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中国海軍今日までの歩み(前半)

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 はじめに
マハンの海洋戦略理論を最も簡潔に要約すれば「海軍は商船によって生じ、商船の消滅によって消えるものである」といえよう。1949年に建国された共産主義国家の中国の経済は約30年間も低迷し、大規模の商船隊を海外に派遣する加工貿易立国ではなかった。それゆえ、海軍の必要性も乏しかった。中国海軍に脚光が当たるのは、鄧小平による改革解放政策の採用(1978年)以降である。以下、前・後半に分けて、中国海軍の今日までの歩みを俯瞰してみたい。

 毛沢東の発意による海軍建設
1949年の中国建国後、海軍建設の必要性を最初に認識したのは毛沢東だった。第一の理由は、中国共産党はろくな海軍を持たなかったので、台湾に敗走する蒋介石一派を追撃し、これを捕捉撃滅して、台湾島を占領することができなかったという反省。第二の理由は、米国の脅威だった。毛は、生まれて間もない中国に対して米国が介入することを懸念した。
このような理由で、毛が海軍建設に乗り出したのは建国の年で、中国政治協商会議第一回全体会議において、毛は「我々は強大な空軍と海軍を保有しなければならない」と提唱した。

 中国海軍の誕生――陸に上がったアヒル
毛は陸軍の司令官であった蕭勁光(しょう けいこう)を海軍司令員に任命した。しかし、蕭は、「自分は『陸にあがったアヒル』みたいなもので、海軍について何も知識がありません。・・・そのような自分にどうして海軍司令員が勤まるでしょうか」と辞退した。毛の考えは、ゼロからスタートする中国海軍の建設は共産主義国家の盟主であるソ連海軍からその全てを学ぶ、というものだった。従って、ソ連留学経験があり、ロシア語のできる蕭が抜擢されたのだ。初代の海軍司令官に任命された蕭のもと、中国海軍はとりあえず「ソ連海軍に学べ」という考えでスタートを切った。

 当初はソ連海軍をモデルに
中国海軍の最初の大方針が決められたのが、1950年に開かれた「海軍建軍会議」だった。中国海軍は、ソ連専門家の意見を参考にして「近代的で、攻撃能力に優れ、近海用の、軽型の海上戦闘力を建設する」との方針を決めた。従って、海軍の建設は、沿岸で作戦するというのが大前提で、当面は「空」(海軍航空部隊)・「潜」(潜水艦部隊)・「快」(魚雷艇部隊)を主体とし、その他の兵種部隊を相応に発展させることが掲げられた。また、海軍の任務は地上軍の作戦に協力することであり、国民党が支配する島々を攻略することが主目的だった。

 「海の長城」構想
建国の翌1950年には朝鮮戦争が勃発、中国も人民義志願軍という名目で参戦し、最前線だけで20万人、後方待機も含めると100万人規模の大軍を投入した。これにより海軍建設投資は大幅に削減されてしまった。しかし、朝鮮戦争停戦の1953年になると、毛は「わが国の海岸線は長大であり、帝国主義は中国に海軍がないことを侮り、百年以上にわたりわが国を侵略してきた。その多くは海上から来たものである。中国の海岸に『海の長城』を築く必要がある」と海軍建設の重要性を述べた。この「海の長城」が中国の初期の海洋防衛ラインとなった。
中ソ関係の悪化にともない、1958年には毛は「外国(ソ連)に学べと、自国を卑下するのは誤っている」とし、ソ連の模倣ではなく中国海軍独自の戦略を採用することになった。こうして毛沢東戦略を海に延長・応用した「海上ゲリラ戦略」を作り上げた。海から襲ってくる敵に対し、魚雷艇、小型潜水艦などが巧みに襲撃をかけるスタイルだ。こうして中国海軍は「『海の長城』を守るための『沿岸防御戦略』を実施できる海軍の建設」という方針がひとまず定まった。

 文化大革命と中ソ対立による海軍建設の停滞
海軍建設は、1966年の文化大革命で大きなダメージを受けた。初代海軍政治委員の蘇振華をはじめ東海艦隊司令員の張学思やその他北海艦隊と南海艦隊の政治委員ら多くが追放されたからだ。中でも、海軍の研究開発責任者だった方強が劉少奇に連座して追放されたことは造船工業にとって甚大な損失となった。
また、ソ連との関係悪化は、1969年に珍宝島での武力衝突にまでエスカレートした。中ソ(ロ)対立は、中露東部国境協定(1991年)及び中露西部国境協定(1994年)が締結されるまでの20年余継続した。その間中国は、中ソ国境に大規模の陸軍兵力を展開しなければならず、海軍に対する投資が大幅に制限される結果となった。

 改革開放政策採用により海洋防衛の重要性がクローズアップ
中国の海洋防衛ラインが本土の沿岸部から沖合に押し出される契機になったのは、鄧小平による1978年の改革開放路線の推進だった。
鄧小平以前の毛沢党時代には、中国沿岸部を切り捨てて、内陸部を重視する戦略だった。中国本土を、戦略的に三つのエリアに区分し、戦争の危険性が高い沿海部、東北部を一線とし、戦争の危険性の低い内陸部を三線、その中間を二線とした。中国が全面的核戦争に突入することを想定した上で、万が一沿海部が壊滅状態に陥っても、内陸(三線)で抗戦できるように、内陸に軍需工場を建設し、沿海部の工場、技術者を戦火から避けるために、内陸に移転させた。このことを「三線建設」と呼んだ。
鄧の改革解放政策の採用により、国防上の最重要地域が、従来の内陸部(三線)から貿易に便利な沿岸部(一線)に設置された経済特区に変わり、さらには海洋そのものが貿易の輸送路(シーレーン)や海洋資源などの経済発展の重要な舞台として認識されるようになった。まさに、マハンのシー・パワー理論そのものが適用される段階に移行し始め、中国海軍が脚光を浴びる時代が来たのだった。

(おやばと連載記事)

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