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「我が国の歴史を振り返る」(58)

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▼はじめに

今回は、「ポツダム宣言」と「原子爆弾」が主要テーマです。「ポツダム宣言」が発表されたポツダム市は、ベルリン市の西南方向25キロほどの郊外にあります。会談が行われた場所は、ツェツィーリエンホーフ宮殿といわれ、あたり一面に宮殿や庭園があることから、現在は世界遺産となっている宮殿群のひとつです。当時はソ連の占領下にあった地域でした。

10年ほど前になりますが、私は、欧州出張の折に現地を訪れた経験があります。会談が行われた部屋には、日本語によるイヤフォンガイドもあり、当時の状況を詳しく説明してくれました。

会談が行われた部屋にはドアが3個ありましたが、会談の際には、各ドアから米英ソの3首脳らが同時に入ったこととか、トルーマンが原子爆弾実験成功をスターリンに耳打ちした時の二人の様子などです(実は、すでにスターリンはその情報を知っていたのでした)。その場に立って、戦後処理や終戦後の主導権争いなど米英ソの駆け引きが彷彿してきたことをよく覚えています。

私はまた、40年ほど前になりますが、人類初の原子爆弾の実験が成功した米国ニューメキシコ州のアラモゴルド空軍基地周辺を通過し、基地を概観したことがあります。

基地は、ニューメキシコ州最大の工業都市アルバカーキから200キロほど離れた砂漠地帯のど真ん中に所在していますが、「人が住んでいるエリアからあまり離れていない場所でよく実験したものだ」と意外に思ったことが頭から離れず、今でも強く印象に残っています。

当時、“新型爆弾がこれほど長く後遺症を残す原子爆弾だった”との認識がなかったという説がありますが、その説を裏付ける一面かも知れません。

▼「ヤルタ会談」

昭和20年2月、クリミア半島のヤルタに米英ソ首脳が集まり、「ヤルタ会談」を実施します。

表向きはドイツ降伏後の処置でしたが、対日問題では、①ドイツ降伏後2~3か月後にソ連が対日戦に参加する、②南樺太及び隣接する島嶼はソ連に返還する、③旅順港の租借を回復する、④千島列島はソ連に引き渡す、などの「ヤルタ秘密協定」が交わされます。

あまりにソ連寄りのこの秘密協定にルーズベルト大統領がなぜそこまで譲歩したかの真意は今もって不明ですが、「ヴェノナ文書」で明らかになっているようなソ連スパイの活動に加え、この頃のルーズベルトはすでに正常な判断ができなかったとの説もあります。

アメリカ国内でもこの内容を知って憂慮したのが知日派のグルー国務次官でした。グルーは、ソ連参戦前の日本降伏の早期実現を考えたといわれます。

しかし不覚にも、この秘密協定を我が国が全く察知できていなかったのでした。当時の状況から、外務当局の情報収集力を非力として責めるのは酷というものでしょうが、これが後日、またしても我が国の判断を狂わせます。

▼特攻について

硫黄島の戦い以降、日本兵の命を賭けた神風特別攻撃隊と陸軍特別攻撃隊(特攻隊)が多用されるようになり、「カミカゼ」として米軍を震え上がらせます。終戦まで出撃し、散華した特攻隊は約2千600機、うち420機以上が米軍艦船に命中、または至近命中し、大損害を与えました。

天皇陛下も特攻隊の報告を受ける時は必ず立ち上がり、敬礼されたとの記録が残っていますが、祖国の平和を愛する家族の幸せのために身をもって守ることを光栄とした特攻隊員の手記を読むたびに、ただただ頭が下がるばかりです。

このくだりを多く引用させていただいている『立憲君主 昭和天皇』(上下)の著者・川瀬弘至氏は「先の大戦で230万人もの日本の軍人軍属が戦死した。約6千人の特攻隊員をはじめ、地雷を抱えて敵の戦車に突っ込んだ日本兵は数知れない。戦争被害者、あるいは犠牲者と呼んでしまえば、先の大戦は理解できないだろう」と述べていますが、全く同感です。

▼トルーマン大統領誕生

さて、昭和20年4月27日、欧州では、ムソリーニがパルチザンに捕らえられ、処刑されます。ドイツは国内を米英ソに蹂躙され、4月30日、ヒトラーが自殺、5月7日、無条件降伏します。これらをもって欧州戦線がすべて決着します。

その少し前の4月12日、ルーズベルト大統領が急死します。欧州戦線でも太平洋戦線でも勝利がゆるぎないところでまで来て、この機会に肖像画を描きたいとポーズをとっていた時に突然、頭を抱えて前のめりに倒れ、約2時間後に息を引き取ったのでした。死因は脳出血、63歳でした。

無条件降伏に拘ったルーズベルトの急死によって我が国を取り巻く情勢も様変わりします。ふたたび、「歴史にif」ですが、ルーズベルトがもう少し長生きしたら、日本の命運はかなり違ったものになっていたのかも知れません。

後任には、トルーマン副大統領が昇格します。ミズーリ―州出身のトルーマンは、副大統領時代、ニューヨークの超エリート大金持ちのルーズベルトからまったく相手にされなかったのは有名な話です(真偽は不明ですが、二人は就任式以来、一度も会わなかったというエピソードが残っています)が、日本にとって幸いしたのは、ルーズベルトほど無条件降伏に拘っていませんでした。

トルーマンはまた、ルーズベルトほどソ連を信用していませんでした。沖縄戦の後の九州上陸作戦で最終的な損害が約50万人から1100万人に達する分析があると聞くや、すでに大勢が決着したと思っていた戦争でこれほどの米国人の犠牲者が出ることに驚愕し、「これではソ連を利するだけ」と判断します。

ただちに、ホワイトハウスに首脳を集め、戦略会議を開きます。軍首脳は上陸作戦決行で一致しますが、会議後、無条件降伏要求の修正を持ち出されます。「戦争の早期解決には、国家としての生存と立憲君主制という条件で天皇の保持を認めてやること」との陸軍次官補マックロイの意見にトルーマンは相槌を打ちます。

こうして、スチムソン陸軍長官やグルー国務次官(前駐日大使)らが中心となって日本への降伏勧告案が検討されます。この時点で、降伏勧告があれば、歴史は変わっていたのでしょうが、ある理由で降伏勧告声明は見送られます。その理由となったのが原子爆弾の開発でした。トルーマンは、「原子爆弾が完成すれば、ソ連の参戦がなくとも日本に降伏勧告できる」と考え、完成を待つことになったのです。

そもそもトルーマンは、原子爆弾製作に関する「マンハッタン・プロジェクト」についても全く知らされていなかったようで、大統領に就任した後になって初めて、20億ドルの巨額を注いで開発が行われていること(たぶん、完成間近であることも)をスチムソン陸軍長官から聞かされたのでした。

▼「対ソ交渉」に頼る

 6月8日、我が国は御前会議で「今後採るべき戦争指導の基本大綱」を決定しますが、「あくまで戦争を完遂し、もって国体を護持し、皇土を保衛し、聖戦の目的の達成を期す」、つまり本土決戦態勢を強化する内容でした。この段階ではまだ「終戦」という言葉は一言も出てきませんでしたが、「民心の動向」に関する発言もあり、国民の厭戦気分の充満は無視できないとの認識を深めたようです。

6月22日、天皇が首相、外相、陸海両相、両総長を宮内庁に呼び、懇談会を開きます。その席上で天皇は「戦争の終結について速やかに具体的研究をして、その実現に努力することを望む」と発言されます。

この言葉を受け、鈴木内閣は、何を勘違いしたのか、「対ソ交渉」に取り組みます。米英によって無条件降伏以外の直接交渉の道が閉ざされていたため、残された唯一の選択だったとは言え、当時すでに「ヤルタ秘密協定」で“「日ソ中立条約」を破棄して「対日参戦」を約束し、南樺太や千島列島を奮い取る万全の準備をしていた”ソ連に我が国の命運を託そうとしたのです。

その後の歴史を知る立場からみると滑稽な動きに見えますが、それだけ“追い込まれていた”のでした。天皇も日に日に激しさを増す空襲の下、食糧難も深刻化するなかにあって、“藁にもすがりたい”思いから、対ソ交渉の督促と特使の派遣を提案され、近衛文麿に内諾を得るところまで話が進んでいきます。

さっそく、駐ソ大使に特使の受け入れと「戦争を速やかに終戦することを願っている。米英が無条件降伏を固執する限り、日本は戦い抜くしかなく、これによって彼我の流血が大きくするのは不本意なので、人類の幸福のためにすみやかに平和を克復することを希望する」との「聖旨」を極秘で伝えるように訓令します。

しかし、ソ連は、この「聖旨」を握りつぶし、「近衛特使の使命が明瞭でない」として対日参戦の準備が整うまで時間稼ぎをします。

▼「ポツダム宣言」

 「ポツダム会談」は7月17日から8月2日までの間、主に第2次世界大戦の戦後処理を決定するために開催されます。連合国3首脳による会談は、テヘラン、ヤルタに続き、これが3度目でした。

トルーマン大統領は外交も全く素人で、本会談においても、海千山千のチャーチルやスターリンと交渉するために、国務省が用意した分厚いQ&Aを携えて会議に出席したようです。

会談の主なテーマは、ヨーロッパの戦後処理でしたが、ポーランド問題、賠償問題、そして旧枢軸国内に成立した各政府(東欧諸国)の扱いをめぐってイギリスとソ連が激しく対立します。

会談の最中、イギリスの総選挙が行われ、保守党が大敗し、チャーチルは首相の座を追われたため途中で帰国してしまい、労働党のアトリーが首相として会議に残ります。しかし、イギリスの主張は変わらず、英ソの対立は頂点に達し、あわや決裂の危機に陥りますが、ようやくアメリカが示した「3条件」(ポーランド国境、ドイツの賠償、旧枢軸国政府問題)を英ソが受け入れ、決裂は免れます。

日本に関しては、会談が始まる前の7月15日、トルーマンはスターリンから対日参戦の確約を得ますが、7月18日、原爆実験が成功したとの報告を受けたトルーマンは、「ソ連が参戦しなくとも勝利できる」と確信し、ソ連の影響力が増大する前に日本に降伏勧告しようと決意したといわれます。

その決断の背景には、“日本がソ連を仲介して和平工作を進展中”との情報を得たスチムソン陸軍長官が対日降伏勧告をポツダム会議で行い、“ソ連が日本の懐に飛び込むことを防ごう”としたこともあったようです。

宣言の当初案には、「現皇統による立憲君主制を排除しない」と入っていたようですが、ソ連や中国などに根強かった「天皇退位論を考慮すべき」とする対日強硬派の巻き返しによって削除されてしまいます。

しかし、「吾らは日本国政府が直ちに“全日本国軍隊の無条件降伏”を宣言す」となっているように、国家に対する降伏ではなく、“軍隊の降伏を求めて”います。よって、日本民族が綿々と受け継ぎ、日本軍将兵が命に代えて守ろうとした国体は、明文化はされていなかったものの、保証されていると読み取れます。

さらに本州、北海道、九州、四国及び周辺小諸島に限定されたとはいえ主権も残り、本宣言は、対等の主権国家間の合意という形をとっていると読み取ることができるのです。

チャーチルも一部修正した上で同意し、降伏勧告案が完成します。なお、当時日本と交戦していなかったソ連側の介入はほとんどなく、蒋介石は一度も参加しておらず、チャーチルも帰国してしまったため、宣言そのものは、トルーマンが3人分の署名を行ないます。同時に、トルーマンは原爆投下命令も承認します。

このような経緯を経て、7月26日、「ポツダム宣言」は、米英中3国による共同宣言として発表されます。

宣言自体は13項目からなり、その6番目に、宣言によって示された戦争観として「日本の人々をだまし、間違った方向に導き、世界征服に誘った影響勢力や権威・権力は排除されなければならない。無責任な軍国主義が世界からなくなるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能である」と日本の軍国主義者を平和的な世界秩序の破壊者・侵略者として断定していること、10番目に「全ての戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を行うものとする」と戦争犯罪人を裁くことを明示しています。

これらを含め、終戦後の進駐軍による占領政策の考え方のほとんどは、この「ポツダム宣言」に拠っています。

▼原子爆弾の投下

翌朝27日、東郷外相から天皇陛下に対して「ポツダム宣言」の内容が報告されますが、この時点では、まだ対ソ交渉による終戦工作を捨てていなかった外務省は調整に動かず、陸海軍は「ポツダム宣言」に反発します。

軍部の突き上げをうけた鈴木首相は、28日の記者会見で「ポツダム宣言に重大な価値があるとは考えない。戦争完遂の既定方針に変更なし」と宣言無視を表明します。

この表明により「日本が宣言を拒否した」と判断したアメリカは非情な措置をとります。こうして、8月6日、人類史上初の原子爆弾が広島に投下されます。原爆投下については、米政府内でも各方面から疑念の声尾が挙がったといわれますが、前述のように、最終的にはトルーマン大統領が決定したことです。

その3日後の9日、ソ連が対ソ交渉をないがしろにして突如、満州に侵攻します。同じ日、今度は、長崎に原爆が投下されます。広島に投下されたウラン235の原爆の約1.5倍の威力があるプルトニウム239を使用した原爆でした。

ちなみに、広島・長崎の当時の犠牲者は、両市合わせて最大約24万6千人とされていましたが、その後も被爆の後遺症が続き、2019年8月現在、50万1787人の戦没者が登録されています。

トルーマンは、「2発の原爆投下は、日本への侵攻を防ぐ一助となり、日米の将兵約50万人の命が救われた」とする一方で、それを正当化するために「日本軍の真珠湾攻撃で米国は不意を突かれた」ことにも言及し、まさに西部劇の“仇討”のような理由も述べています。

1945年のギャラップ調査では、85%の米国人がトルーマン大統領の決断を支持しましたが、2018年の調査では、「日本への原爆使用は正当化できる」は56%にとどまっています。(つづく)

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