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「我が国の歴史を振り返る」(73) 「大東亜戦争」の総括(その1)

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▼はじめに(「大東亜戦争」の総括を試みた書籍)

「大東亜戦争」あるいは「太平洋戦争」の敗因や歴史上の地位などを解説する書籍は枚挙に暇がありません。まずこれらの書籍について総括しておきましょう。調べ得る限りでありますが、手に取った書籍のほぼ8割程度は、「ポツダム宣言」や「東京裁判」の判決趣旨に忠実に従ったもので、我が国を“悪”とするか“失敗”とする見方に固執しています。確かに大きな犠牲を払った上での敗戦だったことは間違いないので、“悪”とか“失敗”という言葉を使いたくなる気持ちがわからないわけではありません。

しかし、我が国を“一方的に悪”とする視座を持つと、その“悪”をひたすら深堀するエネルギーが高まる代わりに、戦った相手である米英ソ中などの“悪”が見えなくなる、あるいはそこに思考が及ばなくなる傾向にあることも事実のようです。

事実、「ベェノナ文書」のように1995年になってようやく明らかにされた文書もあり、それ以前とその後では、「大東亜戦争」を取り巻く環境の捉え方が変わって当然と考えます。

手元に『保守と大東亜戦争』(中島岳志著)があります。本書自体は、2018年に発行されたものですが、登場する保守派の論客の主張は自らの経験談を含め、戦中や戦後のものばかりです。

それぞれの論旨は納得するものが多いですが、やはり「ベェノナ文書」前の状況を分析していますので、どうしても“史実の全体像でなく、ある側面だけを捉えて論じている”との印象を持ってしまいます。

他方、「ベェノナ文書」、あるいは2011年、ようやく出版されたフーバー回顧録『裏切られた自由』の中で展開されているルーズベルト批判に同調し、あたかも「悪いのは米国であって、日本は悪くなかった」のような極端な論旨を展開する書籍も散見されます。こうなると、それらを主張するグループ内では“耳触り”が良くとも、他のグループには受け入れられないのは明白でしょう。

依然、未公開の機密文書も存在するようですので、「大東亜戦争」が「歴史」となってその全体像や歴史的評価が解き明かされるにはもう少し時間がかかるものと考えます。

さて、元自衛官の私は、「戦争」や「軍事」の本質のようものを学んだのちに「歴史」に取り組んだせいか、(いつもながら失礼とは存じますが、)高名な学者やマスコミ人が書かれた書籍にある共通の“食い足りなさ”を感じるばかりか、「戦争の本質」のような部分の解説にはどうしても“違和感”を持たざるを得ません。

その中で、林房雄氏の『大東亜戦争肯定論』は、他とは違った視点で先人達の“取り組み”の背景に潜む本質まで深堀しているとの印象を持ちました。林氏は、冷戦さながら、つまり我が国においても左翼グループの主張が意気盛んだった昭和59年に「東亜百年戦争」を定義し、徳川幕府が倒れた時に「長い1つの戦争が始まり、昭和20年8月15日やっと終止符がついた」とする興味深い説を唱えます。

私自身は、歴史に興味を持ち始めた頃に本書に出会い、その後の歴史研究の“道しるべ”となった一冊ですが、我が国の先人達の「理想」と理想をもつがゆえの「苦悩」について、これほど適格、しかも敬意の気持ちをもって分析し、その上、歴史の縦と横のつながりの分析という点においても本書をしのぐ書籍に出会うことはありませんでした。

また、これまでもヘレン・ミアーズの『アメリカの鏡:日本』とかパール博士の「日本無罪論」などについては触れましたが、最近、「大東亜戦争」については、連合国側からも日本の立場を擁護する書籍を見かけるようになりました。その代表的なものが、英国人記者のヘンリー・S・ストークス氏の『連合国戦勝史観の虚妄』です。

ストークス氏は、「日本側には、日本の主張があってしかるべきだ」として、例えば、「日本はアジアを侵略していない。欧米の植民地となっていたアジアを独立させた」というのも「立派な日本からみた史観である」と指摘しています。

その上で、欧米に不都合な「大東亜戦争」史観については、戦場は太平洋ばかりでなかったにもかかわらず、「太平洋戦争」と呼称させたのは、「アジアを蹂躙し、植民地支配した欧米諸国が『大東亜戦争史観』という観点から歴史をみられるのは決定的にまずい。アジア独立に日本が果たした貢献を知られると欧米の“悪行”があからさまになり、見せかけの正義が崩壊してしまうとの懸念からだった」と、それらを“虚妄”という言葉を用い、厳しく裁断しています。

そして、「日本の立場が海外で理解されないのは、日本が効果的な発信をしてないからだ。特に日本の主張を英語で発信して来なかったのが大きい。謝罪は逆効果だ」旨も強調します。

本歴史シリーズで何度も引用させていただきました岡崎久彦氏は「歴史はその時々の人間と国家が生き抜いてきた努力の積み重ねであり、人間と国家の営みの流れである。大きな流れの中で戦争も生じれば平和も生じる。その善悪を論じるべきではない」として、あらゆる偏向史観を排して「史実」を直視する重要性と“後世の価値判断をもって歴史の善悪を論じることの無意味さ”を説いておりますが、改めて納得です。

「はじめに」が長くなりました。いよいよ本歴史シリーズの“最後の山場”です。

▼「大東亜戦争」総括の5視点

岡崎氏の説かれた趣旨に沿いつつ、本歴史シリーズにおいては、他の昭和史研究家などとは違った視点で、「戦略・政略・歴史的な視点から『大東亜戦争』を総括する」との大胆な試みにトライしたいと思いますが、ページの制限もあって次の5つの視点の分析に絞ろうと考えます。

第1に昭和天皇の敗因分析と、それに関連する「統帥権の独立」を含む大日本帝国憲法に基づく我が国の立憲君主制度の生い立ちと特性の分析、第2に作戦参謀が回顧した「大東亜戦争の教訓」分析、第3に本メルマガ流の敗因分析、第4に「大東亜戦争」の歴史的意義分析、第5に、占領政策の影響を含めた精神的敗北とその影響分析です。以下順を追って分析を深めて行きましょう。

まず第1の昭和天皇の敗因分析と立憲君主制度の生い立ちと特性の分析ですが、明治維新からの昭和に至る歴史の繋がりの中で、この部分はどうしてもコアになり、これを避けて「大東亜戦争」を語ることは不可能であると考えます。

これらについては、私の能力や知見をはるかに超えますが、時間かけてしっかり分析され、“遺産”として残された方がおられます。並木書房の会長であられた奈須田 敬氏です。奈須田氏は満91歳で亡くなる約1年前までの40年間近く、自ら編集長となってミニコミ紙『ざっくばらん』を毎月発刊し続け、その回数は466回を数えました。

奈須田氏の歴史、軍事、安全保障などに関する“博識”は他の追随を許さないものがありましたが、私個人にとりましても、陸上自衛官としてのあるべき姿など様々なご薫陶を受けた恩師ともいうべき存在でした。

『ざっくばらん』においては、安全保障や軍事全般、中でも“政軍関係”に重点を置かれ、その一環として、シリーズ『重臣たちの昭和史』論を連載されておりました。

そのシリーズの中で、冷徹さと明晰さにおいて傑出していると賞賛しつつ、米国人のディビット・タイタス教授の『日本の天皇政治』をしばしば引用されていますが、本書は、外国人とは思えないほど、我が国の天皇制について妥協することなく詳しく調べ上げた力作と考えます。

これらを参考にさせていただき、我が国の立憲君主制度の生い立ちと特性の分析を試みます。まず「昭和天皇の敗因分析」です。

▼昭和天皇の敗因分析

 終戦間もない昭和20年9月9日、奥日光に疎開されていた皇太子に天皇から1通の手紙が届きます。そこには次のように書いてありました。

「・・・敗因について一言いわせてくれ。我が国人があまりに皇国を信じ過ぎて英米をあなどったことである。我が軍人は、精神に重きを置き過ぎて科学を忘れたことである。明治天皇の時には、山県、大山、山本等の如き陸海軍の名将があったが、今度の時はあたかも第1次世界大戦の独国のごとく、軍人が跋扈(ばっこ)して大局を考えず、進むを知って、退くを知らなかったからである。戦争を続ければ三種の神器を守ることが出来ず、国民をも殺さなければならなくなったので、涙をのんで国民の種を残すべくつとめたのである・・・」。

最後の部分は、終戦のご聖断のお気持ちを述べられたことは明白ですが、このお言葉には、明治以降の我が国が採用してきた立憲君主制の本質や明治と昭和の時代の違いなどを含め、昭和天皇が“超えるに超えられなかった”我が国の統治制度上の壁(限界)に直面して苦悩されたことを述べられたものであり、天皇の敗因分析の偽らざるお気持ちだったと考えます。

▼我が国の立憲君主制度の生い立ちと特性(前段)

改めて、とかく敗因の主要因として“やり玉”にあがる「統帥権の独立」や「軍国主義の蔓延」と酷評された我が国の統治制度を理解するため、どうしても戦前の我が国の立憲君主制度についてその生い立ちと特性をじっくり振り返る必要があると考えます。少し長くなりますが、お付き合いでください。

前述のタイタス教授は、「『大日本帝国憲法』(以下、明治憲法と呼称)においては、天皇の道徳的権威が広大な『天皇大権』と言う形をとって政治的権威と融合させられた」として、「『神聖ニシテ不可侵』(第3条)と超越的地位を明らかにした上で、天皇は『統治権ヲ総攬ス』(第4条)、そして『陸海軍ヲ統帥ス』(第11条)る存在であった。これらから、憲法には、天皇に帰属させる行政、福祉、立法、非常時の多くに大権が出てくる」と解説しています。

特に、徳川時代の将軍が握っていた伝統的政治権力、中でも“軍事指揮に関する権力”を西欧の君主が持っていた大権として憲法によって造り直されたのが、第11条の「統帥権」だったとしています。

私達は、明治憲法によって「統帥権」を制度化したと思いがちですが、明治維新の初期段階から軍隊の指揮権は天皇に帰属しており、伊藤博文は、その“実態”を憲法の中で明文化しただけなのです。

事実、明治憲法発布7年前の明治15年に下賜された『軍人勅諭』は、「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」で始まり、天皇が統帥権を保持していることを示しております。

一方、タイタス教授は「欧州の多くの君主たちと違って日本の天皇は政治における自由な行動主体ではなかったが、その役割は重要だった」とするも、「天皇の役割は、“裁可者”だったのであって、“政治指導者”ではなかった」として、それは、「“他国の憲法に例を見ない明治憲法の特徴”である『輔弼(ほひつ)責任制』から来る必然の結果である」と指摘します。

なぜ「輔弼責任制」を採用し、天皇を「裁可者」としたかについては、①皇室制度の政治的権威は永遠の源泉でなければならない、②政治上の失敗が天皇の身に及んで来ないようにしなければならない、③天皇の人間的弱さが、日本の国体における皇位というものの超越的役割を危うくせぬようにしておかなければならない、との理由から来る「尊皇心旺盛な明治憲法制定者達の苦心の作だった」(奈須田氏)ことは明白です。

その中心にいたのは、まぎれもなく起草者の伊藤博文でした。プロシアから帰国したその伊藤を待っていたのは、「プロシアを手本とした専制君主制を実現する工作をやるのではないか」と恐れる人達と「天皇の『大権』を危うくするような宮廷の制度・慣行の改定に乗り出すのではないか」との警戒する人達の両サイドであり、伊藤はその狭間に立たされます。

このため、伊藤は、政府参議のポストを握ったまま、宮中に新設された制度取調局の長官に就任し宮内卿にも就任します。これら3つの重職を得た後、伊藤は「内閣制度」を創設します。この結果、宮内卿は宮内大臣となり、宮内省自体は一般政府機構の外におかれます。

「内閣制度」そのものは憲法制定以前の明治18年、太政官達によって定められました。太政官達においては、総理大臣の各大臣に対する統制権限はかなり強いものがありました。

伊藤は、自ら宮内大臣を兼務する初代総理大臣となることによって、公然と非難を受ける中、明治初期の「天皇親政」から「宮廷・政治分離」を実現しました。

そして、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らと憲法草案をまとめた伊藤は、憲法発布1年前の明治21年、憲法草案を審議するため、勅令によって「枢密院」を設置し、自ら議長に就任します。

この「枢密院」も、大統領が元首を務める共和制国家にはない機関で、イギリスの枢密院を見習ったものと考えますが、明治憲法においては、第56条に「枢密顧問」として「天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス」とあるものの、「枢密院」の記述はありません。しかし、枢密顧問により組織された「天皇の最高諮問機関」と位置付けられ、「憲法の番人」とも呼ばれました。

余談ですが、「枢密院」は、国政に隠然たる権勢を誇り、政党政治の時代にあっても、藩閥・官僚制政治の牙城をなしました。個人的には、明治憲法を「不磨の大典」に押し上げた要因の一つはこの「枢密院」の存在だったと考えますが、「満州事変」以降軍部の台頭とともにその影響力は低下します。長くなりました。今日はここまでにしておきましょう。(以下次号)

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