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「我が国の歴史を振り返る」(68) 我が国の安全保障政策をめぐる議論

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▼はじめに

 前回、「芦田書簡」とマイケルバーガーの安全保障論を取り上げたが、占領期の後半、我が国の安全保障政策をめぐって様々な議論が行われた事実はなぜかあまり語られていません。

我が国は、この頃の情勢判断の結果を今なお引きずっています。不可知の未来をいかに見積り、事前に有効な手を打つか・・・政治や外交のみならず企業経営などあらゆる分野に共通していると考えますので、まとまりはありませんが、触れておきましょう。

▼マッカーサーの日本再軍備反対

昭和23年3月、マイケルバーガーは、「当時の4万7千人の駐留軍ではソ連の侵入に対抗できない」として、3~5個師団の日本軍の再建計画をつくり、ウイロビーなど主要幹部との会議で案をまとめるところまで持っていきますが、再軍備に反対するマッカーサーに一蹴されてしまいます。

その時のマッカーサーの状況判断は、「中国大陸では蒋介石がまだ健在で共産軍を防いでいるし、ソ連が南朝鮮を侵攻する可能性も薄い」としたようですが、この情勢判断はその後ことごとく誤りとなります。

マッカーサーは、憲法第9条を中心に自分が組み立てた日本占領方針を覆すアイデアを意地でも抑えることに情熱を燃やし、(「封じ込め」政策で有名になった)ジョージ・ケナンらが訪日し、「日本固有の自衛力保持」を主張した際にも、再軍備には強硬に反対し続けます。

その理由として、①日本の軍国主義化を恐れるアジア諸国の反発を招く、②占領軍の威信を失墜させる、③日本が再軍備しても5等国並みの軍事力しかならずソ連の脅威に対抗できない、④日本の経済力が軍事費に耐えられない、⑤日本国民が戦争放棄を支持している、などを挙げ、「日本の平和主義路線は規定路線であって、占領軍の威信の失墜、日本の世論の反発なしには変えられない」と主張します。

大統領候補から外れ、リベラル勢力の意見を取り入れる必要がなくなった後になっても保持し続けた、この“かたくなな考え”について、前述の岡崎氏は、「孤立した独断的な人物が犯しがちな誤りである」と厳しく批判しています。そして、この一貫したマッカーサーの発言は、そのまま“論理性のない”吉田茂の発言に忠実に反映されるのです。

こうしているうちに、昭和24年10月、中国に中華人民共和国が成立し、マッカーサーが考えていた「非武装日本との早期和平」は非現実のものとなります。この結果、トルーマン大統領も出席した国家安全保障会議において、「対日講和は無期延期、米軍駐留継続」が決定されます。つまり、ワシントンの大局的戦略とマッカーサー・吉田の方針の間にはかなりの齟齬が生じていたのでした。

歴史的事実としてのマッカーサーの更迭は、「朝鮮戦争」最中の昭和26年4月でしたが、昭和24年時点で、ワシントンでは「マッカーサー更迭論」が出る一方、「自主防衛できない日本は守り切れない」として“日本切り捨て論”も出たといわれます。前年の昭和23年3月、米政府は在韓米軍撤退を内定していましたので、日本撤退も実際にあり得たのでした。

▼「ドッジ・ライン」の弊害

 占領後半の日本経済についても触れておきましょう。日本経済が回復基調にあったことはすでに述べましたが、激しいインフレによって、国民生活の窮乏に拍車がかかっていました。

昭和24年2月、ジョセフ・ドッジが来日します。デトロイト銀行頭取を務めたドッジは、占領下のドイツの通貨改革に辣腕を振るったことがトルーマンに評価され、マッカーサーの財政顧問に指名されます。しかも、GHQを飛び越えて采配を振うことができる「公使」という資格を得ておりました。

古典的な自由経済論者のドッジは、さっそく、日本経済の自立と安定を目的として“財政金融引き締め政策”(いわゆる「ドッジ・ライン」)を強行します。代表的なものは、公共事業費は日本政府予算案の半額を削減、所得税減税や取引高税廃止のとりやめ、鉄道・郵便料金の5ないし6割の値上げ、などでした。

この結果は、生産の停滞、滞貨の激増、中小企業の倒産、賃金の切り下げ・不払い・遅配などを招きます。大企業は、人員整理を余儀なくされ、27万人近い官公庁労働者も首切り対象になります。

たちまち、「ドッジ・ライン」は裏目に出て、国民生活はより深刻さを増します。昭和23年に26万人だった失業者は、朝鮮戦争直前までの1年半に43万人に増加します。当然、社会不安が拡大し、「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」などの怪事件が相次いで発生、労働運動にも大打撃を与えます。

それらをGHQの権威のもとで抑えつけますが、「吉田内閣の権力の基盤は、究極的にはGHQの権力である」ことが如実に実証された例とされています。

このように、朝鮮特需で一息つくまでのこの時期は、国民全体が敗戦の結果として窮乏の辛酸をなめた“最後のドン底”だったのです。他方、緊縮財政の効果が表れ、インフレは急速に収まります。GHQは、1ドル360円の「単一為替レート」を与えて日本の国際経済への復帰を許し、我が国は、自らの手で経済再建の道を歩むことになります。

▼“赤狩り”の拡大

 前回、共産党の追放について触れましたが、GHQと吉田内閣による“レッドパージ(赤狩り)”の実態についてもう少し補足しておきます。マッカーサーは、占領直後に牢獄から釈放した日本の共産主義者達を5年後の昭和25年には“極悪人扱い”することにより、占領政策の本姓を国民に公然と見せつけました。

マッカーサーの指示を受け、吉田内閣による“赤狩り”はかなり本格的に実施されます。共産主義を少しでも匂わす出版物は無期限に発行禁止にしたことに加え、マスコミの“赤狩り”も徹底し、各報道機関は社内の共産主義者達を解雇します。その数は、初日だけでも「朝日新聞」72人、「毎日新聞」49人、「日本経済新聞」20人、「NHK」99人、「共同通信社」33人などでした(人数については諸説あります)。

全国の教職員も、共産主義者あるいは共産主義とみなされる教師も辞職を勧告され、その結果、約1200人(全体の0.2%)の教師が辞職しました。この数字を多いとみるか少ないと見るかは意見が分かれるところですが、当時は、「危機的に高い」に見なされていたようです。事実、日教組や全学連のような団体は依然として各地で共産党擁護の騒動を起こしますが、特に日教組は、「教え子を再び戦場に送るな!」のスルーガンを採用し、闘争を表明します。

このようにして、全国規模で実施された“赤狩り”は、約2万2千人に達しました。背景に「世論の支持」というか、「世論の沈黙」、つまり、共産主義者を弁護しようものなら「赤」とみなされたため、多くの国民が沈黙したこともあったようです。

この“赤狩り”は、憲法が保障する「基本的人権の保障」を犯しているのはないか、との議論もありましたが、吉田首相は、「政府は共産主義者達の追放を正当と見なした」として、逆に「憲法は、共産主義者達を犠牲にしてでも守らなければならなかった」と回想しています。

のちの共産党は、(本音ではないと推測しますが)“自分達を犠牲にした”憲法を擁護する護憲政党になるのですから、何とも不思議です。

▼日米安保条約締結への道

 さて、再度、日米安保条約締結への経緯です。昭和24年秋、イギリスから新たな条約案が示唆されますが、安全保障に関する条項はなく、米国国防総省は「現下の極東情勢の下では対日講和は時期尚早」と考えていました。

日本が再軍備すれば、その一つの解決策になり得たのでしょうが、マッカーサーは頑として聞き入れず、「日本は極東のスイスになるべき」と繰り返し語っていたのがこの時期でした。

吉田首相は、ドッジの緊縮財政を緩和する必要性をアメリカに訴えるために、50年4月、池田隼人蔵相を訪米させます。この際、吉田は「日本は早期講和を希望する。その後、日本及びアジアの安定のために米軍を駐留させる必要があるので、アメリカ側から言い出しにくいのであれば、日本側からオファーする」と池田に語り、先方の意向を打診することを命じます。

この打診によって、日本側の意向が初めてワシントン当局に直接伝わったことになりますが、GHQは、マーカーサーの頭越しで協議を行ったことに強い不快感を示します。池田蔵相は叱責され、GHQへ出入りを指し止めされます(「渡米土産事件」と呼ばれています)。

この前後に吉田・マッカーサーでどのようなやり取りがあったかは不明ですが、その年の元旦、マッカーサーは「挑発なき攻撃に対する固有の正当防衛権を完全に否定すると解釈することはできない」として、「マッカーサー3原則」の解釈時、そして「芦田修正」時にすでに認めていた「自衛権」について、初めて公にメッセージとして示します。

それから3週間後の施政方針演説において、マッカーサーと言説を合わせ、あれほど“自衛権放棄”に拘っていた吉田が「戦争放棄の趣旨に徹することは、けっして自衛権を放棄するということは意味するわけではない」として、「我が国が民主主義、平和主義を徹底し、厳守するという国民の決意が、平和を愛好する民主主義国家の信頼を確保し、相互の信頼こそ、我が国を守る安全保障である。これが国際協力を誘致する」旨を表明し、左翼から“態度豹変”として厳しい批判を受けます。

吉田は「自ら軍備がなくとも、自衛権の行使の一形態としてアメリカに守ってもらうことはできる」と明言することによって、日米安保条約締結への道を開いたのでした。

吉田はまた、憲法前文でいう「平和を愛する諸国民」を「平和を愛好する民主主義国家」―複数ではないーに言い換えています。端的に言えば、「マッカーサーの言うことを聞いて、非武装に徹しておれば、米国という平和を愛する民主主義国家が日本を守ってくれる」、それが「国際協力を誘致する」として、平和条約と日米安保条約が手結(てつがい)されることを示唆したのでした。

マッカーサーの年頭メッセージと吉田の施政方針がぴったりと符節が合っているのは、決して偶然の一致ではないと考えるべきでしょう。

▼「ダレス」来日

 「朝鮮戦争」勃発前、国内では、講和条約をめぐっては「単独講和」か「全面講和」の議論が盛んにおこなわれます。東京大学南原繁総長がアメリカ一辺倒を公に批判し、ソ連や中国を含む「全面講和」と独立後の日本の“完全中立”を主張します。これに対して吉田は、南原を「曲学阿世」(己の学問を曲げて世の流れにへつらうこと)と批判し、論争が拡大します。

この論争は、「朝鮮戦争」の勃発によって急速にしぼむのですが、「単独講和」を強力に押していた吉田は“将来が読める指導者”として株を上げる結果になります。

昭和25年5月、共和党の元上院議員ジョン・フォスター・ダレスが米国の超党派外交の役割を担い、対日講和条約の責任者としてトルーマン大統領から指名され、「朝鮮戦争」勃発直前の6月、来日します。

ダレスは、マッカーサーをはじめとするGHQ幹部や日本政府の要人らと面談し、会った日本人のほとんどが自国の安全保障について「国連に期待する」「憲法第9条によって平和を守る」のような返答をしたことに困惑します。

この時点での吉田首相の判断は、本人の述懐によれば「再軍備に対して私は正面から反対した。なぜなら日本はまだ経済的に復興していなかったからだ。経済自立のために耐乏生活を国民に強いなければならない困難な時に、軍備という非生産的なものに巨額な金を使うことは日本経済の復興を極めて遅らせたろう。・・再軍備をすればアジアの近隣諸国を刺激するかもしれなかった」だったようです。

マッカーサーや吉田の言動に加え、占領軍の原論統制のもとに他の考えが入り込む余地がなかったといえばそれまでですが、「これが戦後の日本人一般の安全保障観の出発点だったとすれば、戦後の我が国の安保思想が混迷するのは無理もないことだった」(岡崎氏)のでした。

(以下次号)

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