコフ提督から海洋戦略を学んだ。ゴルシコフは、ソ連海軍総司令官として冷戦下、ソ連海軍の近代化に尽くし、沿岸警備艦隊から一大外洋艦隊へ変貌を遂げさせた功労者だ。
ゴルシコフはソ連にはじめて体系的な海洋戦略論を打ち立てた。ゴルシコフは大陸国家にあっても、バランスのとれた艦隊を建設する必要性を説き、沿岸航空基地からの戦闘機、大型水上艦、潜水艦、そして航空母艦までも建造した。彼は、こうして構築した海軍により、積極的な作戦によって「何層もの防御網」を作り、ソ連近海を守ることを提唱した。
ゴルシコの言う「何層もの防御網」というアイディアは、陸上戦闘の教義の一つである「縦深防御」と同じ原理だ。「縦深防御」とは、攻撃側の前進を唯一の防御ラインで防ぐのではなく、縦深にわたり何層もの防御ラインを設け、敵の突進力を徐々に減衰させることを狙った防御戦術・戦略である。
近海防御戦略の誕生
ソ連留学から帰国した劉は、ゴルシコフの「何層もの防御網」を構築する戦略の応用とそのための中国海軍建設の方策を考究した。そして、到達したのが近海防御戦略だった。
毛沢東体制から鄧小平体制に代わり、政治・経済・軍事体制が見直された。軍事分野においては、1985年にはいわゆる「85戦略転換」が行われ、中国の新たな海洋防衛戦略として、近海防御戦略が採用された。これにより、海軍の主任務は、劉華清の主張通り、「経済発展に貢献すること」となった。このことは、重大な意味がある。中国共産党にとって右肩上がりの経済発展が不可欠であり、それを支える海軍は、今や陸軍を差し置いて、最も重要な軍種の地位を獲得したことになる。
近海防御戦略における「近海」とは、第1列島線(日本南部から台湾を経てフィリピンに到る線)の内側を指し、この時点で初めて海洋防衛ラインは中国の沿岸を離れ沖合に向かうことになった。近海防御戦略のもと、海軍は300万平方kmの海洋管轄権を維持し、それによって海洋事業の発展を支援する任務を負うことになる。折しも1982年には、国連海洋法条約が成立し、沿岸国は200海里の排他的経済水域(EEZ)の管轄権を認められた。
近海防御戦略を実現するためには沿岸に限らずに活動でき、敵の海軍とまともにやりあえる、大型水上艦が必要となる。劉は、近海で海洋制空権をにぎるため、「最終的には航空母艦が絶対に必要だ」と考えていた。劉は生前、「中国海軍の空母をこの目で見るまで、私は目を閉じて死ねない」と言ったと伝えられる。
積極防衛戦略
劉は、近海防御戦略に基づく戦い方として、積極防衛戦略を提唱した。劉は、毛沢東時代の人民戦争戦略――国土戦を前提とした――に代え、できるだけ中国本土から遠い場所で敵を迎え撃つ戦い方――積極防衛戦略――を主張した。(因みに、日本はその狭小な国土で戦うことを前提としている。)そのうえで、積極防衛戦略を実現する海軍戦力建設ためのロードマップとして以下の4段階を提示した。
「再建期」 1982-2000年 中国沿岸海域の完全な防備態勢を整備 ほぼ達成済み
「躍進前期」 2000-2010年 第一列島線内部(近海)の制海権確保。
「躍進後期」 2010-2020年 第二列島線内部の制海権確保。航空母艦建造
「完成期」 2020-2040年 アメリカ海軍による太平洋、インド洋の独占的支配を阻止
2040年 アメリカ海軍と対等な海軍建設
接近阻止・領域拒否戦略(A2AD :Anti-Access/Area-Denial)
劉の積極防衛戦略を発展させた現在の中国の海洋戦略が接近阻止・領域拒否戦略である。「接近阻止」とは、遠方から来る敵を防衛線内に入れさせないための軍事力の建設を要求するものだ。一方、「領域拒否」とは、「中国がある海域を存分に利用する能力は有しないが、敵が当該海域をコントロールすることを拒否する」というもので、たとえ防衛線を突破されてもその内側で敵に自由な行動を許さないというコンセプトである。
まとめ
「中国海軍今日までの歩み」について、二回に分けてのべた。これを総括すれば次のようになる。中国は建国の経緯から陸軍国家であり、海軍の健軍は建国直後に開始され、「陸に上がったアヒル」と揶揄されほどの「ゼロベース」からのスタートだった。中国海軍が手本としたのは、共産主義陣営の盟主であるソ連海軍だった。中国の積極防衛戦略や接近阻止・領域拒否戦略もその根底にはゴルシコフの戦略思想―「何層もの防御網」―があると思われる。その後の中ソ対立の期間は、国境線防衛のために陸軍が優先され海軍への投資は低迷した。中国海軍に脚光が当たるのは、鄧小平の改革開放政策以降である。中国海軍はそれ以降、中国政府の海洋重視政策の中の最重点分野に位置付けられ、近代化を進めることになる。中国の経済発展に伴う海軍の近代化は、まさしくマハンのシーパワー理論に合致するものである。
(おやばと連載記事)