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「我が国の歴史を振り返る」(71) 「サンフランシスコ講和条約」締結への道程 

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▼はじめに

ようやく、本歴史シリーズも最終テーマである「サンフランシスコ講和条約」や「日米安全保障条約」締結の道程を振り返るところまでたどり着きました。

GHQの占領政策の締めくくりとして1点だけ補足しておきましょう。読者の皆様は、ユダヤ教の長老モルデガイ・モーゼの著『日本人に謝りたい』をご存知でしょうか。

モーゼ翁は、占領政策によって日本弱体化計画の中心になったのは、GHQのユダヤ人達(ニューディーラー達の一部を指しています)で、結果として「戦前まで日本が“世界に冠絶した類まれなものとして誇っていた数々のもの”を破壊してしまった」ことを「間違いだった」とし「心が痛む」と深く詫びているのです。

細部は省略せざるを得ませんが、「万世一系の天皇を頂く“君民共治”の日本――世界の歴史を通じてこのような国家は決して存在しなかったし、今後も他の民族は作り得ないだろう――このような『和』が保たれた社会に、『自由』『平等』を持ち込むと恐るべき分裂現象を起こすであろう。『和』はたちまちにして破壊されるだろう。事実、戦後の日本は今日みる如く世界でも『和』のない国になってしまった」とし、「戦前の日本精神に立ち直って欲しい」と訴えています。

このような書籍に出会うと、またしても「歴史の深遠さ」を知ったような気分になります。

本歴史シリーズの読者の中で、今回紹介しているような講話条約締結に至る道程についてすでに知識があるか、関心のある方はそれほど多くないものと想像します。戦後の日本人は、「あてがわれた歴史のみを歴史として学び、それ以外の史実にはいささかも関心を持たない」ように仕向けられ、そのことに対する疑問も不満も感じず、知らないことを恥とも思わなくなっているからです。

モーゼ翁などの言葉に接すると、私達はなにかとてつもなく大事なことを失ってしまっていると感じざるを得ないのです。だれが、何の目的で、このような日本にしたのでしょうか・・・この続きは、本シリーズの最後の総括でまた一緒に考えてみましょう。

▼対日講和に関する米国の基本原則

さて前回の続きです。ダレスが来日して、朝鮮戦争が日本を“西側主導の講和に同調させる好機”と受け止め、対日講和の促進を主張したことはすでに述べましたが、省略したところを少しさかのぼって講和までの道程を振り返ってみましょう。

対日講和について、米国国防省は北朝鮮軍の進撃が続いている間は歩み寄りをみせず、ようやく国務・国防省長官のもとで妥協が成立したのは、国連軍が38度線以北への侵攻を決定する直前の1950(昭和25)年9月7日のことでした。

そこで予備交渉の開始が合意されましたが、その際、①朝鮮における軍事情勢が有利に決着するまでは講和条約を発効しない、②米軍の駐留を継続し、それを定める米日間の2国間協定と講和条約を同時に発効させる、③日本の自衛権やその手段の保有を否認する条項を含まない、④北緯29度以南の琉球諸島に対する米国の排他的支配を確立する、⑤日本の大規模騒乱への米軍の出動が否認されない、などその後の講和条約や日米安全保障条約の“骨子”がこの時点で定まったのでした。

この合意が大統領の承認を得て、対日講和交渉の基本原則(NSC60/1)となります。この基本原則は、“朝鮮戦争や米ソ冷戦の遂行に役立つような処理方式を決定した”ともいわれ、ソ連・中国・北朝鮮に敵対する講和、すなわち「単独講和」を強行する決意を固めた原則だったのでした。

この基本原則に基づき、9月14日、トルーマン大統領は「対日講和7原則」を極東委員会に提示します。要約すれば①当事国――日本と交戦状態にあり、合意できた基礎を基づき講和を結ぶ意思を持つ国とする、②日本の国際連合への加盟、③朝鮮の独立、琉球・小笠原は米国を施政権者として国連信託統治化、④台湾・澎湖諸島、南樺太・千島列島の地位は米英ソ中で今後決定、⑤米国等と安全保障上の協力関係の存続、⑥政治的・通商的取決め等、⑦1945年9月2日以前の戦争行為から生ずる請求権の放棄。請求権に関する紛争は、特別中立裁判所で解決、などでした。

この7原則は、「請求権の放棄」を規定している点で寛大でしたが、それは、ヴェルサイユ講和条約の失敗を再現させずに日本を西側陣営に取り込むためのものであり、加えて、米国の駐留や沖縄などの分離・支配という「代償」を伴うものでした。しかし、日本の再軍備の禁止ないしは制限については全く言及がありませんでした。

▼ソ連・中国の反発

当然ながら、ソ連は、①米国は、連合国が1942年1月1日に署名した「単独講和禁止」を目指そうとしている、②台湾島の中国返還と南樺太等のソ連への返還は大戦中の諸協定ですでに決まっている、③琉球などを信託統治下に置くのは連合国の領土不拡大方針に反する、などと極めて批判的な回答を寄せます。

また米国は、対日講和問題に関しても中華人民共和国を無視する姿勢をとったため、中国は、以下のように強烈な反発姿勢を明確にします(長くなりますが、のちのちのために要約しておきましょう)。

①中華人民共和国が参加しない対日平和条約は不法かつ無効、②対日講和交渉は4大国一致の原則で進めるべき、③カイロ宣言・ヤルタ協定などの決定に基づき対日講和を推進すべき、④台湾等の中国返還、南樺太等のソ連返還などは既決の問題、⑤琉球等の信託統治化は米国の極東の侵略基地化、⑥講和後の米国の日本駐留は、ポツダム宣言に反し、アジア民族の侵略のため基地確保を意図するもの、⑦日本の再軍備の強要と侵略的勢力の復活により日本を植民地化し、アジア民族侵略の具にしようとしている、⑧日本の軍事産業の奨励により、日本の経済を搾取しようとしている、⑨中国は対日講和の早期締結を希望するが、講和条約は日本を民主化し、侵略勢力を除去することにより外国勢力の管理から開放された民主的日本だけがアジアの平和と安全に寄与し得る、などです。

ソ連や中国が求める「民主的日本」は“自分達にとって都合のいい日本”であることは明白ですが、両国は、すべての連合国の参加のもと、大戦中の諸決定に基づき、日本の民主化や外国軍隊の撤退を規定するような“全面講和”を求めており、米軍基地の継続使用や沖縄の分離・支配、さらには日本の再軍備と真っ向から対立していました。

ダレスは、国連総会などの場を利用して極東委員会構成国と予備交渉を行いますが、日本の再軍備を制限する条項の欠如については、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、ビルマなどが強い反発を示し、英国は、日本の経済活動への制限条項の欠如に不満を示します。

また、朝鮮戦争の激化とともに非同盟の立場を明確にしつつあったインドは、極東委員会の3分の2の多数決で可決という米国案に賛成しつつも、中華人民共和国に中国の代表権を認めるべきと主張するとともに、琉球等の分離、講和後の連合国軍隊の駐留、日本の再軍備への反対を表明します。

▼講和問題に対する国内の議論

我が国内においては、講和問題への関心が高まったのは、米国が積極的な姿勢を見せ始めた1949(昭和24)年秋頃でした。翌50年、(すでに述べましたように)吉田首相が全面講和を主張した南原東大総長を「曲学阿世の徒」と非難した訳は、全面講和論の影響の拡がりを恐れてのことでした。

しかし全面講和へ向けた動きは、朝鮮戦争の深刻化とともに急速な盛り上がりを見せ、1951(昭和26)年1月には、社会党が講和3原則(全面講和・中立堅持・軍事基地反対)に再軍備反対を加えた平和4原則の立場を明確にし、共産党も全面講和のための一大国民運動を提唱します。

こうした中、再びダレスが来日し、第1次日米交渉が始まりますが、それに先立ち、朝鮮戦争は中国義勇軍の参戦によって国連軍が総崩れになり、再び、国防省と国務省の間で対日講和の促進か延期かをめぐって対立が表面化します。

国務省は、朝鮮半島とは切り離して対日講和締結を求め、日本の再軍備を容易にするためNATOの太平洋版として「太平洋協定」(日本・オーストラリア・ニュージーランド・フィリピンが参加)締結まで提唱したのに比し、統合参謀本部は、あくまで朝鮮半島が有利に決着するまで待つよう主張し、日本の憲法改正と再軍備が本格化するまで待つべきとの強硬姿勢も示します。

このような米国政府の内部対立を調整するために作成されたトルーマン大統領のダレス宛書簡は、おおむね国務省案に沿っており、①米国が日本列島に相当規模の軍事力を配置すること、②日本自身の防衛力強化と太平洋島嶼国家間の相互援助協定の締結を希望することが述べられていました。

つまり、朝鮮戦争の深刻化は、日本の再軍備の圧力を一層強化したばかりか、中ソに対抗するための集団的軍事同盟を創設するという計画まで浮上させることになったのです。

日本側は、ダレスに対して「わが方の見解」を示しますが、①米国の講和7原則を歓迎、②単独講和の受け入れ、③講和条約とは別に日米安全保障条約の締結、までは肯定的でした。しかし、「米国の軍事上の必要にはいかようにも応ずる」とするも、日本の再軍備については、「国民感情や民生安定の優先、さらに近隣諸国の反発、旧軍国主義の再生の恐れなどからこれらを希望しない」との態度を鮮明にします。

これらは、保守政治家の一致した見解だったといわれますが、当時、盛り上がりつつあった全面講和の即時締結と再軍備反対の国民世論、併せて沖縄・小笠原諸島の分離に反対する運動の急速な盛り上がりなどを無視できなかったのでした。

一方、ダレス使節団は、米軍基地の継続使用を交換条件として再軍備圧力をかわそうとした日本側に対して「経済上の困難なぞ理由にならない」と再軍備をめぐって日米が激しく対立します。

この結果、日本側は、警察予備隊とは別に、陸海5万人からなる「保安隊」の創設と国家治安省の設置を骨子とする「再軍備プログラムの最初のステップ」について、条約その他の文書に明記しない“極秘”を条件に約束します。

この提案は、米国が期待した規模(約30万の軍隊)をはるかに下回るものでしたが、安保条約前文に「直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のために漸進的に自ら責任を負う」というかたちで記載され、再軍備が義務付けられることになります。

米軍基地提供についても、米側は「相互援助協定」の締結を条件としましたが、「憲法9条下にある日本は、相互援助協定締結は困難」として「安全保障条約」の中で基地供与を定めることになります。

また米国は、米軍の様々な“特権”を列挙する条約も提示しますが、国内世論の反発を恐れた日本側の要望で、条約自体は簡単なものとして、細部は“国会の批准を要しない”「行政協定」にまわすことになります。この「行政協定」は、講和条約及び安保条約発効目前の1952(昭和27)年2月に締結されます。

この結果、300件もの無期限使用の基地供与や米軍関係者の刑事裁判の治外法権や大幅な経済特権が認められ、米軍は「占領軍」から「在日米軍」と名前を変わっただけで、従来通りの“特権”を保持することになります。(以下次号)

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